「石成庄上村武守名内即分田畠坪付」文書考察

備陽史探訪:175号」より

坂本 敏夫

『備後国深津郡石成庄上村武守名内即分田畠坪付』について

(端裏書)
「備州石成上村」
石成庄上村半分武守名内即分田畠坪付事
 合
四条三里八一反三百卅歩
四条三里廿九ゝ(坪ヵ)五反内屋敷半
道上条二ゝ小
南六条四ゝ二反小内神一反土一反小川成也、
南六条五ゝ二反半
南六条十ゝ八反半内三反ッ、ミソヘ
南六条十三ゝ二反
南六条十四ゝ半常一反也、
西条門
・五反六十歩内川成半
庄田
・一反六十歩
同名畠坪付
・三反内一反浄香庵屋敷替才二反公方
・二反内小手作才大工方
・半内早倉部正敷地九十歩才二工田
・一反神也、
右注進如件、
 応安三年二月三日案主
       勘解由左衛門尉□(親ヵ)成

応安三年(一三七〇)二月三日付上記文書は、これまで度々会報等で紹介しましたが、内容についてはその時々に応じて必要と考えた部分のみを史料として用いてきました。今回は全文について考察を行います。「備後国深津郡石成庄上村武守名内即分田畠坪付」と題する文書は、岩成庄上村に設けられていた「武守名」内の田・畠について、荘園領主に分布場所と面積を提示するために書き記した文書であり、現代風に解釈すれば地区最小単位地籍調査報告書とも云うべき文書である。

文書中に記述されている地名等の場所を考察するに必要と思われます図並びに条里表を記載し、推考してみます。

内容について項目ごとに推考して行きますが、推考の手懸りとなる条里地割表を右下に表示しておきます。
条理並びに坪表

一条一里は共に六町からなり、一町は三十六坪からなっている。坪呼称は千鳥坪並方式と平行坪並方式があり、地域によって異なる。

岩成庄上村地区の条里が平行式坪並であるか、千鳥式坪並であるかによって、各条の坪番7以降に違いが生ずる坪もある。

左に記載した図は一万三千分の一府中域地図を原図とし、佐々木卓也著『芸備両国の条里遺構』記載の条里図を参考として、加筆修正して作成したものです。
上村武守名説明地図

図上部の4が条里起点の立縄手、図中東西にかけての黒線1~3が古代山陽道、4近接地から図右下へかけての黒線がR182号、A~BがR486号、a~bが県R391号、2が正戸山、太黒線内の5が道上条、6が浄香庵(現浄光寺)、7が西条門、8が4条、9が六条

文書内書頂考察

条里地割表と表記地図を参考として、文書の各項について考察を行います。

各項確認に入る前に、条里図から読み取れる点を記述します。読み取れることは、加茂町中野の立縄手を基準とする条は、古代山陽道までを三条に区割りしていること。

したがって古代山陽道より南へ向かって四・五・六条と区割りがなされて行きます。里については、旧加茂川の流路と古代山陽道が交差する位置を起点として東へ向かって一・二・三と里の区割りがされていたと考えられます。

以上のことを念頭に以下各項について記述いたします。

一、「四条三里八坪」の位置

武守名説明図に記入している数字「8」の辺りが四条に相当し、それより北束の記入数字「5」の東に位置する亀山遺跡南麓辺りが3里に相当し、四条三里八坪の八坪は、右上記条里(町)表の「2ノ2」もしくは「2ノ5」に相当すると考えます。

さらに面積は一反三百三十歩と記されており、このことから考察して当時一反は三百六十歩であったと考えられます。(現代では一反は三百坪(歩)に統一されています。)

二、「四条三里二十九坪」について

四条三里の位置は、前段と同じであり、条里が平行式坪並であるか千鳥式坪並であるかに関わりなく二十九坪は、上記の条里表「5ノ5」に相当します。

三、「道上条二坪小」の位置

武守名説明図中二等辺三角形に囲んである位置、数字「5」で表示している区域が道上条に相当します。

二坪小の位置については、上記武守名説明図に示す通り道上条は、通常の条里と異なり古代山陽道が「2」の正戸山麓辺りから東進方向を、北へ振れたことにより生じた三角形の余剰地に付けられた条里呼称であるため坪位置の特定は、困難であり今後の課題としたいと考えています。

四、「南六条四坪」の位置とは

武守名説明図記入の数字「9」の位置辺りが南六条に相当し、現加茂川の西側(新川と呼称されている)部分に相当します。現御幸町下岩成地域内に過って存在していたものと考えられる。

現在「兼近」と云う名田地名と考えられる地名が存在するが、あるいは「石成庄上村武守名」内の南六条が、後に「兼近名」と呼称されるようになったか、武守名に含まれない南六条が現在地名として伝わっている「兼近」とも考えられる。

四坪とは上記の条里表「1ノ4」に相当します。面積を含む土地の内訳「二反小内神一反土一反小川成也」とは、面積は二反と少し、内訳は、神田が一反、この田からの収穫物は神に供える土貢であり、残りの一反は小川になったと記されている。

六、「南六条五坪」の位置とは

六条は前段と同じであり、五坪は上記の条里表「1ノ5」に相当する。面積は二反半である。

七、「南六条十坪」の位置とは

六条は前段と同じであり、十坪は条里表「2ノ3」又は「2ノ4」に相当する。面積は八反半、その内三反は堤に沿っているとあります。

この表記からあるいは、過って「南六条十坪」に沿って旧加茂川の流路が存在したとも考えられる。

八、「南六条十三坪」の位置とは

六条は前段前々段と同じであり、十三坪は条里表の「3ノー」に相当する。面積は2反である。

九、「南六条十四坪」とは

六条は前段前々段と同じであり、十四坪とは条里表の「3ノ2」に相当する。面積は常に一反とある。

十、「西条門」とは

「石成庄上村武守名」この文書に表記されている西の条門(かど)とは、上村内に存在する武守名が「西条」と接する位置である。

備後南部における「西条」とは、「東条」が伝来している史料等から現在の福山市上御領・下御領であり、「中条」は、神辺町中条地域が古代条里制の「中条」に相当する。

のこる「西条」は現福山市加茂町の南北に広がる加茂谷地域であると考える。

岩成庄上村と下村の境界は、これまで度々会報等の紙面にて私が述べてきています通り、旧加茂川の流路であると考えます。その事を念頭に考察しますと、「西条門」とは、古代山陽道と旧加茂川の流路が交差する。正戸山の南西の古代山陽道南側と考えられます。

十一、・五反六十歩内川成半とは

「・」は、同じという意味と考えられることから、西条門の田地は五反六拾歩あり、その内半分は川になっていると云う事を示している。

十二、庄田とは・一反六十歩とは

庄田と・一反六十歩について、一緒に考察する事で記載内容が読み取れると考える。

庄田とは、中世文書ではよく見られる「正田」と同義語と考えられ、荘政所(荘園経営の現地管理所)の直営の田地の事と考えられる。面積は一反六十歩あると読み取れる。

十三、同名畠坪付

・三反内一反澤香庵屋敷替才二反公方

・二反内小手作才大工方

・半内早倉部正敷地九十歩才二工田

・一反神也

右四行については、同一地と考えられるので一括して考察します。

まず「武守名」には田地のみならず僅かであるが、三反の畠地が存在していた事が読み取れる。内訳は、一反は浮香庵の屋敷に替えるとある。残る僅か二反は公に属し、その二反の内を大工方が僅かに畠地として使用している。残り半分の内九十歩を倉敷地とし、その他二人が匠田として僅かに使用している。一反は神さまの畠であると記載されている。

十四、「案主勘解由左衛門尉□成」とは

岩成庄上村は、応安三年当時すでに後醍醐天皇の菩提を弔う目的で、建立された京都「天龍寺」へ足利尊氏より寄進されている。

国史大辞典の「案主」の項では、大略次のように記されている「案主(あんじゅ・あんずとも)平安期の職制の一つであると同時に、荘園制における荘官呼称である」とし、荘園においての詳細は、次のように述べている。

我が国荘園に置かれた荘官は、時代により又荘園によって、その名称は多様であったが、公文・下司・案主・職事などと呼ばれるものが多かった。この内公文・下司などは、荘園内に居住してその管理・経営の責任を負ったのに対して、案主はその名のように、公文・下司などの指揮を受け、公文書の文案の作成やその保管などの仕事に携わった荘官である。

と述べられている。勘解由について国史大辞典は勘解由使の項で大略以下のように述べている。

古代から平安期にかけて設けられていた令外官の一つ「とくるよしかんがうるつかさ」といいとあり、平安時代末期までは機能していた中央官庁の職制であった

と記されており、官位は従四位下~従七位下と記している。しかし、この文書は中世荘園期の文書であるからここに記してある「勘解由」は官位と関係ないものと考える。

岩成庄上村は、この文書作成期には既に天龍寺の知行地となっており、案主としての勘解由左衛門尉□成が、文書を作成したという事を示しているにすぎないと考える。

次に各項の考察から理解できる事をまとめると以下のようになる。

一、「岩成庄上村武守名」は、岩成庄上村の内半(五〇%)を占めている事。

一、「武守名」は一円名ではなく散在名である事。

一、上村と下村の境界は、私が以前から提唱している自説「旧加茂川の流路が境界」説が、この文書の考察からも伺える事。

一、岩成上村内の武村名は、東西南北それぞれ約一・八kmの広域に点在している事。
同じく現在の道上。徳田・上岩成。下岩成地域の広域である事。

一、同名畠坪付中に記載がある「浄香庵」とは、現道上に存在する「浄土真宗本願寺派浄光寺」の前身である事。(浄光寺について伝わる言い伝えによると元禅宗寺院であった。浄光寺が浄土真宗に改宗したのは慶長十七年であることが本尊阿弥陀如来像胎内文書により証明されている。)

以上各項について推考を試み記述しました。粗雑な推考にすぎないとの御批判は甘んじお受けいたします。御批判御叱責頂ければ幸いに存じ筆を置きます。

【参考史資料】
『古文書集』京都大学文学部所蔵
『広島県史 古代。中世編V』所収
『国史大辞典』
『芸備両国の条里遺構』

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/a3e14fac203f5e6954b7c13bd686f36c.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/a3e14fac203f5e6954b7c13bd686f36c-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:175号」より 坂本 敏夫 『備後国深津郡石成庄上村武守名内即分田畠坪付』について (端裏書) 「備州石成上村」 石成庄上村半分武守名内即分田畠坪付事  合 四条三里八一反三百卅歩 四条三里廿九ゝ(坪ヵ)五反内屋敷半 道上条二ゝ小 南六条四ゝ二反小内神一反土一反小川成也、 南六条五ゝ二反半 南六条十ゝ八反半内三反ッ、ミソヘ 南六条十三ゝ二反 南六条十四ゝ半常一反也、 西条門 ・五反六十歩内川成半 庄田 ・一反六十歩 同名畠坪付 ・三反内一反浄香庵屋敷替才二反公方 ・二反内小手作才大工方 ・半内早倉部正敷地九十歩才二工田 ・一反神也、 右注進如件、  応安三年二月三日案主        勘解由左衛門尉□(親ヵ)成 応安三年(一三七〇)二月三日付上記文書は、これまで度々会報等で紹介しましたが、内容についてはその時々に応じて必要と考えた部分のみを史料として用いてきました。今回は全文について考察を行います。「備後国深津郡石成庄上村武守名内即分田畠坪付」と題する文書は、岩成庄上村に設けられていた「武守名」内の田・畠について、荘園領主に分布場所と面積を提示するために書き記した文書であり、現代風に解釈すれば地区最小単位地籍調査報告書とも云うべき文書である。 文書中に記述されている地名等の場所を考察するに必要と思われます図並びに条里表を記載し、推考してみます。 内容について項目ごとに推考して行きますが、推考の手懸りとなる条里地割表を右下に表示しておきます。 一条一里は共に六町からなり、一町は三十六坪からなっている。坪呼称は千鳥坪並方式と平行坪並方式があり、地域によって異なる。 岩成庄上村地区の条里が平行式坪並であるか、千鳥式坪並であるかによって、各条の坪番7以降に違いが生ずる坪もある。 左に記載した図は一万三千分の一府中域地図を原図とし、佐々木卓也著『芸備両国の条里遺構』記載の条里図を参考として、加筆修正して作成したものです。 図上部の4が条里起点の立縄手、図中東西にかけての黒線1~3が古代山陽道、4近接地から図右下へかけての黒線がR182号、A~BがR486号、a~bが県R391号、2が正戸山、太黒線内の5が道上条、6が浄香庵(現浄光寺)、7が西条門、8が4条、9が六条 文書内書頂考察 条里地割表と表記地図を参考として、文書の各項について考察を行います。 各項確認に入る前に、条里図から読み取れる点を記述します。読み取れることは、加茂町中野の立縄手を基準とする条は、古代山陽道までを三条に区割りしていること。 したがって古代山陽道より南へ向かって四・五・六条と区割りがなされて行きます。里については、旧加茂川の流路と古代山陽道が交差する位置を起点として東へ向かって一・二・三と里の区割りがされていたと考えられます。 以上のことを念頭に以下各項について記述いたします。 一、「四条三里八坪」の位置 武守名説明図に記入している数字「8」の辺りが四条に相当し、それより北束の記入数字「5」の東に位置する亀山遺跡南麓辺りが3里に相当し、四条三里八坪の八坪は、右上記条里(町)表の「2ノ2」もしくは「2ノ5」に相当すると考えます。 さらに面積は一反三百三十歩と記されており、このことから考察して当時一反は三百六十歩であったと考えられます。(現代では一反は三百坪(歩)に統一されています。) 二、「四条三里二十九坪」について 四条三里の位置は、前段と同じであり、条里が平行式坪並であるか千鳥式坪並であるかに関わりなく二十九坪は、上記の条里表「5ノ5」に相当します。 三、「道上条二坪小」の位置 武守名説明図中二等辺三角形に囲んである位置、数字「5」で表示している区域が道上条に相当します。 二坪小の位置については、上記武守名説明図に示す通り道上条は、通常の条里と異なり古代山陽道が「2」の正戸山麓辺りから東進方向を、北へ振れたことにより生じた三角形の余剰地に付けられた条里呼称であるため坪位置の特定は、困難であり今後の課題としたいと考えています。 四、「南六条四坪」の位置とは 武守名説明図記入の数字「9」の位置辺りが南六条に相当し、現加茂川の西側(新川と呼称されている)部分に相当します。現御幸町下岩成地域内に過って存在していたものと考えられる。 現在「兼近」と云う名田地名と考えられる地名が存在するが、あるいは「石成庄上村武守名」内の南六条が、後に「兼近名」と呼称されるようになったか、武守名に含まれない南六条が現在地名として伝わっている「兼近」とも考えられる。 四坪とは上記の条里表「1ノ4」に相当します。面積を含む土地の内訳「二反小内神一反土一反小川成也」とは、面積は二反と少し、内訳は、神田が一反、この田からの収穫物は神に供える土貢であり、残りの一反は小川になったと記されている。 六、「南六条五坪」の位置とは 六条は前段と同じであり、五坪は上記の条里表「1ノ5」に相当する。面積は二反半である。 七、「南六条十坪」の位置とは 六条は前段と同じであり、十坪は条里表「2ノ3」又は「2ノ4」に相当する。面積は八反半、その内三反は堤に沿っているとあります。 この表記からあるいは、過って「南六条十坪」に沿って旧加茂川の流路が存在したとも考えられる。 八、「南六条十三坪」の位置とは 六条は前段前々段と同じであり、十三坪は条里表の「3ノー」に相当する。面積は2反である。 九、「南六条十四坪」とは 六条は前段前々段と同じであり、十四坪とは条里表の「3ノ2」に相当する。面積は常に一反とある。 十、「西条門」とは 「石成庄上村武守名」この文書に表記されている西の条門(かど)とは、上村内に存在する武守名が「西条」と接する位置である。 備後南部における「西条」とは、「東条」が伝来している史料等から現在の福山市上御領・下御領であり、「中条」は、神辺町中条地域が古代条里制の「中条」に相当する。 のこる「西条」は現福山市加茂町の南北に広がる加茂谷地域であると考える。 岩成庄上村と下村の境界は、これまで度々会報等の紙面にて私が述べてきています通り、旧加茂川の流路であると考えます。その事を念頭に考察しますと、「西条門」とは、古代山陽道と旧加茂川の流路が交差する。正戸山の南西の古代山陽道南側と考えられます。 十一、・五反六十歩内川成半とは 「・」は、同じという意味と考えられることから、西条門の田地は五反六拾歩あり、その内半分は川になっていると云う事を示している。 十二、庄田とは・一反六十歩とは 庄田と・一反六十歩について、一緒に考察する事で記載内容が読み取れると考える。 庄田とは、中世文書ではよく見られる「正田」と同義語と考えられ、荘政所(荘園経営の現地管理所)の直営の田地の事と考えられる。面積は一反六十歩あると読み取れる。 十三、同名畠坪付 ・三反内一反澤香庵屋敷替才二反公方 ・二反内小手作才大工方 ・半内早倉部正敷地九十歩才二工田 ・一反神也 右四行については、同一地と考えられるので一括して考察します。 まず「武守名」には田地のみならず僅かであるが、三反の畠地が存在していた事が読み取れる。内訳は、一反は浮香庵の屋敷に替えるとある。残る僅か二反は公に属し、その二反の内を大工方が僅かに畠地として使用している。残り半分の内九十歩を倉敷地とし、その他二人が匠田として僅かに使用している。一反は神さまの畠であると記載されている。 十四、「案主勘解由左衛門尉□成」とは 岩成庄上村は、応安三年当時すでに後醍醐天皇の菩提を弔う目的で、建立された京都「天龍寺」へ足利尊氏より寄進されている。 国史大辞典の「案主」の項では、大略次のように記されている「案主(あんじゅ・あんずとも)平安期の職制の一つであると同時に、荘園制における荘官呼称である」とし、荘園においての詳細は、次のように述べている。 我が国荘園に置かれた荘官は、時代により又荘園によって、その名称は多様であったが、公文・下司・案主・職事などと呼ばれるものが多かった。この内公文・下司などは、荘園内に居住してその管理・経営の責任を負ったのに対して、案主はその名のように、公文・下司などの指揮を受け、公文書の文案の作成やその保管などの仕事に携わった荘官である。 と述べられている。勘解由について国史大辞典は勘解由使の項で大略以下のように述べている。 古代から平安期にかけて設けられていた令外官の一つ「とくるよしかんがうるつかさ」といいとあり、平安時代末期までは機能していた中央官庁の職制であった と記されており、官位は従四位下~従七位下と記している。しかし、この文書は中世荘園期の文書であるからここに記してある「勘解由」は官位と関係ないものと考える。 岩成庄上村は、この文書作成期には既に天龍寺の知行地となっており、案主としての勘解由左衛門尉□成が、文書を作成したという事を示しているにすぎないと考える。 次に各項の考察から理解できる事をまとめると以下のようになる。 一、「岩成庄上村武守名」は、岩成庄上村の内半(五〇%)を占めている事。 一、「武守名」は一円名ではなく散在名である事。 一、上村と下村の境界は、私が以前から提唱している自説「旧加茂川の流路が境界」説が、この文書の考察からも伺える事。 一、岩成上村内の武村名は、東西南北それぞれ約一・八kmの広域に点在している事。 同じく現在の道上。徳田・上岩成。下岩成地域の広域である事。 一、同名畠坪付中に記載がある「浄香庵」とは、現道上に存在する「浄土真宗本願寺派浄光寺」の前身である事。(浄光寺について伝わる言い伝えによると元禅宗寺院であった。浄光寺が浄土真宗に改宗したのは慶長十七年であることが本尊阿弥陀如来像胎内文書により証明されている。) 以上各項について推考を試み記述しました。粗雑な推考にすぎないとの御批判は甘んじお受けいたします。御批判御叱責頂ければ幸いに存じ筆を置きます。 【参考史資料】 『古文書集』京都大学文学部所蔵 『広島県史 古代。中世編V』所収 『国史大辞典』 『芸備両国の条里遺構』備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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