向島西村出身の「安保清康」と「日露戦役記念碑」にある「清種」について

日露戦争記念碑

 

※2016年3月5日に行われた『【ぶら探訪】尾道対岸 向島兼吉周辺を歩く』の資料(以下リンク)に抜けがありましたので、ここに記載します。(資料19ページ)

【ぶら探訪】尾道対岸 向島兼吉周辺を歩く


向島町の亀森八幡神社の境内に樹木に覆われた場所がある。そこに「日露戦役記念碑」がある。

その碑には「海軍大将 安保清種謹書」と彫られている。この清種の父が「安保清康」である。

清康は天保13年(1843)に御調郡向島西村の医者林金十郎の四男として生まれる。幼名は林勇吉で後に「林謙三」となる。林謙三は幕末・維新の混乱期を生き抜き活躍した人物だが知られてないためここに紹介する。(明治になって本姓の安保清康と改名する)

12歳の時、京都で基礎学力を修めその後、長崎で医学を学ぶ。長崎で外国の情報に触れ外国艦船の様子を見るに及び日本の将来に危機感を抱くようになつて医学を捨てて英語や海軍学を学ぶ。この時同室の相方が「巻 退蔵」(後の前島 密)である。慶應元年(1865)に前島密の紹介で薩摩藩の英語教師として雇われ「西郷隆盛や大久保利通」とも親交を結ぶ。慶應3年勅命による薩摩藩主島津久光の出兵に同行し勤王の志士達とも交友する。

大坂で活躍中の清康に坂本龍馬から「至急上京するように」との手紙が来た。その手紙の最後に

大兄は今しばらく命を御大事にされたく、何をなすべきか熟慮の上やがて方向を定めたら修羅か極楽かどちらでもお供つかまつり候

と書かれていた。11月11日に上京するが11月15日夜半近江屋に行くと龍馬は頭から血を流して倒れており、中岡慎太郎と取次役の藤吉も背中を切られて倒れていた。これが「近江屋事件」である。清康は在京の仲間を集め3日後に3人を埋葬して鹿児島に帰る。

同年12月に薩摩藩主から「前年の禁門の変で京都を追われ長州へ逃げた7人の公卿が京都へ帰ることを許された。そのうち6人を京都まで護送すること」との命を受け、小倉~神戸間を軍艦で輸送し、神戸~京都間を陸上護衛して年末に送り届けた。翌年の慶應4年鳥羽・伏見の戦いに遭遇、大阪湾を封鎖していた幕府側榎本艦隊と砲撃戦の末、封鎖線を突破して逃げ帰った。この年(慶應4年)7月に西郷隆盛から新潟県長岡に行く命を受けて北越戦争に参戦。薩摩藩兵300人を輸送し柏崎で兵を下した後は新潟・柏崎港の封鎖及び警備の任務に就く。

この年東京遷都・明治改元となり10月22日鹿児島に帰還する。明治2年(1869)清康は兵部省軍務官として大阪に勤務して海軍創設に尽力する。9月大村益次郎兵部大輔が来阪し「陸軍創設にも力を貸して欲しい」と説得された。だがその2日後大村益次郎は京都で暗殺される。清康は陸軍創設にも尽力するとともに散髪廃刀令を率先垂範する。

その後明治5年に海軍省に戻り軍務局水兵本部長となり「萩・秋月・佐賀の乱」の鎮圧に活躍する。明治10年の西南戦争では新政府の臨時海軍軍務局で情報収集や軍需物資・兵員輸送の軍務にあたる。明治18年に佐賀藩士の子ども「澤野康二郎」を養子とし「安保清種」(きよかず)と改名させ、9年後に自分の一人娘の操子(あやこ)と結婚させる。

この「安保清種」が日露戦争の日本海海戦の時「軍艦三笠」で砲術長として活躍した人物で後、海軍大将・海軍大臣になった人物である。ここにある「日露戰役記念碑」に「安保清種謹書」と刻まれている清種がその人物である。さて清種であるが明治23年49歳の時、海軍中将となり海軍大学校長、翌年佐世保鎮守府長官になるが体調を崩し予備役となって静養する。その後明治28年に現役に復帰するが明治42年に68歳で生涯を終える。こうした経歴を知って「日露戰役記念碑」を見て欲しい。

引用及び参考文献

  • 「文化財新聞及び歴史ジャーナル(NPO法人尾道文化財研究所)男爵安保清康自叙伝」

(岡田宏一郎)

【日露戰役記念碑】

 

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/04/3375ff311ce66ec808a1c74f607d920f.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/04/3375ff311ce66ec808a1c74f607d920f-150x100.jpg管理人近世近代史  ※2016年3月5日に行われた『【ぶら探訪】尾道対岸 向島兼吉周辺を歩く』の資料(以下リンク)に抜けがありましたので、ここに記載します。(資料19ページ) 【ぶら探訪】尾道対岸 向島兼吉周辺を歩く 向島町の亀森八幡神社の境内に樹木に覆われた場所がある。そこに「日露戦役記念碑」がある。 その碑には「海軍大将 安保清種謹書」と彫られている。この清種の父が「安保清康」である。 清康は天保13年(1843)に御調郡向島西村の医者林金十郎の四男として生まれる。幼名は林勇吉で後に「林謙三」となる。林謙三は幕末・維新の混乱期を生き抜き活躍した人物だが知られてないためここに紹介する。(明治になって本姓の安保清康と改名する) 12歳の時、京都で基礎学力を修めその後、長崎で医学を学ぶ。長崎で外国の情報に触れ外国艦船の様子を見るに及び日本の将来に危機感を抱くようになつて医学を捨てて英語や海軍学を学ぶ。この時同室の相方が「巻 退蔵」(後の前島 密)である。慶應元年(1865)に前島密の紹介で薩摩藩の英語教師として雇われ「西郷隆盛や大久保利通」とも親交を結ぶ。慶應3年勅命による薩摩藩主島津久光の出兵に同行し勤王の志士達とも交友する。 大坂で活躍中の清康に坂本龍馬から「至急上京するように」との手紙が来た。その手紙の最後に 大兄は今しばらく命を御大事にされたく、何をなすべきか熟慮の上やがて方向を定めたら修羅か極楽かどちらでもお供つかまつり候 と書かれていた。11月11日に上京するが11月15日夜半近江屋に行くと龍馬は頭から血を流して倒れており、中岡慎太郎と取次役の藤吉も背中を切られて倒れていた。これが「近江屋事件」である。清康は在京の仲間を集め3日後に3人を埋葬して鹿児島に帰る。 同年12月に薩摩藩主から「前年の禁門の変で京都を追われ長州へ逃げた7人の公卿が京都へ帰ることを許された。そのうち6人を京都まで護送すること」との命を受け、小倉~神戸間を軍艦で輸送し、神戸~京都間を陸上護衛して年末に送り届けた。翌年の慶應4年鳥羽・伏見の戦いに遭遇、大阪湾を封鎖していた幕府側榎本艦隊と砲撃戦の末、封鎖線を突破して逃げ帰った。この年(慶應4年)7月に西郷隆盛から新潟県長岡に行く命を受けて北越戦争に参戦。薩摩藩兵300人を輸送し柏崎で兵を下した後は新潟・柏崎港の封鎖及び警備の任務に就く。 この年東京遷都・明治改元となり10月22日鹿児島に帰還する。明治2年(1869)清康は兵部省軍務官として大阪に勤務して海軍創設に尽力する。9月大村益次郎兵部大輔が来阪し「陸軍創設にも力を貸して欲しい」と説得された。だがその2日後大村益次郎は京都で暗殺される。清康は陸軍創設にも尽力するとともに散髪廃刀令を率先垂範する。 その後明治5年に海軍省に戻り軍務局水兵本部長となり「萩・秋月・佐賀の乱」の鎮圧に活躍する。明治10年の西南戦争では新政府の臨時海軍軍務局で情報収集や軍需物資・兵員輸送の軍務にあたる。明治18年に佐賀藩士の子ども「澤野康二郎」を養子とし「安保清種」(きよかず)と改名させ、9年後に自分の一人娘の操子(あやこ)と結婚させる。 この「安保清種」が日露戦争の日本海海戦の時「軍艦三笠」で砲術長として活躍した人物で後、海軍大将・海軍大臣になった人物である。ここにある「日露戰役記念碑」に「安保清種謹書」と刻まれている清種がその人物である。さて清種であるが明治23年49歳の時、海軍中将となり海軍大学校長、翌年佐世保鎮守府長官になるが体調を崩し予備役となって静養する。その後明治28年に現役に復帰するが明治42年に68歳で生涯を終える。こうした経歴を知って「日露戰役記念碑」を見て欲しい。 引用及び参考文献 「文化財新聞及び歴史ジャーナル(NPO法人尾道文化財研究所)男爵安保清康自叙伝」 (岡田宏一郎) 【日露戰役記念碑】  備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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