続・松永、尾道の道標・辻堂など(後)

備陽史探訪:189号」より

岡田 宏一郎

備後の道を歩く6

前号から続く)

さて前号で脱線してしまったので話を辻堂に戻す。


栗原町松岡にも辻堂がある。「新四国八十八番霊場 六十一香園寺」の表示があり石仏が祀られている。

栗原町竹屋にあった辻堂は、千光寺道の海技学院前に移築されており、内部には石仏など何もなく祀られていない。

また栗原町東則末にも辻堂がある。第八十番国分寺として地蔵尊が祀られている。

さて地神についてですが、以前会報で「地神」さんについては尾道市街地では見ていないと書いていたが、実は一基見つけていたことを忘れていた。その地神さんは栗原川の桜土手の裏(西側)の荒神さんの敷地内に「地神」碑があり裏側に「大正九年」と彫られていた。栗原町に地神碑を見ているので、尾道の市街地にあったことを付け加え、訂正しておきます。


道標(道しるべ)だが尾道北部の原田町にもある。原田町梶山田から松永に抜ける「梶山田~小原の県道
158号線」に二基ある。一つには「小原縣道 松永 尾道市 施主□□」とあり「大正十四年九月□」と
なっている。また「寄付者 発起人 奥本□□□(吉右衛門カ?)佐藤□□」とある。もう一基の道しるべには「木公永道」と異字体で彫られている。これは松を木と公に分けた文字で「松永道」のことである。


新しく教えてもらった道標であるが、久山田町の水源地(貯水池)の周辺に三基ある。

まずダムの堰堤そばに「寄付者 尾道市奥本吉右衛門」とある道標がある。

堰堤から尾道市立大学のそばのバス停近くに「南源流」の碑がある。南から流れ込む源流の表示である。ここから尾道市立大学の化粧煉瓦造りの校舎を時計回りに貯水池をまわると最北端にあるガードレールの間に「右 尾道市 吉和町」とあり、また指さし標示で「深□□」とある。さらに「北源流」の碑もある。つまり一番北から貯水池に流れ込む渓流の表示である。


ぐるりと回って行くと池の東側にも道標がある。それには「西は三原市深町に至る約三□」とある。さらに「南は栗原を経て尾道駅に至る」とある。ここにも道標の北側に「東源流の碑があり「堰堤より480m」とあり、ここ東の源流の小川から貯水池に水が流れ込んでいた。

さらに狭い道を東へ廻って行くと「水神社」がある。そこからすぐダムの堰堤に到着した。


ここを下って戻って行くと途中に道標がある。少し前は道のそばに倒れたままになっていたが、最近起こされ、近くに移動して立て直された。その際、碑の回りを鉄枠で囲み保護している。この碑に彫られている内容は「右ハ木頃本郷ニ通ズ」とあり「左ハ久山田深ヲ経みのごふ」とある。(「みのごふ」とは美ノ郷町のことである)さらに「施主 尾道市奥本吉ヱ門」とあり「大迫青年團」と彫られていた。


多くの道標を建立している「奥本吉右衛門」(吉ヱ門)だが、調べても資料などに出てなく、今もってはっきりと分からないのである。たまたま浄土寺の参道道の玉垣に多くの人々の名前があり奥本吉右ヱ門の名前もあった。玉垣には「大正十四年五月十日」とある。

調べればまだまだ見つかるかもしれないと思うので「尾道石工の名前と狛犬や鳥居などの石造物」と「奥本吉右ヱ門」の道標には関心を持っている。力量不足ではあるが調べて行きたいと考えている。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/04/c36e6726169a26ca969003eab9c67caf.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/04/c36e6726169a26ca969003eab9c67caf-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:189号」より 岡田 宏一郎 備後の道を歩く6 (前号から続く) さて前号で脱線してしまったので話を辻堂に戻す。 栗原町松岡にも辻堂がある。「新四国八十八番霊場 六十一香園寺」の表示があり石仏が祀られている。 栗原町竹屋にあった辻堂は、千光寺道の海技学院前に移築されており、内部には石仏など何もなく祀られていない。 また栗原町東則末にも辻堂がある。第八十番国分寺として地蔵尊が祀られている。 さて地神についてですが、以前会報で「地神」さんについては尾道市街地では見ていないと書いていたが、実は一基見つけていたことを忘れていた。その地神さんは栗原川の桜土手の裏(西側)の荒神さんの敷地内に「地神」碑があり裏側に「大正九年」と彫られていた。栗原町に地神碑を見ているので、尾道の市街地にあったことを付け加え、訂正しておきます。 道標(道しるべ)だが尾道北部の原田町にもある。原田町梶山田から松永に抜ける「梶山田~小原の県道 158号線」に二基ある。一つには「小原縣道 松永 尾道市 施主□□」とあり「大正十四年九月□」と なっている。また「寄付者 発起人 奥本□□□(吉右衛門カ?)佐藤□□」とある。もう一基の道しるべには「木公永道」と異字体で彫られている。これは松を木と公に分けた文字で「松永道」のことである。 新しく教えてもらった道標であるが、久山田町の水源地(貯水池)の周辺に三基ある。 まずダムの堰堤そばに「寄付者 尾道市奥本吉右衛門」とある道標がある。 堰堤から尾道市立大学のそばのバス停近くに「南源流」の碑がある。南から流れ込む源流の表示である。ここから尾道市立大学の化粧煉瓦造りの校舎を時計回りに貯水池をまわると最北端にあるガードレールの間に「右 尾道市 吉和町」とあり、また指さし標示で「深□□」とある。さらに「北源流」の碑もある。つまり一番北から貯水池に流れ込む渓流の表示である。 ぐるりと回って行くと池の東側にも道標がある。それには「西は三原市深町に至る約三□」とある。さらに「南は栗原を経て尾道駅に至る」とある。ここにも道標の北側に「東源流の碑があり「堰堤より480m」とあり、ここ東の源流の小川から貯水池に水が流れ込んでいた。 さらに狭い道を東へ廻って行くと「水神社」がある。そこからすぐダムの堰堤に到着した。 ここを下って戻って行くと途中に道標がある。少し前は道のそばに倒れたままになっていたが、最近起こされ、近くに移動して立て直された。その際、碑の回りを鉄枠で囲み保護している。この碑に彫られている内容は「右ハ木頃本郷ニ通ズ」とあり「左ハ久山田深ヲ経みのごふ」とある。(「みのごふ」とは美ノ郷町のことである)さらに「施主 尾道市奥本吉ヱ門」とあり「大迫青年團」と彫られていた。 多くの道標を建立している「奥本吉右衛門」(吉ヱ門)だが、調べても資料などに出てなく、今もってはっきりと分からないのである。たまたま浄土寺の参道道の玉垣に多くの人々の名前があり奥本吉右ヱ門の名前もあった。玉垣には「大正十四年五月十日」とある。 調べればまだまだ見つかるかもしれないと思うので「尾道石工の名前と狛犬や鳥居などの石造物」と「奥本吉右ヱ門」の道標には関心を持っている。力量不足ではあるが調べて行きたいと考えている。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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