上田玄蕃直重の決意

備陽史探訪:188号」より

根岸 尚克

福山藩水野家四代勝種の寛文六年(一六六六)九月、筆頭家老上田玄蕃直重は日蓮宗妙政寺を東町から吉津に移した。同じ年、同宗で奈良津にある中世からの格式を誇る賓相寺に水野家下屋敷を本堂として寄進した。これは棟札から分かった。翌年には尼崎から同宗の長正寺を引いている。そして妙政寺を長男、賓相寺を次男、長正寺を三男の香華院とした。三ケ寺共福山城からほぼ鬼門に当る。そして妙政寺には二代勝俊を中心に殉死した七名の墓を左右に配した。いづれも五輪塔式の立派なものである。殉死者の墓は東町に妙政寺があった時には小さなものだったが、吉津に移す時に尊大なものに造り変えた。これらの事から直重の並々ならぬ決意が読み取れる。

妙政寺 長久山京妙傳寺末 刈屋より来ル モト東町寂圓寺前ニアリ上田玄蕃此所ニ移ス

實相寺 法鏡山モト見照山 甲州久遠寺末 尼日達開創 法鏡寺宮ヨリ寄附ノモノアリトテ今ノ山號ニ改ム 上田玄蕃香火院ナリ

長正寺 高光山本國寺末 日達ト云住持ノトキ上田玄蕃此ニウツス

(福山志料)

上田氏は直重の曾祖父無尽斎の時から刈屋城主水野忠重(勝成の父)の家老で以後清兵衛平六近正 掃部かもん 玄蕃直重 玄蕃直次迄代々家老を勤めた。平六近正は織田信長支族尾州岩崎城主丹羽右近大夫氏勝の子式部少輔の子で上田家の養嗣ようじとなった人で紋は織田木瓜(福山志料)。直次の時、水野姓を許される。家禄三千石。水野勝俊の慶安五年、息女万寿が病になった時直重の勧めで東町妙政寺で祈祷し、勝俊は病気が全快した暁には一代限りで日蓮宗に改宗すると約束した。水野家は元来、男は曹洞宗、女は浄土宗であった。勝俊は直重から多大な影響を受けている事が分かる。妙政寺は上田家の菩提寺として刈屋から移した寺であり、長正寺も上田家と縁の寺と思われる。

ところが三代勝貞が江戸参府中に溜池藩邸で没した時は(寛文二年(一六六二)十月二十九日 三十八才)殉死は安田孫之進まごのじょう重次の一人のみであった。先代の七人に対し余りに少な過ぎる。直ぐ家中でふつふつと非難が巻き起こった。当然殉死すると思われた勝貞の代に取り立てられ立身出世した者達が殉死しないばかりかわずか三歳の四代勝種を擁し権力機構を作り始めた事は直重等の旧重臣達には我慢出来無い事であった。

例えば稲熊三右衛門の履歴は、寛永十九年勝貞が靭城で部屋住みの時、児小姓。正保二年新知百石。慶安元年二百石。承応二年五百石。明暦二年千五百石の家老。非難の対象となった下村弥市右衛門、広田太郎兵衛、岡田杢右衛門、山口清兵衛も同様、勝貞に取り立てられた者ばかりである。然し彼らには殉死出来無い理由があった。事実彼らは勝貞生前中に殉死を願い出たが勝貞は殉死を禁じた。「追腹を切る様な事あらばあの世で深く勘当申し付ける」とまで言って、五名には生き残って勝種の補佐をする様命じたのであった。

然しこうした事情等知る由もない家中の者達は五名の側近を卑怯者、恥知らずと罵り、政権を取り戻したい直重らが扇動した。そして居たたまれなくなった五名は、寛文三年二月九日勝貞死後百ケ日に勝貞菩提寺江戸常林寺の墓前において、我は追腹にあらず武士として恥辱に堪えかね切腹する也として悉く切腹した。彼らは勝貞から追腹は禁止されていたから民部様(勝種) の御為に忠死すると言う名分を立て、御嗣目の御祝儀相済み候を待ち奉り件の如くに候、と遺書を残している。この一連の事を寛文の水野家騒動と言う。

当時、現在の福山八幡神社の東の宮は惣堂八幡神社と呼ばれていたが発音が騒動に通じるというので延広と改めている。直重はこの後の寛文六年、二代勝俊が亡くなって干支が一巡した年を期して冒頭の一連の事を断行した。これからは福山藩水野家は代々筆頭家老として主家と運命を共にして来た上田家が守って行くとの決意を示した。精神的支えとして刈屋時代から家の宗派である日蓮宗寺院を鬼門守護として配置した。妙政寺は東町から移してまで、長正寺は既に鬼門守護として弘住寺があるにも係わらず。

こうして藩の主導権を握った直重は切腹した側近達の嫡子と一家は追放、連なる者は減石や役替えを行った。例えば、猪熊三右衛門の嫡男内蔵助は知行召上げ七十人扶持に落とされている。勝俊に殉死した七名の墓は忠義とはかくあるべきとの事を家中の士に示す為大きなものにした。直重が亡くなったのは延宝四年(一六七六)妙政寺に葬る。然し後を継いだ玄蕃直次の時、反動で父の代処分された者達が再出仕をする事となる。猪熊内蔵助は延宝五年七月十八日江戸において勝種に御目見得新知五百石となっている。元禄十年八月藩主勝種作州津山城請取を命じられたが、出発前夜に吐血、当日明け方に死去する。この時直次は有馬温泉に藩費で遊興中で藩内から反発を買う。五代勝峯が当歳で当主となるも将軍御目見得の為江戸出府中麻疹はしかで死去。水野家断絶となり、直次も浪人となり行方知れずとなった。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/000033.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/000033-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:188号」より 根岸 尚克 福山藩水野家四代勝種の寛文六年(一六六六)九月、筆頭家老上田玄蕃直重は日蓮宗妙政寺を東町から吉津に移した。同じ年、同宗で奈良津にある中世からの格式を誇る賓相寺に水野家下屋敷を本堂として寄進した。これは棟札から分かった。翌年には尼崎から同宗の長正寺を引いている。そして妙政寺を長男、賓相寺を次男、長正寺を三男の香華院とした。三ケ寺共福山城から略(ほぼ)鬼門に当る。そして妙政寺には二代勝俊を中心に殉死した七名の墓を左右に配した。いづれも五輪塔式の立派なものである。殉死者の墓は東町に妙政寺があった時には小さなものだったが、吉津に移す時に尊大なものに造り変えた。これらの事から直重の並々ならぬ決意が読み取れる。 妙政寺 長久山京妙傳寺末 刈屋より来ル モト東町寂圓寺前ニアリ上田玄蕃此所ニ移ス 實相寺 法鏡山モト見照山 甲州久遠寺末 尼日達開創 法鏡寺宮ヨリ寄附ノモノアリトテ今ノ山號ニ改ム 上田玄蕃香火院ナリ 長正寺 高光山本國寺末 日達ト云住持ノトキ上田玄蕃此ニウツス (福山志料) 上田氏は直重の曾祖父無尽斎の時から刈屋城主水野忠重(勝成の父)の家老で以後清兵衛平六近正 掃部(かもん) 玄蕃直重 玄蕃直次迄代々家老を勤めた。平六近正は織田信長支族尾州岩崎城主丹羽右近大夫氏勝の子式部少輔の子で上田家の養嗣(ようじ)となった人で紋は織田木瓜(福山志料)。直次の時、水野姓を許される。家禄三千石。水野勝俊の慶安五年、息女万寿が病になった時直重の勧めで東町妙政寺で祈祷し、勝俊は病気が全快した暁には一代限りで日蓮宗に改宗すると約束した。水野家は元来、男は曹洞宗、女は浄土宗であった。勝俊は直重から多大な影響を受けている事が分かる。妙政寺は上田家の菩提寺として刈屋から移した寺であり、長正寺も上田家と縁の寺と思われる。 ところが三代勝貞が江戸参府中に溜池藩邸で没した時は(寛文二年(一六六二)十月二十九日 三十八才)殉死は安田孫之進(まごのじょう)重次の一人のみであった。先代の七人に対し余りに少な過ぎる。直ぐ家中でふつふつと非難が巻き起こった。当然殉死すると思われた勝貞の代に取り立てられ立身出世した者達が殉死しないばかりか僅(わず)か三歳の四代勝種を擁し権力機構を作り始めた事は直重等の旧重臣達には我慢出来無い事であった。 例えば稲熊三右衛門の履歴は、寛永十九年勝貞が靭城で部屋住みの時、児小姓。正保二年新知百石。慶安元年二百石。承応二年五百石。明暦二年千五百石の家老。非難の対象となった下村弥市右衛門、広田太郎兵衛、岡田杢右衛門、山口清兵衛も同様、勝貞に取り立てられた者ばかりである。然し彼らには殉死出来無い理由があった。事実彼らは勝貞生前中に殉死を願い出たが勝貞は殉死を禁じた。「追腹を切る様な事あらばあの世で深く勘当申し付ける」とまで言って、五名には生き残って勝種の補佐をする様命じたのであった。 然しこうした事情等知る由もない家中の者達は五名の側近を卑怯者、恥知らずと罵り、政権を取り戻したい直重らが扇動した。そして居たたまれなくなった五名は、寛文三年二月九日勝貞死後百ケ日に勝貞菩提寺江戸常林寺の墓前において、我は追腹にあらず武士として恥辱に堪えかね切腹する也として悉く切腹した。彼らは勝貞から追腹は禁止されていたから民部様(勝種) の御為に忠死すると言う名分を立て、御嗣目の御祝儀相済み候を待ち奉り件の如くに候、と遺書を残している。この一連の事を寛文の水野家騒動と言う。 当時、現在の福山八幡神社の東の宮は惣堂八幡神社と呼ばれていたが発音が騒動に通じるというので延広と改めている。直重はこの後の寛文六年、二代勝俊が亡くなって干支が一巡した年を期して冒頭の一連の事を断行した。これからは福山藩水野家は代々筆頭家老として主家と運命を共にして来た上田家が守って行くとの決意を示した。精神的支えとして刈屋時代から家の宗派である日蓮宗寺院を鬼門守護として配置した。妙政寺は東町から移してまで、長正寺は既に鬼門守護として弘住寺があるにも係わらず。 こうして藩の主導権を握った直重は切腹した側近達の嫡子と一家は追放、連なる者は減石や役替えを行った。例えば、猪熊三右衛門の嫡男内蔵助は知行召上げ七十人扶持に落とされている。勝俊に殉死した七名の墓は忠義とはかくあるべきとの事を家中の士に示す為大きなものにした。直重が亡くなったのは延宝四年(一六七六)妙政寺に葬る。然し後を継いだ玄蕃直次の時、反動で父の代処分された者達が再出仕をする事となる。猪熊内蔵助は延宝五年七月十八日江戸において勝種に御目見得新知五百石となっている。元禄十年八月藩主勝種作州津山城請取を命じられたが、出発前夜に吐血、当日明け方に死去する。この時直次は有馬温泉に藩費で遊興中で藩内から反発を買う。五代勝峯が当歳で当主となるも将軍御目見得の為江戸出府中麻疹(はしか)で死去。水野家断絶となり、直次も浪人となり行方知れずとなった。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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