新市町相方城跡に就いて(築城者は誰なのか?)
「備陽史探訪:72号」より
田口 義之
最近、新市の相方城跡に関する議論が喧しい。我々備南に住むものは「同城跡は天正初年、有地元盛によって築かれた」と信じ込んでいたのであるが、「同城跡の石垣は早くて天正末年、石垣の技術から見て、文禄から慶長年間の築造とするのが最も妥当である。たかが田舎の一国人に過ぎない有地氏に築けるものではない」とする説(中井均『相方城跡の石垣についての一考察』中世城郭研究第九号等)が飛び出し、たちまち全国を風靡する勢いである。
果たして、相方城跡の石垣は、そんなに新しいものなのだろうか。ここでは相方城跡に関する文献資料を検討し、私なりにこの問題に迫ってみたいと思う。
先学(芸備第七集小都隆『広島県相方城跡の研究』箸)が指摘しているように、この城跡に関する同時代史料は存在しない。今日見ることが出来るものは江戸期に著された左の文献のみである。
- 『備陽六郡志』(一八世紀後半)
- 『福山志料』(一八〇九完成)
- 『西備名区』(一八〇四完成)
- 『備後古城記』(不詳江戸後期か)
- 『相方村古城主有地殿先祖覚』(江戸前期)
※『萩藩閥閲録』八十三有地右衛門書出は、以前に述べた(拙稿『備後有地氏について』芸備地方史研究一四六号)ように誤りが多く、ここでは取らない。
最も注目されるのは『備後六郡志』と、『相方村古城主有地殿先祖覚』である。『備陽六郡志』は、相方村古城の項で城主を有地美作守とし、「神辺を初、所々の古城、石垣を崩し、家普請、川除などに遣ひ侍れとも、営城は石垣全して馬出し堀なとの形残れり。」と述べ、同城の石垣がほぼ完全に残ったのは、戸手天王社の別当が社殿造営の際、当城の石垣を使用できるよう、村の庄屋と契約したためだと伝えている。
また、『相方村古城主有地殿先祖覚』(福山城博物館鏡櫓文書館に写本がある)は、その奥書を信ずるなら、江戸前期の寛永一八年(一六四一)の成立となり、相方城跡に関する最も古い文献と言うことになる。同書によると、相方城は、宮氏から分かれた有地氏の三代元森(ママ、元盛のこと)が、
宮領うばわれ候事無念とや被思召、一度宮領御切取可被成たくみにて相方村城を被成無程宮領不残切取宮之有地元森之御名乗被成候
と旧宮領を奪回するため相方城を築いたとある。年代は書かれていないが、続いて「天正時分より森(毛利)様拾弐ケ国の軍大将被仰付候由」とあるから天正年間のことと考えられる。
更に同書は次の二点で重要である。一つは、同書が相方城跡の所在する相方村在住の人物によって著された事である。奥書に見える後藤氏は有地氏の遺臣と伝える家で(西備名区)、後藤姓は今でも相方地方に多数存在する。今一つは、同書が相方城跡に関する他の二つの文献(西備名区及び福山志料巻之八人物有地氏の条)の元に成ったと考えられることである。
この点は厳密な文献批判を行う必要があるが、もしこの二点が認められるとしたら、導き出される結論は簡単である。先の『備陽六郡志』の記述と相まって、同城跡に関する伝承は有地氏の築城とするもの以外は地元に伝わっていなかったことが確認されるのである(地元の農民に過酷な負担を強いたはずの石垣普請が全く忘れ去られると言うことがあり得るだろうか)。
最近の論者は、相方城を織豊期城郭として捉え、その石垣の築造年代を文禄・慶長期にまで下げて考える傾向がある。同城を単に石垣のみを見て考察すれば確かにそうであろう。しかし、なぜ文献資料にそのことが現れないのか、という疑間に対しては明確な答えが用意されていないようである。また、同城跡出土の瓦(天正初年と推定)に関しても恣意的な説明がなされがちである。更に、慶長初年築城論者に最も致命的な欠陥、同時期の毛利氏系山城に類例が見られないのはなぜか、という根本的な問題が残されている。
筆者は、闇雲に有地氏築城説を主張しようとするものではない。只、文献資料から判断する限り、現時点では、有地氏以外に築城主体者はあり得ないと思うのみである。
https://bingo-history.net/archives/13583https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2013/05/430ee6ef13d5d10741d91b93dbb1490f1.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2013/05/430ee6ef13d5d10741d91b93dbb1490f1-150x100.jpg中世史「備陽史探訪:72号」より 田口 義之 最近、新市の相方城跡に関する議論が喧しい。我々備南に住むものは「同城跡は天正初年、有地元盛によって築かれた」と信じ込んでいたのであるが、「同城跡の石垣は早くて天正末年、石垣の技術から見て、文禄から慶長年間の築造とするのが最も妥当である。たかが田舎の一国人に過ぎない有地氏に築けるものではない」とする説(中井均『相方城跡の石垣についての一考察』中世城郭研究第九号等)が飛び出し、たちまち全国を風靡する勢いである。 果たして、相方城跡の石垣は、そんなに新しいものなのだろうか。ここでは相方城跡に関する文献資料を検討し、私なりにこの問題に迫ってみたいと思う。 先学(芸備第七集小都隆『広島県相方城跡の研究』箸)が指摘しているように、この城跡に関する同時代史料は存在しない。今日見ることが出来るものは江戸期に著された左の文献のみである。 『備陽六郡志』(一八世紀後半) 『福山志料』(一八〇九完成) 『西備名区』(一八〇四完成) 『備後古城記』(不詳江戸後期か) 『相方村古城主有地殿先祖覚』(江戸前期) ※『萩藩閥閲録』八十三有地右衛門書出は、以前に述べた(拙稿『備後有地氏について』芸備地方史研究一四六号)ように誤りが多く、ここでは取らない。 最も注目されるのは『備後六郡志』と、『相方村古城主有地殿先祖覚』である。『備陽六郡志』は、相方村古城の項で城主を有地美作守とし、「神辺を初、所々の古城、石垣を崩し、家普請、川除などに遣ひ侍れとも、営城は石垣全して馬出し堀なとの形残れり。」と述べ、同城の石垣がほぼ完全に残ったのは、戸手天王社の別当が社殿造営の際、当城の石垣を使用できるよう、村の庄屋と契約したためだと伝えている。 また、『相方村古城主有地殿先祖覚』(福山城博物館鏡櫓文書館に写本がある)は、その奥書を信ずるなら、江戸前期の寛永一八年(一六四一)の成立となり、相方城跡に関する最も古い文献と言うことになる。同書によると、相方城は、宮氏から分かれた有地氏の三代元森(ママ、元盛のこと)が、 宮領うばわれ候事無念とや被思召、一度宮領御切取可被成たくみにて相方村城を被成無程宮領不残切取宮之有地元森之御名乗被成候 と旧宮領を奪回するため相方城を築いたとある。年代は書かれていないが、続いて「天正時分より森(毛利)様拾弐ケ国の軍大将被仰付候由」とあるから天正年間のことと考えられる。 更に同書は次の二点で重要である。一つは、同書が相方城跡の所在する相方村在住の人物によって著された事である。奥書に見える後藤氏は有地氏の遺臣と伝える家で(西備名区)、後藤姓は今でも相方地方に多数存在する。今一つは、同書が相方城跡に関する他の二つの文献(西備名区及び福山志料巻之八人物有地氏の条)の元に成ったと考えられることである。 この点は厳密な文献批判を行う必要があるが、もしこの二点が認められるとしたら、導き出される結論は簡単である。先の『備陽六郡志』の記述と相まって、同城跡に関する伝承は有地氏の築城とするもの以外は地元に伝わっていなかったことが確認されるのである(地元の農民に過酷な負担を強いたはずの石垣普請が全く忘れ去られると言うことがあり得るだろうか)。 最近の論者は、相方城を織豊期城郭として捉え、その石垣の築造年代を文禄・慶長期にまで下げて考える傾向がある。同城を単に石垣のみを見て考察すれば確かにそうであろう。しかし、なぜ文献資料にそのことが現れないのか、という疑間に対しては明確な答えが用意されていないようである。また、同城跡出土の瓦(天正初年と推定)に関しても恣意的な説明がなされがちである。更に、慶長初年築城論者に最も致命的な欠陥、同時期の毛利氏系山城に類例が見られないのはなぜか、という根本的な問題が残されている。 筆者は、闇雲に有地氏築城説を主張しようとするものではない。只、文献資料から判断する限り、現時点では、有地氏以外に築城主体者はあり得ないと思うのみである。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 中世を読む