「備陽史探訪:175号」より
高木 康彦
勝成が常興寺山に城地を定めるに当って当時、福山湾の地形はどうなっていたか。この命題に対し、現代の諸本はどのように解説されているか、そして近世福山の史料はどのように書かれているかを対比してみました。
(1)正保絵図「内土手・外土手」
福山城下最古の「正保絵図」では入川の北と南に内土手・外土手が描かれている。
①内土手
内土手は脆弱なため、高潮・洪水にも耐えられるように海岸よりもかなり、内陸部に築かれ、福島時代に築かれた可能性がある。
内土手は国道二号と北浜通りの交差点辺りの勝成入封時の入川河口を通っている。河口の北岸には小場家文書によると寛永十八年(一六四一)に「川口北の堤先、薬師の前の川も見へ候所」に舟入番所が建てられた。
この舟入番所を起点に内土手があって入川南側は中央公園北側道路辺りに沿って地吹荒神社まで、入川北側は寺町の東端を北上している。
②外土手
外土手は沿岸部に築かれ、内土手より強固で水野時代初期のものと推察される。
外土手は入川南側は水野時代の入川津留(松浜町一丁目辺り)西側からほぼ、県道二十二号線に沿って高取川直前で少し北に向きを変え、地吹荒神社南辺りまで達している。
一方、入川北側は阿部時代の座床(ポートプラザ日化)西端から吉津川西岸沿いを北上している。
(二)平井隆夫説の海岸線
平井隆夫氏は著書「福山開基 水野勝成」の中で要旨、次のように述べておられる。これに対し、所見を記述する。
①常興寺山下に向かって流れていた本流をまっすぐ南に付け替え、元の水路はそのまま運河の如く使用し、また城下へ水を導いて堀に入れた。
【所見】正保絵図を始め、どの福山城下絵図も本流の痕跡らしきものは描かれていないし、本流を付け替えたという記録も残されていない。平井説の本流筋に対して実際の入川筋は北から入っているので本流筋の河口が入川とすれば水路が整合しない。
しかし、築城のとき、本橋が架かれたということは当時から本橋まで入川となっていたことになり、最深部は小さな川が流れ込んでいたと推測される。
例えば水野期の各種絵図(国立国会図書館蔵・岡山大学像)では蓮池川が蓮池の手前で分流となって南下し、能満池(西小学校グランド)を通って入川河口に注いでいる。あるいは神島橋西詰では芦田川支流の名残と思われる「池の淵」と呼ばれたかなり大きな池があったようだ(備陽六郡志)。
北西または西から流れてきた水路が小さな流れであれば泉龍寺南を通って北東に大きく向きを変え、さらに南東に大きく向きを変えて入川となるのも可能であろう。
②城下の初期造成は本橋(天下橋)を見通す南北の線で現在の国道辺りで海に接していた。
【所見】本橋を見通す南北の線(妙正寺下を結ぶ線)が初期造成(海岸)ということになれば城下草創期に現在地に移ってきたと伝える南町・妙正寺(備陽六郡志)、元和九年に創建されたと伝わる賢忠寺(おもしろふくやま史 平井隆夫著)が海中あるいは小さな中洲群の一つに位置することになる。
③妙政寺下は白砂青松の海岸だった。
【所見】本橋辺りから妙政寺下を海岸線とすると本橋の対岸が野上の中州の端となり、その先の大手門前が狭隘となるので城の正門前らしからぬ地勢となる。
④芦田川本流は国道二号線に接していた。
【所見】艮の端から流れてきた本流が国道二号線に沿うとなると、古野上の中洲の西部が北に上がり、本庄村「池の淵」(神島橋東詰)が野上村に位置してしまう。
また、「水野五代記」では「城山より山の流れ、泉龍寺の辺りまでは地続きなり」とあり、泉龍寺が国道の南に在るので整合しない。
⑤常興寺山南の海には古野上の中洲と草戸の中洲があった。
【所見】草戸の中洲は大正末期まで現存していた高取川を境に存在していたが、古野上の中洲は前項❶で述べた如く、実在しなかったと思考する。すなわち、常興寺山と野上新涯との間は大きな川で区切られていたのではなく、芦田川の小さな支流が何本か流れていたと思われる。
現に城下に向かって芦田川の本流が流れていたことは近世史料には見当たらないし、野上村・野上新涯の記述はあるものの、「野上の中洲」という語句は記述されていない。
(三)野上新涯
①野上新涯と野上村
野上新涯は後で述べる福山沖新田と同じく、中洲上にあったのではなく、常興寺山との間にせせらぎ程度の小川は在ったにせよ、本来、地続きで内土手で仕切られていた。
福山城築城まで野上村だった常興寺山下の一帯が城下となったため、野上村から除かれた。一方、内土手を超えて人々が移り住み、開拓され新涯地(野上新涯)が誕生した。そして新涯地は野上村に加えられた。
福島時代の野上村知行高は八百石だった。野上新涯が野上村に加えられたにも関わらず、水野氏改易時の元禄検地では八百八十石と僅かしか増えていないのはこのためである。
野上新涯が常興寺山下の野上村と大きな川で仕切られた中洲でなかったため同じ野上村となったと思われる。
外土手は新涯地に入植者が入ったとき、その外郭に築かれたのかも知れない。野上新涯は入川の南側で内土手と外土手の間を言う。
②野上新涯と福山沖新田
正保四年(一六四七)の小場家文書によれば参覲中の勝重は国元の重臣に対し、開拓中の福山沖新田の内、良き所を十町ばかり藩直営の新田にするよう命じた書状を出している。
この藩直営地はのちに下屋敷となる中央公園から南小学校一帯とされている。したがって福山沖新田は下屋敷地を含めた野上新涯の東部一帯を指すと考えられる。野上新涯は西部は標高が高く、比較的安定した地勢で城下形成後、元和九年(一六二三)早くも入植者があったが、東部は低地であるため、洪水に見舞われ易く、正保四年になってやっと新田開発が完了した。この野上新涯の内、東部一帯は福山城下から沖合に当たるので福山沖新田と称した。
(四)想定される福山湾海岸線
平井隆夫氏の海岸説は入川南側・北側共に城地に近く、実際はさらに沖合に在ったと考えられる。
①入川南側海岸線は「外土手」筋
内土手の外側が開拓され、野上村に加えられ、外郭に外土手が築かれた。現在の古野上町・地吹町・野上町から光南町二・三丁目・御門町・明治町に至る一帯がこれに当たる。(日本歴史地名体系)
したがって勝成入封時の海岸線は野上新涯の外郭の外土手沿いだったと思考される。
②入川北側海岸線は「内土手」筋
寛永十八年(一六四一)、御舟入の東隣の入川河口の堤先に舟入番所が設置された。勝成は寛永十六年十二月、藩主を勝重に譲り、参勤交代から解放され、寛永十七年から本格的な干拓事業を始めた。したがって当時、舟入番所から東は海だったと推測される。
舟入番所から北に向かう内土手に沿って海岸線は始まり、薬師寺前まで湾入していたようだ。
寛永十八年の小場家文書では薬師の前の川が見える所に舟入番所が建てられたとあり、また備陽六郡志では薬師寺の前は西濱と言って遠干潟だったと記述している。薬師の前から奥は吉津川のゆったり流れる芦原湿原地帯だったと思われる。
https://bingo-history.net/archives/12906https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/3f79cb24c4360756a863b15ba24977fe.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/3f79cb24c4360756a863b15ba24977fe-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:175号」より
高木 康彦 勝成が常興寺山に城地を定めるに当って当時、福山湾の地形はどうなっていたか。この命題に対し、現代の諸本はどのように解説されているか、そして近世福山の史料はどのように書かれているかを対比してみました。 (1)正保絵図「内土手・外土手」
福山城下最古の「正保絵図」では入川の北と南に内土手・外土手が描かれている。 ①内土手
内土手は脆弱なため、高潮・洪水にも耐えられるように海岸よりもかなり、内陸部に築かれ、福島時代に築かれた可能性がある。 内土手は国道二号と北浜通りの交差点辺りの勝成入封時の入川河口を通っている。河口の北岸には小場家文書によると寛永十八年(一六四一)に「川口北の堤先、薬師の前の川も見へ候所」に舟入番所が建てられた。 この舟入番所を起点に内土手があって入川南側は中央公園北側道路辺りに沿って地吹荒神社まで、入川北側は寺町の東端を北上している。 ②外土手
外土手は沿岸部に築かれ、内土手より強固で水野時代初期のものと推察される。 外土手は入川南側は水野時代の入川津留(松浜町一丁目辺り)西側からほぼ、県道二十二号線に沿って高取川直前で少し北に向きを変え、地吹荒神社南辺りまで達している。 一方、入川北側は阿部時代の座床(ポートプラザ日化)西端から吉津川西岸沿いを北上している。 (二)平井隆夫説の海岸線
平井隆夫氏は著書「福山開基 水野勝成」の中で要旨、次のように述べておられる。これに対し、所見を記述する。 ①常興寺山下に向かって流れていた本流をまっすぐ南に付け替え、元の水路はそのまま運河の如く使用し、また城下へ水を導いて堀に入れた。 【所見】正保絵図を始め、どの福山城下絵図も本流の痕跡らしきものは描かれていないし、本流を付け替えたという記録も残されていない。平井説の本流筋に対して実際の入川筋は北から入っているので本流筋の河口が入川とすれば水路が整合しない。 しかし、築城のとき、本橋が架かれたということは当時から本橋まで入川となっていたことになり、最深部は小さな川が流れ込んでいたと推測される。 例えば水野期の各種絵図(国立国会図書館蔵・岡山大学像)では蓮池川が蓮池の手前で分流となって南下し、能満池(西小学校グランド)を通って入川河口に注いでいる。あるいは神島橋西詰では芦田川支流の名残と思われる「池の淵」と呼ばれたかなり大きな池があったようだ(備陽六郡志)。 北西または西から流れてきた水路が小さな流れであれば泉龍寺南を通って北東に大きく向きを変え、さらに南東に大きく向きを変えて入川となるのも可能であろう。 ②城下の初期造成は本橋(天下橋)を見通す南北の線で現在の国道辺りで海に接していた。 【所見】本橋を見通す南北の線(妙正寺下を結ぶ線)が初期造成(海岸)ということになれば城下草創期に現在地に移ってきたと伝える南町・妙正寺(備陽六郡志)、元和九年に創建されたと伝わる賢忠寺(おもしろふくやま史 平井隆夫著)が海中あるいは小さな中洲群の一つに位置することになる。 ③妙政寺下は白砂青松の海岸だった。 【所見】本橋辺りから妙政寺下を海岸線とすると本橋の対岸が野上の中州の端となり、その先の大手門前が狭隘となるので城の正門前らしからぬ地勢となる。 ④芦田川本流は国道二号線に接していた。
【所見】艮の端から流れてきた本流が国道二号線に沿うとなると、古野上の中洲の西部が北に上がり、本庄村「池の淵」(神島橋東詰)が野上村に位置してしまう。 また、「水野五代記」では「城山より山の流れ、泉龍寺の辺りまでは地続きなり」とあり、泉龍寺が国道の南に在るので整合しない。 ⑤常興寺山南の海には古野上の中洲と草戸の中洲があった。 【所見】草戸の中洲は大正末期まで現存していた高取川を境に存在していたが、古野上の中洲は前項❶で述べた如く、実在しなかったと思考する。すなわち、常興寺山と野上新涯との間は大きな川で区切られていたのではなく、芦田川の小さな支流が何本か流れていたと思われる。 現に城下に向かって芦田川の本流が流れていたことは近世史料には見当たらないし、野上村・野上新涯の記述はあるものの、「野上の中洲」という語句は記述されていない。 (三)野上新涯
①野上新涯と野上村
野上新涯は後で述べる福山沖新田と同じく、中洲上にあったのではなく、常興寺山との間にせせらぎ程度の小川は在ったにせよ、本来、地続きで内土手で仕切られていた。 福山城築城まで野上村だった常興寺山下の一帯が城下となったため、野上村から除かれた。一方、内土手を超えて人々が移り住み、開拓され新涯地(野上新涯)が誕生した。そして新涯地は野上村に加えられた。 福島時代の野上村知行高は八百石だった。野上新涯が野上村に加えられたにも関わらず、水野氏改易時の元禄検地では八百八十石と僅かしか増えていないのはこのためである。 野上新涯が常興寺山下の野上村と大きな川で仕切られた中洲でなかったため同じ野上村となったと思われる。 外土手は新涯地に入植者が入ったとき、その外郭に築かれたのかも知れない。野上新涯は入川の南側で内土手と外土手の間を言う。 ②野上新涯と福山沖新田
正保四年(一六四七)の小場家文書によれば参覲中の勝重は国元の重臣に対し、開拓中の福山沖新田の内、良き所を十町ばかり藩直営の新田にするよう命じた書状を出している。 この藩直営地はのちに下屋敷となる中央公園から南小学校一帯とされている。したがって福山沖新田は下屋敷地を含めた野上新涯の東部一帯を指すと考えられる。野上新涯は西部は標高が高く、比較的安定した地勢で城下形成後、元和九年(一六二三)早くも入植者があったが、東部は低地であるため、洪水に見舞われ易く、正保四年になってやっと新田開発が完了した。この野上新涯の内、東部一帯は福山城下から沖合に当たるので福山沖新田と称した。 (四)想定される福山湾海岸線
平井隆夫氏の海岸説は入川南側・北側共に城地に近く、実際はさらに沖合に在ったと考えられる。 ①入川南側海岸線は「外土手」筋
内土手の外側が開拓され、野上村に加えられ、外郭に外土手が築かれた。現在の古野上町・地吹町・野上町から光南町二・三丁目・御門町・明治町に至る一帯がこれに当たる。(日本歴史地名体系) したがって勝成入封時の海岸線は野上新涯の外郭の外土手沿いだったと思考される。 ②入川北側海岸線は「内土手」筋
寛永十八年(一六四一)、御舟入の東隣の入川河口の堤先に舟入番所が設置された。勝成は寛永十六年十二月、藩主を勝重に譲り、参勤交代から解放され、寛永十七年から本格的な干拓事業を始めた。したがって当時、舟入番所から東は海だったと推測される。 舟入番所から北に向かう内土手に沿って海岸線は始まり、薬師寺前まで湾入していたようだ。 寛永十八年の小場家文書では薬師の前の川が見える所に舟入番所が建てられたとあり、また備陽六郡志では薬師寺の前は西濱と言って遠干潟だったと記述している。薬師の前から奥は吉津川のゆったり流れる芦原湿原地帯だったと思われる。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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