「備陽史探訪:159号」より
(前号158号の続きです)
小林定市氏 遺稿
5、神嶋捏造の地誌と問題点
備後神嶋村こそは古代からの神嶋村であると、最初に主張した地誌は『西備名区』である。同書が書かれた年を確定する史料に欠けるが、文化元年(一八〇四)以前であることは確かである。
神嶋村の歴史に関して同書は、
元和五年、水野侯當國御拝領の頃迄は此邊入海にて、此處に船着の湊ありて神嶋町と言ひしとそ、後、水野侯、福山築城あつて、此處の町架を城下江移され、神嶋町上中下三町となる。其跡なる哉、此處を古神嶋と言ふ。萬葉に、載せられし神嶋は此處也。かみしま一転してかしまと云と見へたり。(中略)嶋にあらず海部の地方也。
と、神嶋は万葉に載せられた土地と解説している。
主な誤りを列挙すると、
①万葉の神嶋は備後沼隈郡と主張。
②神嶋村の前身地名、鹿嶋村が数十年以上に亘って使用されていた事実を知らない。水野勝成が入部当時から、町であったと書いているが実際は村であった。
③「海部」は根拠の無い盲説で沼隈郡には海部は存在しなかった。
『西備名区』は神嶋村の条に、福山の北方に「穴の湾」があったと書いており「穴の湾」(穴の海)の範囲は、東方に当る安那郡の竹田村と御領村の辺りから、西の芦田郡の出口村・目崎村に及ぶ巨大な「穴の湾」と書いている。
実在しなかった「穴の湾」の周径を計算すると、東西約二十㎞に及ぶ大海が存在していたことなる。更に「沼隈郡は名方の海の一大嶋なりし」と沼隈郡が島であったとも書く等、出典を明示せず根拠の無い出鱈目を書いている。しかし、当該地域においては縄文時代以降『西備名区』説を裏付ける海の痕跡は未だ発見されていない。
竹田村や出口村は海抜十数mの地点にあり、備後の古代に竹田村や出口村迄海岸線があったとすれば、福山湾岸の縄文貝塚は海面より十m前後も海底に潜ってしまう。
備後「穴の湾」鋭は、馬屋原重帯が自分の想像力を働かせて作った虚構の作り話の産物に過ぎなかった。備後神嶋は不透明な通説が尊重されてきたのであるが、客観的な根拠に基付き「史料重視の視座」から議論されるが肝要である。
6、備後神嶋近辺の遺跡調査
福山湾神嶋近辺の不明であった古代の中洲が、近年の調査発掘により明らかになった。十年前神嶋町の東を流れる芦田川の北方、約千m上流の中洲地点の発掘調査「北本庄河床遺跡」から、弥生時代中・後期の集落跡が発見され、福山湾の奥の中州では約二千年以前から弥生人が生活を営んでいた。
神嶋町から約千m東南下流の草戸中洲に関する、草戸千軒の研究書『中世瀬戸内の港町』に依ると、遺跡の西北部が利用されるようになるのは、平安時代前期の十世紀初頭(九〇〇)頃と発表されている。
神嶋町を中心とした芦田川の上流と下流の遺跡の発掘調査により、弥生時代より四~七百年程度経過した万葉の時代、神嶋村周辺水域は土砂が堆積し、大型船は航行不可能な状況となっていた実情が判明した。
仮に万葉の大型船が福山湾の袋小路となっている、最奥地鹿嶋に着岸できたとしても、其のまま鞆沖又は笠岡神嶋沖迄引き返したのでは何の意味もなく、危険を伴うだけの海域を三十㎞以上も不要な航海を行った可能性は考えられない。
文献史学と神嶋町近辺の発掘調査により、備後古神嶋説は神話と同様の虚説であることが判明した。福山では史実の正史として肯定的に受け入れたため、神嶋村の古代史は身動きが出来ない機能不全の状況に陥つていた。歴史誤認の発信源は『西備名区』で、備中神嶋村に対し多大な迷惑を掛けてきたのである。
問題の地誌『西備名区』の筆者は、起草僅か百数十年以前の前身地名鹿嶋村さえ承知していなかった。
また鹿嶋村と神嶋村の村名の相違に気付かず、単なる宛字の相違程度と軽視してきた節がある。鹿嶋村の使用頻度例が少ないといった原因にも依るが、最初の地名鹿嶋村は長年気付かれず見逃されてきた。しかし、正規の地名鹿嶋又は鹿嶋村と呼称された時代は、最小限に見積もっても七十年以上も存続していた。
以上神嶋村名に関し種々の検討を加えてきたのであるが、備後の神嶋村が確実な史料に登場するのは、十八世紀初頭のことである。他方備中神嶋の古代地名は、一つの嶋でなく塩飽七島と同様、神嶋周辺の島々を含めての総称と考えられる。
笠岡諸島(高島・白石嶋・北木嶋・小飛嶋・大飛嶋・六嶋)を神嶋と呼称していたと仮定すれば問題点は一挙に解消する。神嶋外浦の神嶋神社は、同地より南約二㎞先の高嶋(笠岡市)王泊祀られていたが、後に現在地に遷座したと伝えられている。王泊には王泊遺跡があり、遺物は縄文・古墳・奈良に至る多量の土器類が検出されている。
備中神嶋の南方には潮待ち風町の嶋、大飛島があり同島の「大飛島洲の南遺跡」から古代人(奈良~平安時代)が、海上交通の安全の祈願を行った祭祀跡が発見されている。
此の祭祀跡(奈良三彩・皇朝銭・宋銭・銅鏡・装身具・須恵器の壷等が出土)がある大飛島こそ、神嶋と呼ぶのに最も相応しい嶋である。大飛島は福山の神嶋村より約二十三㎞程度南方に立地しているが、此の祭祀跡遺跡こそ万葉集に歌われた「神の嶋」の不動の証であろう。
【備後鹿嶋村・神島村の成立と、備中神島村関係年表】
天平八年 | (七五九) | (410頃~759)備後神島の記載(『万葉集』13・15) |
延長五年 | (九二七) | 式内社備後沼隈郡三座。備中神島神社あり。(『延喜式』巻10神祇) |
建久九年 | (一一九八) | 主基方の御屏風、備中国神嶋神両所有『続拾遺集』 |
天正二十年 | (一五九二) | 備後鹿嶋の初見は「鹿嶋と云ふ所に」『九州の道の記』『続紀行文集』 |
慶長六年 | (一六〇一) | 備後国に鹿嶋村が誕生。福嶋検地が実施。史料不詳。 |
元和五年 | (一六一九) | 備後国沼隈郡鹿嶋村『備陽六郡志』内篇2「備後国福山領高辻村々帳」 |
元和五年 | (一六一九) | 備中囲小田郡神之嶋村『備陽六郡志』内篇「備後国福山領高辻村々帳」 |
寛永十七年 | (一六四〇) | 沼隈郡鹿嶋村の分町、福山城大手門前の鹿嶋町が火災で焼失。 |
寛永十八年 | (一六四一) | 鹿嶋町人神島町へ移転・神嶋の初見(『小場家文書』水野勝重書状10) |
寛永十八年 | (一六四一) | 「其の地鹿嶋町跡」鹿嶋町跡を武家屋敷(『小場家文書』勝重書状13) |
寛文四年 | (一六六四) | 備後国沼隈郡鹿嶋村・幕府奉行(『結城水野家文書』「領知之目録」25) |
寛文四年 | (一六六四) | 備中国小田郡神嶋村・幕府奉行(『結城水野家文書』「領知之目録」25) |
元禄十三年 | (一七〇〇) | 神嶋村の初記載。『備後国沼隈郡神島村御検地水帳』広島大学蔵 |
享保始頃 | (一七一七) | 吉田彦兵衛建久九年の大嘗会を備中国神嶋に同定(『水野記』十四) |
文化一年頃 | (一八〇四) | 沼隈郡神島村「万葉に載せられし神島は此の所也」『西備名区』 |
文化六年 | (一八〇九) | 「万葉集十三は備後神島。横間浦は備後神島の出崎の潰」『福山志料』 |
大正十二年 | (一九二三) | 沼隈郡の神島村「古代からの備後神島に比定」『沼隈郡誌』 |
昭和五七年 | (一九八二) | 沼隈郡の神島村「古代からの備後神島に比定」『広島県の地名』 |
昭和五七年 | (一九八二) | 沼隈郡の神島村「古代からの備後神島に比定」『広島県大百科事典』 |
昭和六二年 | (一九八七) | 沼隈郡の神島村「古代からの備後神島に比定」『日本地名大辞典』 |
平成十四年 | (二〇〇二) | 沼隈郡の神島村「古代からの備後神島に比定」『公報 ふくやま』 |
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備後の神嶋村伝説1
https://bingo-history.net/archives/549https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2011/04/dea9ffe71a3c560dd1bc5708d98329ba.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2011/04/dea9ffe71a3c560dd1bc5708d98329ba-150x100.jpg管理人近世近代史備陽史探訪,神嶋村,論考「備陽史探訪:159号」より (前号158号の続きです)
小林定市氏 遺稿 5、神嶋捏造の地誌と問題点
備後神嶋村こそは古代からの神嶋村であると、最初に主張した地誌は『西備名区』である。同書が書かれた年を確定する史料に欠けるが、文化元年(一八〇四)以前であることは確かである。 神嶋村の歴史に関して同書は、 元和五年、水野侯當國御拝領の頃迄は此邊入海にて、此處に船着の湊ありて神嶋町と言ひしとそ、後、水野侯、福山築城あつて、此處の町架を城下江移され、神嶋町上中下三町となる。其跡なる哉、此處を古神嶋と言ふ。萬葉に、載せられし神嶋は此處也。かみしま一転してかしまと云と見へたり。(中略)嶋にあらず海部の地方也。 と、神嶋は万葉に載せられた土地と解説している。 主な誤りを列挙すると、 ①万葉の神嶋は備後沼隈郡と主張。
②神嶋村の前身地名、鹿嶋村が数十年以上に亘って使用されていた事実を知らない。水野勝成が入部当時から、町であったと書いているが実際は村であった。
③「海部」は根拠の無い盲説で沼隈郡には海部は存在しなかった。 『西備名区』は神嶋村の条に、福山の北方に「穴の湾」があったと書いており「穴の湾」(穴の海)の範囲は、東方に当る安那郡の竹田村と御領村の辺りから、西の芦田郡の出口村・目崎村に及ぶ巨大な「穴の湾」と書いている。
実在しなかった「穴の湾」の周径を計算すると、東西約二十㎞に及ぶ大海が存在していたことなる。更に「沼隈郡は名方の海の一大嶋なりし」と沼隈郡が島であったとも書く等、出典を明示せず根拠の無い出鱈目を書いている。しかし、当該地域においては縄文時代以降『西備名区』説を裏付ける海の痕跡は未だ発見されていない。 竹田村や出口村は海抜十数mの地点にあり、備後の古代に竹田村や出口村迄海岸線があったとすれば、福山湾岸の縄文貝塚は海面より十m前後も海底に潜ってしまう。 備後「穴の湾」鋭は、馬屋原重帯が自分の想像力を働かせて作った虚構の作り話の産物に過ぎなかった。備後神嶋は不透明な通説が尊重されてきたのであるが、客観的な根拠に基付き「史料重視の視座」から議論されるが肝要である。 6、備後神嶋近辺の遺跡調査
福山湾神嶋近辺の不明であった古代の中洲が、近年の調査発掘により明らかになった。十年前神嶋町の東を流れる芦田川の北方、約千m上流の中洲地点の発掘調査「北本庄河床遺跡」から、弥生時代中・後期の集落跡が発見され、福山湾の奥の中州では約二千年以前から弥生人が生活を営んでいた。 神嶋町から約千m東南下流の草戸中洲に関する、草戸千軒の研究書『中世瀬戸内の港町』に依ると、遺跡の西北部が利用されるようになるのは、平安時代前期の十世紀初頭(九〇〇)頃と発表されている。 神嶋町を中心とした芦田川の上流と下流の遺跡の発掘調査により、弥生時代より四~七百年程度経過した万葉の時代、神嶋村周辺水域は土砂が堆積し、大型船は航行不可能な状況となっていた実情が判明した。 仮に万葉の大型船が福山湾の袋小路となっている、最奥地鹿嶋に着岸できたとしても、其のまま鞆沖又は笠岡神嶋沖迄引き返したのでは何の意味もなく、危険を伴うだけの海域を三十㎞以上も不要な航海を行った可能性は考えられない。
文献史学と神嶋町近辺の発掘調査により、備後古神嶋説は神話と同様の虚説であることが判明した。福山では史実の正史として肯定的に受け入れたため、神嶋村の古代史は身動きが出来ない機能不全の状況に陥つていた。歴史誤認の発信源は『西備名区』で、備中神嶋村に対し多大な迷惑を掛けてきたのである。 問題の地誌『西備名区』の筆者は、起草僅か百数十年以前の前身地名鹿嶋村さえ承知していなかった。 また鹿嶋村と神嶋村の村名の相違に気付かず、単なる宛字の相違程度と軽視してきた節がある。鹿嶋村の使用頻度例が少ないといった原因にも依るが、最初の地名鹿嶋村は長年気付かれず見逃されてきた。しかし、正規の地名鹿嶋又は鹿嶋村と呼称された時代は、最小限に見積もっても七十年以上も存続していた。 以上神嶋村名に関し種々の検討を加えてきたのであるが、備後の神嶋村が確実な史料に登場するのは、十八世紀初頭のことである。他方備中神嶋の古代地名は、一つの嶋でなく塩飽七島と同様、神嶋周辺の島々を含めての総称と考えられる。 笠岡諸島(高島・白石嶋・北木嶋・小飛嶋・大飛嶋・六嶋)を神嶋と呼称していたと仮定すれば問題点は一挙に解消する。神嶋外浦の神嶋神社は、同地より南約二㎞先の高嶋(笠岡市)王泊祀られていたが、後に現在地に遷座したと伝えられている。王泊には王泊遺跡があり、遺物は縄文・古墳・奈良に至る多量の土器類が検出されている。 備中神嶋の南方には潮待ち風町の嶋、大飛島があり同島の「大飛島洲の南遺跡」から古代人(奈良~平安時代)が、海上交通の安全の祈願を行った祭祀跡が発見されている。 此の祭祀跡(奈良三彩・皇朝銭・宋銭・銅鏡・装身具・須恵器の壷等が出土)がある大飛島こそ、神嶋と呼ぶのに最も相応しい嶋である。大飛島は福山の神嶋村より約二十三㎞程度南方に立地しているが、此の祭祀跡遺跡こそ万葉集に歌われた「神の嶋」の不動の証であろう。 【備後鹿嶋村・神島村の成立と、備中神島村関係年表】 天平八年
(七五九)
(410頃~759)備後神島の記載(『万葉集』13・15) 延長五年
(九二七)
式内社備後沼隈郡三座。備中神島神社あり。(『延喜式』巻10神祇) 建久九年
(一一九八)
主基方の御屏風、備中国神嶋神両所有『続拾遺集』 天正二十年
(一五九二)
備後鹿嶋の初見は「鹿嶋と云ふ所に」『九州の道の記』『続紀行文集』 慶長六年
(一六〇一)
備後国に鹿嶋村が誕生。福嶋検地が実施。史料不詳。 元和五年
(一六一九)
備後国沼隈郡鹿嶋村『備陽六郡志』内篇2「備後国福山領高辻村々帳」 元和五年
(一六一九)
備中囲小田郡神之嶋村『備陽六郡志』内篇「備後国福山領高辻村々帳」 寛永十七年
(一六四〇)
沼隈郡鹿嶋村の分町、福山城大手門前の鹿嶋町が火災で焼失。 寛永十八年
(一六四一)
鹿嶋町人神島町へ移転・神嶋の初見(『小場家文書』水野勝重書状10) 寛永十八年
(一六四一)
「其の地鹿嶋町跡」鹿嶋町跡を武家屋敷(『小場家文書』勝重書状13) 寛文四年
(一六六四)
備後国沼隈郡鹿嶋村・幕府奉行(『結城水野家文書』「領知之目録」25) 寛文四年
(一六六四)
備中国小田郡神嶋村・幕府奉行(『結城水野家文書』「領知之目録」25) 元禄十三年
(一七〇〇)
神嶋村の初記載。『備後国沼隈郡神島村御検地水帳』広島大学蔵 享保始頃
(一七一七)
吉田彦兵衛建久九年の大嘗会を備中国神嶋に同定(『水野記』十四) 文化一年頃
(一八〇四)
沼隈郡神島村「万葉に載せられし神島は此の所也」『西備名区』 文化六年
(一八〇九)
「万葉集十三は備後神島。横間浦は備後神島の出崎の潰」『福山志料』 大正十二年
(一九二三)
沼隈郡の神島村「古代からの備後神島に比定」『沼隈郡誌』 昭和五七年
(一九八二)
沼隈郡の神島村「古代からの備後神島に比定」『広島県の地名』 昭和五七年
(一九八二)
沼隈郡の神島村「古代からの備後神島に比定」『広島県大百科事典』 昭和六二年
(一九八七)
沼隈郡の神島村「古代からの備後神島に比定」『日本地名大辞典』 平成十四年
(二〇〇二)
沼隈郡の神島村「古代からの備後神島に比定」『公報 ふくやま』 <関連記事>
備後の神嶋村伝説1管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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