「備陽史探訪:188号」より
会長 田口 義之
大河ドラマの効用
大河ドラマの魅力は、歴史を身近に感じられることである。私自身もそうであるが、歴史への関心は、子どもの頃見た「源義経」にはじまり、緒方拳主演の「太閤記」の頃になると、土曜日、学校から帰ると、昼食をほおばりながらテレビに噛り付いたものである。 多くの方は大河をきっかけに「歴史好き」になったのではあるまいか。
大河のテーマが発表されると、関連した書籍が本屋の店頭に並ぶことも慣例となった。中にはレベルの高い本もあり、歴史学の水準をあげる契機にもなっている。
今年の大河は『真田丸』、そのものズバリ、真田幸村が、大阪城の出丸として築いた「真田丸」が主題かと思いきや、そうではなく、真田家が真田丸という「船」に乗って戦国の荒波を掻き分けて進む、というのも『真田丸』に懸けてあるという。
関連した書籍も昨年春頃から目立ち始め、新書版からハードカバー、雑誌まで様々なものが並んでいる。そんな中で、筆者の目を引いたのは、笠谷和比古、黒田慶一著の『豊臣大坂城』(新潮選書)であった。中でも、笠谷氏の一連の論文には目を洗われるような思いがした。今まで教え込まれた関が原合戦から大坂落城までの歴史の流れが、実は徳川氏の側から見たもので、豊臣氏の側から見れば、徳川の天下は関が原合戦で決ったものではなく、最終的に大坂落城で決定したもの。豊臣秀頼は関が原で「一大名」に転落したなどの「通説」はとんでもない 「間違い」で、福島、黒田、加藤などの豊臣大名に対する恩賞は秀頼の名で出されたことなど、史料を挙げて実証されている(1)。
こうした「史観」の変換によって身近な郷土史を見直すのも、今後の課題である。 例えば、以前、この紙上で、「備後古城記」に登場する高田河内守と「太閤蔵入地」の関連を論じたことがある(2)。前稿では、その存在を「関が原の前」という暗黙の前提で論じたが、黒田氏の論考で「大坂方給人」が伊勢国や備中国など広範囲に存在することが明らかにされ(3)、それが「関が原以後」にも存在した可能性が浮かんできた。 こうした事例は他にも存在するかもしれない。 備後古城記や他の近世史料もこうした目で見直すことが必要であろう。
大坂城に入城した備後武士
大坂冬の陣が起った慶長一九年(一六一四)、備後地方は新領主福島正則を迎えて既に十四年、その支配体制は磐石なものになりつつあった。入封翌年には太閤検地の原則に則った「福島検地」を断行、兵農分離を徹底させ、それまでの中世的な体制は急速に払拭されつつあった(4)。
浪人して帰農したかつての国人・土豪の子孫は少なからずいたはずであるが、豊臣秀頼の激に応じて大坂に入城したと伝わる者は意外に少ない。「備後古城記」や各種の近世の記録で、大坂入城が伝わるのは次の三人である。
福山市内では、沼隈郡山南の土豪桑田氏の一族が大坂に入城したという。丸山城主平左衛門尉景房の子と伝わる弥兵衛尉元房がいる(5)。大坂での活躍は知られていないが、落城後、無事に故郷へ帰り、「御土居」に居住して生を終えたという。景房、元房共に実在の人物で、「末葉」の与左衛門将義は水野勝成に仕え録三百石を賜ったと言い、一族は豪農・豪商として近代まで栄えている。
近世の地誌「西備名区」の著者として知られている馬屋原呂平翁の先祖も大坂寵城の勇士であったと伝える。「西備名区」によると、神石郡小畑村九鬼城の城主であった馬屋原備前守重春は、関が原合戦後浪人して、備後府中に隠れ住んでいたが、故主毛利輝元の密命を受けて、先の桑田元房、同じ浪人の小野景忠と共に大坂に寵城、落城後は帰国して再び府中に隠棲したという(6)。
備後の旧大名であった毛利輝元が、内々に豊臣秀頼を援助したという伝えは、佐野道可の物語として伝わっている。道可の本名は内藤元盛と言い、宍戸元秀の息子であったが、母が内藤興盛の娘であったことから、興盛の家督を継いで内藤氏を名乗った。宍戸氏は毛利氏の親類であったから、元盛は毛利氏の重臣といっていい地位にあった。
秀頼の招請を受けた毛利輝元は、表面ではその依頼を鄭重に断ったが、豊臣氏勝利の場合を考えて、元盛を代理として大坂に入城させた。元盛ならば輝元の従兄弟でもあり、その代理として十分な立場にあった。但し、もしもの場合(豊臣氏滅亡)、毛利氏に禍を及ぼさないため、「佐野道可」と改名させ、十分な軍資金と兵糧を持たせて大坂に入城させたという。「もしもの場合」の可能性が高かったわけだから、輝元の処置は賢明であろう。実際、佐野道可は落城後徳川方に捕らえられ、輝元はその弁明に躍起となった(7)。
元盛としても、その危険性は十分承知していた。防長国内の毛利氏の家臣を引き連れて大坂に入城するわけにはいかない。そこで、旧領国の安芸・備後で密かに兵を集めるということなったのであろう。関が原合戦からまだ十四年、腕に覚えのある浪人は沢山いた。馬屋原、小野、桑田の三名が選ばれたのは、まず信頼に耐え得る人物であったことであろう。馬屋原重春は浪人したとは言え、元は一城の主、次男の数馬は輝元に従って萩にいる。小野景忠も同様だ。景忠は芦田郡久佐の領主楢崎豊景の四男で佐渡守と称し、大変な武辺者であったと伝える(8)。桑田元房も武辺では二人に劣らなかったはずだ。しかも、毛利氏の旧臣とは言え「浪人」である。捕えられても毛利氏に答が及ぶ恐れはない。
もし、大坂方が勝てば彼等は再び世に出ることが出来る。こうして、彼等は大坂城に入城した。
残念ながら、彼等の夢は叶わなかった。冬の陣の損害に懲りた徳川方は大坂城の堀を埋めてしまい、裸城にした上で再度攻め(夏の陣)、遂に豊臣氏を滅ぼしたのである。
勝成と大坂の陣
大坂冬夏の陣は、その後備後十万石に封じられた水野勝成にとっても大きな出来事であった。勝成の活躍は、家康との逸話から過小評価されることが多いが、夏の陣の勝敗を分けた「道明寺の戦い」が徳川方勝利の内に終わり、豊臣方の敗北を決定付けたのは勝成の働きによるもので(9)、この功績が開運となり元和五年の備後入封となったものである。
最後に、小野景忠の逸話(10)を紹介して、この稿を終えるとしよう。大坂落城後、景忠は再び府中に隠棲していた。備後十万石の大名となった勝成は、領内に触れを出して、景忠の居所を探させた。府中の庄屋は、これを「落人狩り」と考えて、勝成に「景忠は既に病死しました」と報告した。これを聞いた勝成は残念がり、「もし存命ならば高禄で召抱えたものを」と周囲に語ったという。勝成は大坂の陣で景忠の武者振りを眼前にしており、その勇壮な姿は敵ながら天晴れであったという。
- (1)『豊臣大坂城』第四章関が原合戦後の政治体制-「太閤様御置目の如く」-
- (2)拙稿「高田河内守と太閤蔵入地」(備陽史探訪180号)
- (3)『豊臣大坂城』第五章秀頼の「パクス・オーザカーナ」
- (4)『福山市史』中巻など
- (5)備後叢書本「備後古城記」
- (6)『西備名区』巻五十六神石郡小畠村九鬼城の項
- (7)堀智博「毛利輝元と大坂の陣」(柏書房刊『偽りの秀吉像を打ち壊す』2013)
- (8)『西備名区』巻五十三芦田郡久佐村楢崎朝山二子城の項など
- (9)『豊臣大坂城』第十章夏の陣と落城
- (10)注(8)及び「備後古城記」
https://bingo-history.net/archives/24069https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/kiri.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/kiri-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:188号」より
会長 田口 義之 大河ドラマの効用
大河ドラマの魅力は、歴史を身近に感じられることである。私自身もそうであるが、歴史への関心は、子どもの頃見た「源義経」にはじまり、緒方拳主演の「太閤記」の頃になると、土曜日、学校から帰ると、昼食をほおばりながらテレビに噛り付いたものである。 多くの方は大河をきっかけに「歴史好き」になったのではあるまいか。 大河のテーマが発表されると、関連した書籍が本屋の店頭に並ぶことも慣例となった。中にはレベルの高い本もあり、歴史学の水準をあげる契機にもなっている。 今年の大河は『真田丸』、そのものズバリ、真田幸村が、大阪城の出丸として築いた「真田丸」が主題かと思いきや、そうではなく、真田家が真田丸という「船」に乗って戦国の荒波を掻き分けて進む、というのも『真田丸』に懸けてあるという。 関連した書籍も昨年春頃から目立ち始め、新書版からハードカバー、雑誌まで様々なものが並んでいる。そんな中で、筆者の目を引いたのは、笠谷和比古、黒田慶一著の『豊臣大坂城』(新潮選書)であった。中でも、笠谷氏の一連の論文には目を洗われるような思いがした。今まで教え込まれた関が原合戦から大坂落城までの歴史の流れが、実は徳川氏の側から見たもので、豊臣氏の側から見れば、徳川の天下は関が原合戦で決ったものではなく、最終的に大坂落城で決定したもの。豊臣秀頼は関が原で「一大名」に転落したなどの「通説」はとんでもない 「間違い」で、福島、黒田、加藤などの豊臣大名に対する恩賞は秀頼の名で出されたことなど、史料を挙げて実証されている(1)。 こうした「史観」の変換によって身近な郷土史を見直すのも、今後の課題である。 例えば、以前、この紙上で、「備後古城記」に登場する高田河内守と「太閤蔵入地」の関連を論じたことがある(2)。前稿では、その存在を「関が原の前」という暗黙の前提で論じたが、黒田氏の論考で「大坂方給人」が伊勢国や備中国など広範囲に存在することが明らかにされ(3)、それが「関が原以後」にも存在した可能性が浮かんできた。 こうした事例は他にも存在するかもしれない。 備後古城記や他の近世史料もこうした目で見直すことが必要であろう。 大坂城に入城した備後武士 大坂冬の陣が起った慶長一九年(一六一四)、備後地方は新領主福島正則を迎えて既に十四年、その支配体制は磐石なものになりつつあった。入封翌年には太閤検地の原則に則った「福島検地」を断行、兵農分離を徹底させ、それまでの中世的な体制は急速に払拭されつつあった(4)。 浪人して帰農したかつての国人・土豪の子孫は少なからずいたはずであるが、豊臣秀頼の激に応じて大坂に入城したと伝わる者は意外に少ない。「備後古城記」や各種の近世の記録で、大坂入城が伝わるのは次の三人である。 福山市内では、沼隈郡山南の土豪桑田氏の一族が大坂に入城したという。丸山城主平左衛門尉景房の子と伝わる弥兵衛尉元房がいる(5)。大坂での活躍は知られていないが、落城後、無事に故郷へ帰り、「御土居」に居住して生を終えたという。景房、元房共に実在の人物で、「末葉」の与左衛門将義は水野勝成に仕え録三百石を賜ったと言い、一族は豪農・豪商として近代まで栄えている。 近世の地誌「西備名区」の著者として知られている馬屋原呂平翁の先祖も大坂寵城の勇士であったと伝える。「西備名区」によると、神石郡小畑村九鬼城の城主であった馬屋原備前守重春は、関が原合戦後浪人して、備後府中に隠れ住んでいたが、故主毛利輝元の密命を受けて、先の桑田元房、同じ浪人の小野景忠と共に大坂に寵城、落城後は帰国して再び府中に隠棲したという(6)。 備後の旧大名であった毛利輝元が、内々に豊臣秀頼を援助したという伝えは、佐野道可の物語として伝わっている。道可の本名は内藤元盛と言い、宍戸元秀の息子であったが、母が内藤興盛の娘であったことから、興盛の家督を継いで内藤氏を名乗った。宍戸氏は毛利氏の親類であったから、元盛は毛利氏の重臣といっていい地位にあった。 秀頼の招請を受けた毛利輝元は、表面ではその依頼を鄭重に断ったが、豊臣氏勝利の場合を考えて、元盛を代理として大坂に入城させた。元盛ならば輝元の従兄弟でもあり、その代理として十分な立場にあった。但し、もしもの場合(豊臣氏滅亡)、毛利氏に禍を及ぼさないため、「佐野道可」と改名させ、十分な軍資金と兵糧を持たせて大坂に入城させたという。「もしもの場合」の可能性が高かったわけだから、輝元の処置は賢明であろう。実際、佐野道可は落城後徳川方に捕らえられ、輝元はその弁明に躍起となった(7)。 元盛としても、その危険性は十分承知していた。防長国内の毛利氏の家臣を引き連れて大坂に入城するわけにはいかない。そこで、旧領国の安芸・備後で密かに兵を集めるということなったのであろう。関が原合戦からまだ十四年、腕に覚えのある浪人は沢山いた。馬屋原、小野、桑田の三名が選ばれたのは、まず信頼に耐え得る人物であったことであろう。馬屋原重春は浪人したとは言え、元は一城の主、次男の数馬は輝元に従って萩にいる。小野景忠も同様だ。景忠は芦田郡久佐の領主楢崎豊景の四男で佐渡守と称し、大変な武辺者であったと伝える(8)。桑田元房も武辺では二人に劣らなかったはずだ。しかも、毛利氏の旧臣とは言え「浪人」である。捕えられても毛利氏に答が及ぶ恐れはない。 もし、大坂方が勝てば彼等は再び世に出ることが出来る。こうして、彼等は大坂城に入城した。 残念ながら、彼等の夢は叶わなかった。冬の陣の損害に懲りた徳川方は大坂城の堀を埋めてしまい、裸城にした上で再度攻め(夏の陣)、遂に豊臣氏を滅ぼしたのである。 勝成と大坂の陣
大坂冬夏の陣は、その後備後十万石に封じられた水野勝成にとっても大きな出来事であった。勝成の活躍は、家康との逸話から過小評価されることが多いが、夏の陣の勝敗を分けた「道明寺の戦い」が徳川方勝利の内に終わり、豊臣方の敗北を決定付けたのは勝成の働きによるもので(9)、この功績が開運となり元和五年の備後入封となったものである。 最後に、小野景忠の逸話(10)を紹介して、この稿を終えるとしよう。大坂落城後、景忠は再び府中に隠棲していた。備後十万石の大名となった勝成は、領内に触れを出して、景忠の居所を探させた。府中の庄屋は、これを「落人狩り」と考えて、勝成に「景忠は既に病死しました」と報告した。これを聞いた勝成は残念がり、「もし存命ならば高禄で召抱えたものを」と周囲に語ったという。勝成は大坂の陣で景忠の武者振りを眼前にしており、その勇壮な姿は敵ながら天晴れであったという。 (1)『豊臣大坂城』第四章関が原合戦後の政治体制-「太閤様御置目の如く」-
(2)拙稿「高田河内守と太閤蔵入地」(備陽史探訪180号)
(3)『豊臣大坂城』第五章秀頼の「パクス・オーザカーナ」
(4)『福山市史』中巻など
(5)備後叢書本「備後古城記」
(6)『西備名区』巻五十六神石郡小畠村九鬼城の項
(7)堀智博「毛利輝元と大坂の陣」(柏書房刊『偽りの秀吉像を打ち壊す』2013)
(8)『西備名区』巻五十三芦田郡久佐村楢崎朝山二子城の項など
(9)『豊臣大坂城』第十章夏の陣と落城
(10)注(8)及び「備後古城記」管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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