続・松永、尾道の道標・辻堂など(前)

備陽史探訪:188号」より

岡田 宏一郎

備後の道を歩く5

「備後の道」と題した道しるベ・辻堂などの探訪記を連続して掲載してもらいましたが、今回、紹介できなかったものや新しくわかった道標・辻堂などについて追加の紹介をします。

まず松永地域では、以前に「ぶら探訪 松永西歩き」で紹介した道標について再度紹介します。(あの時のぶら探訪に参加されていない人には初めてだと思いますので)

「左 松永停車場道」とある道標。
「左 松永停車場道」とある道標。

松永駅から線路に沿って西に歩くと跨線橋があります。以前ここには「西一番踏切と入り川」があり、そこに小さな大師堂があった。その踏切北側に道標(道しるべ)があった。だが跨線橋が造られ踏切がなくなり、入り川も埋められてしまった。踏切がなくなったので線路下に地下通路が出来て、地下通路階段北側のそばに道標が移設された。ほぼ以前あった場所に近い位置に建立されている。道標には「左 松永停車場道」と彫られ、反対側には「右 鞆街道」とあり「大正二年一月 松永町青年會」とある。

神村公民館前の国道そばの踏切にある道標。
「東 西尾道市二里半」とある。
(東とは「東側」ということである)

松永駅から国道二号線を東へ行くと神村公民館前の踏切の北詰角に道標がある。それには「東 西尾道市二里半」と彫られているが、この「東」とあるのは道標の東面から見て西へ尾道市まで二里半ということである。(以下同じ意味である)また「北 南松永町十町」と「西 東福山市三□」(里ヵ?))とある。南面には「南 御大典記念 昭和三年十一月 神村青年團建」と彫られている。

赤坂の分かれ道にある道標。「左 延谷須江ヲ經テ本郷村約一里」とある。

さらに神村の団地から西に下り赤坂側に少し入った国道北側の旧道を行くと道の分岐点の角にセメント製の道標が立っている。それには「左 延谷須江ヲ經テ本郷村約一里」とあり「右 長者原ヲ經テ 福相村約一里」と「大正十三年一月廿六日 赤坂村青年團中」と、裏側に「東宮殿下御成婚記念」とあった。

高須町大田の辻堂と横の道が旧山陽道
である。向こうに尾道バイバスが見える。

松永から西の尾道市高須町(東尾道)まで進み、尾道バイパスから高須インターを南に下ると西側に旧道がありこれが旧山陽道である。ここに辻堂がある。堂内には11休もの地蔵尊が祀られている。

高須(東尾道)の一里塚の碑。左の道が旧山陽道である。

さらに辻堂の向こうの国道を渡ると旧山陽道(西国街道)の道が残っている。ただ山側は道がなく通ることが出来ない。この場所が高須一里塚があった場所で、石碑がある。これには「一里塚」と刻まれ「高須青年團」とある。一里塚の榎は大正13年に枯れたという。

高須町関屋地蔵尊下の角に立つ道標。この道が旧山陽道である。
碑には「右 ちかみち」とある。

ここから少し南に進むと高須関屋地蔵尊下の旧道角に道標がある。道標には「右 ちかみち」「施主 水ノ上留吉」とあるが年代はなかった。道標にある「右 ちかみち」とはまっすぐ西へ国道に沿って行く旧道より右に折れて旧山陽道を通り防地峠に至り、番所のそばの「是より東 福山領」「是より西 藝州領」の藩界の碑を見て峠を下って尾道に入った方が近道だということである。

側面には指さしで
「この方 かさがみ道」とある。

番所跡から北へ尾根道を行くと昔の道に入る。その道の角に「→ かさがみ道 900m 青木秋義」とある。年代はないが人名から判断して戦後建てられた新しい道標である。

さらに北に行くと、栗原町向山の民家に接した道の角に指さしで方向を示し「久保町に至る 畑道」とあり、側面に「この方 かさがみ道」とある。「かさがみ道」とは高須町大山田にある大己貴神社への道で、通称「かさがみさん」と呼ばれている神社である。線香を焚いてその灰を傷口に付けると皮膚病に効き目があるといわれており、12月の大祭には多くの人々がお参りに来るため、いつもはひっそりとしていた集落が賑やかになる。

この神社の境内に高さ4mの「南無妙法蓮華経」の題目石がある。この碑には「泉州堺妙国寺土佐十一烈士霊碑」と彫られている。「堺事件」について短く説明すると、明治元年二月堺に無断で上陸したフランス水兵が土佐藩兵と衝突し、フランス水兵の一人が土佐隊旗を奪って逃げた。これを契機に発砲が起こりフランス側に16名の死傷者(森鴎外の書には死者13名とある)が出た。フランス公使ロッシェは六番隊長箕浦猪之吉・小頭池上弥三吉・八番隊では隊長の西村左平次・小頭大石甚吉以下20名の処刑と巨額の賠償金15万ドル、藩主の謝罪を要求した。土佐藩では、隊長・小頭の4名以外発砲した隊士を名乗らせその25名を稲荷神社に於いて籖引きを行い、20名を選んで日蓮宗妙国寺でロッシェ以下フランス軍立ち合いのもと、次々と切腹が行われた。切腹ではみ出した内臓を公使のロッシェに向けて投げつけた隊士や、また首が落ちるまで何度も介錯するなど凄惨な状況になった。そのあまりの凄惨な場面に驚き11人目でフランス側が中止を申し入れた。これについては「フランス側の死者11名と同数の応報の数にした」との説もある。生き残った九人の隊士も土佐の田舎に流刑となった。

処刑の場面や12番目以下、処刑を免れ生き残った隊士9人についてのその後の動向については、大岡昇平の『堺港撰夷始末』の中に詳しく書かれている。堺事件が起こった背景は明治元年戊辰の歳正月に徳川慶喜の軍が鳥羽・伏見の戦いで敗れ、慶喜は大坂から江戸に逃げ帰ったことから無政府状態になった大坂は薩摩、兵庫は長州、堺は土佐藩の三藩で治安の維持にあたった。こうした政治情勢の下で起こった事件が「堺事件」であり、新政府や土佐藩にはフランスなど列強に対抗すべき力もなく、やむなく抗議に屈し、過大な要求を呑んだ事件である。

だがこの堺事件の前、慶応四年一月十一日に「神戸事件」が起こっている。これは備前池田藩兵の一部が神戸の三宮で外国兵と衝突し二名のフランス兵と一名のアメリカ兵が負傷し英米仏の陸戦隊と銃撃戦になった事件である。発砲命令を出した責任を取って第三砲兵隊長瀧善三郎が切腹した事件が「神戸事件」(地元では「三宮事件」と云っている)である。

では、なぜ堺事件の碑がここにあるのか?それは大正6年の事件後50回忌を迎えて、四国松山の日蓮宗信者の高宮平太郎氏が京都呉服問屋の高橋藤五郎氏の資金援助で、ここを日蓮宗の庭園にし碑が建てられたのである。また全国に呼び掛けて各地に碑が建立され、それらの石碑のうちの一基がここに建立されているのである。日蓮宗とのつながりは土佐藩士が切腹した寺が『妙国寺』であることも関係している。

「堺事件」について興味ある人は大正3年に発表した森鴎外の『堺事件』読んでみたらどうだろうか?短編で読みやすく鴎外らしい歴史小説なので迫力もある。だが大岡昇平の作品は、日本側とフランス側の両方の資料も駆使した解釈と推論により詳細な考証と論考を行っているからその内容は読んでいて知的満足感を与えてくれるはずである。だからこの大岡昇平の作品『堺港攘夷始末』は超お薦めである。膨大な文献、史料を駆使した濃い内容のある記述で400ページもの長編は読破するには根気がいるが、それだけに読後の充実感は十分に得られると思うのである。

もうーつ気になる尾道型と云われる「玉乗り狛犬」がすぐ近くにある。台石には「尾道市 石万上田作」と彫られており、これは「尾道石工と福山の石造物」についての講演会で話を聞き、その資料の中にある石工の「上田万兵衛」のことであろう。製作年代は分からなかったが石工の名前から「大正期~昭和期」のもので奉献者に尾道市と松山市の住民の名前が彫られていた。

※以下、次号へと続く

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2020/06/CCO_000033-7_07.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2020/06/CCO_000033-7_07-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:188号」より 岡田 宏一郎 備後の道を歩く5 「備後の道」と題した道しるベ・辻堂などの探訪記を連続して掲載してもらいましたが、今回、紹介できなかったものや新しくわかった道標・辻堂などについて追加の紹介をします。 まず松永地域では、以前に「ぶら探訪 松永西歩き」で紹介した道標について再度紹介します。(あの時のぶら探訪に参加されていない人には初めてだと思いますので) 松永駅から線路に沿って西に歩くと跨線橋があります。以前ここには「西一番踏切と入り川」があり、そこに小さな大師堂があった。その踏切北側に道標(道しるべ)があった。だが跨線橋が造られ踏切がなくなり、入り川も埋められてしまった。踏切がなくなったので線路下に地下通路が出来て、地下通路階段北側のそばに道標が移設された。ほぼ以前あった場所に近い位置に建立されている。道標には「左 松永停車場道」と彫られ、反対側には「右 鞆街道」とあり「大正二年一月 松永町青年會」とある。 松永駅から国道二号線を東へ行くと神村公民館前の踏切の北詰角に道標がある。それには「東 西尾道市二里半」と彫られているが、この「東」とあるのは道標の東面から見て西へ尾道市まで二里半ということである。(以下同じ意味である)また「北 南松永町十町」と「西 東福山市三□」(里ヵ?))とある。南面には「南 御大典記念 昭和三年十一月 神村青年團建」と彫られている。 さらに神村の団地から西に下り赤坂側に少し入った国道北側の旧道を行くと道の分岐点の角にセメント製の道標が立っている。それには「左 延谷須江ヲ經テ本郷村約一里」とあり「右 長者原ヲ經テ 福相村約一里」と「大正十三年一月廿六日 赤坂村青年團中」と、裏側に「東宮殿下御成婚記念」とあった。 松永から西の尾道市高須町(東尾道)まで進み、尾道バイパスから高須インターを南に下ると西側に旧道がありこれが旧山陽道である。ここに辻堂がある。堂内には11休もの地蔵尊が祀られている。 さらに辻堂の向こうの国道を渡ると旧山陽道(西国街道)の道が残っている。ただ山側は道がなく通ることが出来ない。この場所が高須一里塚があった場所で、石碑がある。これには「一里塚」と刻まれ「高須青年團」とある。一里塚の榎は大正13年に枯れたという。 ここから少し南に進むと高須関屋地蔵尊下の旧道角に道標がある。道標には「右 ちかみち」「施主 水ノ上留吉」とあるが年代はなかった。道標にある「右 ちかみち」とはまっすぐ西へ国道に沿って行く旧道より右に折れて旧山陽道を通り防地峠に至り、番所のそばの「是より東 福山領」「是より西 藝州領」の藩界の碑を見て峠を下って尾道に入った方が近道だということである。 番所跡から北へ尾根道を行くと昔の道に入る。その道の角に「→ かさがみ道 900m 青木秋義」とある。年代はないが人名から判断して戦後建てられた新しい道標である。 さらに北に行くと、栗原町向山の民家に接した道の角に指さしで方向を示し「久保町に至る 畑道」とあり、側面に「この方 かさがみ道」とある。「かさがみ道」とは高須町大山田にある大己貴神社への道で、通称「かさがみさん」と呼ばれている神社である。線香を焚いてその灰を傷口に付けると皮膚病に効き目があるといわれており、12月の大祭には多くの人々がお参りに来るため、いつもはひっそりとしていた集落が賑やかになる。 この神社の境内に高さ4mの「南無妙法蓮華経」の題目石がある。この碑には「泉州堺妙国寺土佐十一烈士霊碑」と彫られている。「堺事件」について短く説明すると、明治元年二月堺に無断で上陸したフランス水兵が土佐藩兵と衝突し、フランス水兵の一人が土佐隊旗を奪って逃げた。これを契機に発砲が起こりフランス側に16名の死傷者(森鴎外の書には死者13名とある)が出た。フランス公使ロッシェは六番隊長箕浦猪之吉・小頭池上弥三吉・八番隊では隊長の西村左平次・小頭大石甚吉以下20名の処刑と巨額の賠償金15万ドル、藩主の謝罪を要求した。土佐藩では、隊長・小頭の4名以外発砲した隊士を名乗らせその25名を稲荷神社に於いて籖引きを行い、20名を選んで日蓮宗妙国寺でロッシェ以下フランス軍立ち合いのもと、次々と切腹が行われた。切腹ではみ出した内臓を公使のロッシェに向けて投げつけた隊士や、また首が落ちるまで何度も介錯するなど凄惨な状況になった。そのあまりの凄惨な場面に驚き11人目でフランス側が中止を申し入れた。これについては「フランス側の死者11名と同数の応報の数にした」との説もある。生き残った九人の隊士も土佐の田舎に流刑となった。 処刑の場面や12番目以下、処刑を免れ生き残った隊士9人についてのその後の動向については、大岡昇平の『堺港撰夷始末』の中に詳しく書かれている。堺事件が起こった背景は明治元年戊辰の歳正月に徳川慶喜の軍が鳥羽・伏見の戦いで敗れ、慶喜は大坂から江戸に逃げ帰ったことから無政府状態になった大坂は薩摩、兵庫は長州、堺は土佐藩の三藩で治安の維持にあたった。こうした政治情勢の下で起こった事件が「堺事件」であり、新政府や土佐藩にはフランスなど列強に対抗すべき力もなく、やむなく抗議に屈し、過大な要求を呑んだ事件である。 だがこの堺事件の前、慶応四年一月十一日に「神戸事件」が起こっている。これは備前池田藩兵の一部が神戸の三宮で外国兵と衝突し二名のフランス兵と一名のアメリカ兵が負傷し英米仏の陸戦隊と銃撃戦になった事件である。発砲命令を出した責任を取って第三砲兵隊長瀧善三郎が切腹した事件が「神戸事件」(地元では「三宮事件」と云っている)である。 では、なぜ堺事件の碑がここにあるのか?それは大正6年の事件後50回忌を迎えて、四国松山の日蓮宗信者の高宮平太郎氏が京都呉服問屋の高橋藤五郎氏の資金援助で、ここを日蓮宗の庭園にし碑が建てられたのである。また全国に呼び掛けて各地に碑が建立され、それらの石碑のうちの一基がここに建立されているのである。日蓮宗とのつながりは土佐藩士が切腹した寺が『妙国寺』であることも関係している。 「堺事件」について興味ある人は大正3年に発表した森鴎外の『堺事件』読んでみたらどうだろうか?短編で読みやすく鴎外らしい歴史小説なので迫力もある。だが大岡昇平の作品は、日本側とフランス側の両方の資料も駆使した解釈と推論により詳細な考証と論考を行っているからその内容は読んでいて知的満足感を与えてくれるはずである。だからこの大岡昇平の作品『堺港攘夷始末』は超お薦めである。膨大な文献、史料を駆使した濃い内容のある記述で400ページもの長編は読破するには根気がいるが、それだけに読後の充実感は十分に得られると思うのである。 もうーつ気になる尾道型と云われる「玉乗り狛犬」がすぐ近くにある。台石には「尾道市 石万上田作」と彫られており、これは「尾道石工と福山の石造物」についての講演会で話を聞き、その資料の中にある石工の「上田万兵衛」のことであろう。製作年代は分からなかったが石工の名前から「大正期~昭和期」のもので奉献者に尾道市と松山市の住民の名前が彫られていた。 ※以下、次号へと続く。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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