「備陽史探訪:109号」より
坂本 敏夫
今号は、前号に引き続いて中世石(岩)庄上村の庄域について考証してみます。
前号で石(岩)庄は南北朝の初期には上村。下村・法成寺の三地域が成立していた事を考証し、且つ現加茂川の流路が固定したのは、元和五年備後に水野氏が入封して流路を整備した以後であり、それ以前は現流路より東、正戸山城跡の西側を南流していた事を考証し、且つ上村の村域は今まで考えられていた地区より東へ、即ち現神辺町道上地域が大部分含まれると記述しました。
前回に続いて私の考えを記述します。上村・下村・法成寺三地区の境界は何処か。
それは旧加茂川の流路が境界であった考えます。
根拠は現福山市加茂町に有ります。加茂町には上加茂地区と下加茂地区が存在し、両地区境界は現在でも大体旧加茂川の流路であらたと考えられる地域が境界となっている。
当時は、政治文化の中心であった京都に地理的に近い地区が「上」であり、遠い地区は「下」と考える思考が存在したのではと考える。(現在でも同じような思考が伝わっていると考えますが)
以下に記述する事を通しても旧加茂川の流路が境界であると考える。前回の「沙弥道珍寄進状」「上村武守名坪付」で上村の半分は、武守名が占めている事が考証出来たと考えます。残り半分の地域は、どこに比定されるかを考証する事が、上村下村の境界を明らかにすると同時に村域の確定につながると考えます。
まず前回に続いて古文書を記載し考証の手掛りとします。
前回記載しました古文書と今回の古文書に記述されている地名を、現在も地域に伝わり使用されている地名と比較しながら考証して見ます。
①、②、③、④の文書は観応の擾乱期に中世の備後に存在したと伝う、荘園の一つである坪生庄竹田辺りが本貫の地と伝う。三吉覺弁が観応二年八月から文和元年十二月にかけて尊氏・義詮方として備後国岩成に於いて、直冬方の上椙修理亮等と戦った事を証する文書である。
文書の文面から上村には「上下城・石成河原・石崎河原」と云う地名と城が存在し、城は上下三つに分かれ一つは勝戸の城と記されている。
神辺町道上の西端に岩崎と言う小部落が現在も存在しており、石成と岩成のように石崎と岩崎も同義語と考えられる。さらに道上の西端から東へ岩崎。宮ヶ妹・薬師端と小部落が続くが、明治時代に作成された字切り図を見ると三部落とも大部分が字名は正藤と記されており、勝戸(正戸)に通じると考える。
正戸(正藤)の字地は旧広大の牧場即ち現平成大学の南の国道四八六線辺りまで含まれる。
勝戸・証戸・正藤(小藤も同じ)は、元は「正戸(せいこ)(政戸)」と読み古代の戸籍制度の呼称であり、古代末期から中世に至り名地名(みょうちめい)へと変化し「正藤」が使われ現在も字として残ったものと考えられる。(現岩成地区では現在「正戸」と表記されている。)
前号記載の「沙爾道珍寄進状」を読むと石成上村には「浄香庵」と言う庵寺と考えられる庵がある事が解り、武守名内の田地一町を寄進されている。現在道上に「浄光寺」と言う浄土真宗の寺院が鞘池北東中谷地区に伝わっている。伝えによると浄光寺は昔、禅宗の庵寺であったが戦国末期天正年間に浄土真宗に改宗したと伝う。「浄香庵」は浄光寺の前身と考えられ、現浄光寺の前身の庵寺が浄光寺の上にあったとの言い伝えも伝わる。浄香庵が立地していた場所に付いては、浄光寺本堂東側が近年まで微高地で在った事、同地周辺には、室町前期頃の作と考えられる小米石製の五輪塔がまつられていた事等から、本堂東側に存在した微高地が浄香庵の立地場所と考えられる。以上の事から考えて武守名は現浄光寺を含む寺周辺地区と考えられる。字「正藤」の東の端と考えられる辺りに現在鞘池と云う溜池が存在している。「鞘」は本来「戈」の字であったものが「鞘」に転化したものと考えられる。
「才」は村堺、部落堺の守り神「才之神」に通じると考えられ境界を示すものと考える。現在でも鞘池の土手上に道祖神が祀られています。
また、鞘池西側に「折神」と云う地名があり、折神とは神の居る所と云う意味と考えられ戈之神の居る所とも考えられる。
以上のことから考証して道上地区の鞘池西側折神筋辺りを堺として西側が「正藤名」東側が「武守名」であると考える。
次に条里制遺構を参考にしながら武守名について考証してみます。
―以下佐々木卓也著 「芸備両国の条里遺構」を参考にして考証します。―
前号記載の文書「備後国深津郡石成庄上村武守名内即分田畠坪付」に付いて考証し記述して見ます。
佐々木氏の論証によると安那郡「西部」の条里制は古代山陽道が東西の基線と考えられ「中部」は福山市御幸町上岩成正戸と加茂町八軒屋の堺を基点にして、約十五度北側へ振れて神辺町西中条丁屋の中陣山の北端を結ぶ線上に古代山陽道が通り条里の東西基線となっている。
すなわち神辺町中条地区は、北側へ振れた古代山陽道が東西条里の基線となっている。
神辺町道上地区の条里制の東西其線は、古代山陽道が北側へ「屈折」している事には関係なく、駅家町の福塩線近田駅北側山麓部辺りから、御幸町上岩成の正戸山南麓を結ぶ基線を東に延長した線上に位置する。したがって道上地区には、道上西部の正藤池西の加茂町八軒屋と上岩成正戸が交差する辺りを基点として、東に広がりを持ち方形とは異なる三角形に近い「変形な形の条里遺構」が存在し且つ、その条里遺構上を古代山陽道が東西に通っている。
この異形条里遺構が文書に記載されている「道上条」に当たると考える。条里北部の基点は佐々木氏の説によれば、福山市加茂町中野の字地「立縄手」であり立縄手を基点として、南へ三条下がる地点に三条が存在し、其の三条の南端を古代山陽道が東西に貫通している。
したがって、文書中の四条三里とは古代山陽道の南側が四条であり、中世以後の郡境と云われる現加茂川流路の西側、上岩成の川西地区辺りを境として、東に向かって安那郡の里が始まる。したがって東へ三里の地、即ち道上地区の現仲中、仲下地域(旧仲沖地域)が文書中の「四条三里」に当たると考えられる。
次に文書中の「西条門」に確当する地とは何処か。
西条の門とは古代山陽道上の中条と西条境界辺りと考えられる。即ち道上地区と中条地区との境界を流れる「中川」と旧山陽道の交差する辺りと考えられる。すなわち三ツ池の東方と考える。
中川は近年の何川改修によって様相が変わっていますが、かつては度々氾濫を起こす小河川の一つであった事が地元でよく知られています。
文書中に記述されている「内川成半」に合致すると考えます。
畠坪付に記述されている「一反浄香庵屋敷替」とあるのは現浄光寺の敷地と考えられます。
以上の考証から石(岩)成庄上村の村域は神辺町道上地区の大部分と現御幸町上岩成のほぼ中心を南北に流れていた旧加茂川以東と考えます。今号は紙面の都合にて此処で筆を置きます。近世上岩成村、下岩成村の成立時期に付いては号を改めて記述したいと思います。なお十一月の郷土史講座で詳細にお話ししたいと思っています。
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石(岩)成庄上村に付いて
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坂本 敏夫 今号は、前号に引き続いて中世石(岩)庄上村の庄域について考証してみます。 前号で石(岩)庄は南北朝の初期には上村。下村・法成寺の三地域が成立していた事を考証し、且つ現加茂川の流路が固定したのは、元和五年備後に水野氏が入封して流路を整備した以後であり、それ以前は現流路より東、正戸山城跡の西側を南流していた事を考証し、且つ上村の村域は今まで考えられていた地区より東へ、即ち現神辺町道上地域が大部分含まれると記述しました。 前回に続いて私の考えを記述します。上村・下村・法成寺三地区の境界は何処か。 それは旧加茂川の流路が境界であった考えます。 根拠は現福山市加茂町に有ります。加茂町には上加茂地区と下加茂地区が存在し、両地区境界は現在でも大体旧加茂川の流路であらたと考えられる地域が境界となっている。 当時は、政治文化の中心であった京都に地理的に近い地区が「上」であり、遠い地区は「下」と考える思考が存在したのではと考える。(現在でも同じような思考が伝わっていると考えますが) 以下に記述する事を通しても旧加茂川の流路が境界であると考える。前回の「沙弥道珍寄進状」「上村武守名坪付」で上村の半分は、武守名が占めている事が考証出来たと考えます。残り半分の地域は、どこに比定されるかを考証する事が、上村下村の境界を明らかにすると同時に村域の確定につながると考えます。 まず前回に続いて古文書を記載し考証の手掛りとします。 前回記載しました古文書と今回の古文書に記述されている地名を、現在も地域に伝わり使用されている地名と比較しながら考証して見ます。 ①、②、③、④の文書は観応の擾乱期に中世の備後に存在したと伝う、荘園の一つである坪生庄竹田辺りが本貫の地と伝う。三吉覺弁が観応二年八月から文和元年十二月にかけて尊氏・義詮方として備後国岩成に於いて、直冬方の上椙修理亮等と戦った事を証する文書である。 文書の文面から上村には「上下城・石成河原・石崎河原」と云う地名と城が存在し、城は上下三つに分かれ一つは勝戸の城と記されている。 神辺町道上の西端に岩崎と言う小部落が現在も存在しており、石成と岩成のように石崎と岩崎も同義語と考えられる。さらに道上の西端から東へ岩崎。宮ヶ妹・薬師端と小部落が続くが、明治時代に作成された字切り図を見ると三部落とも大部分が字名は正藤と記されており、勝戸(正戸)に通じると考える。 正戸(正藤)の字地は旧広大の牧場即ち現平成大学の南の国道四八六線辺りまで含まれる。 勝戸・証戸・正藤(小藤も同じ)は、元は「正戸(せいこ)(政戸)」と読み古代の戸籍制度の呼称であり、古代末期から中世に至り名地名(みょうちめい)へと変化し「正藤」が使われ現在も字として残ったものと考えられる。(現岩成地区では現在「正戸」と表記されている。) 前号記載の「沙爾道珍寄進状」を読むと石成上村には「浄香庵」と言う庵寺と考えられる庵がある事が解り、武守名内の田地一町を寄進されている。現在道上に「浄光寺」と言う浄土真宗の寺院が鞘池北東中谷地区に伝わっている。伝えによると浄光寺は昔、禅宗の庵寺であったが戦国末期天正年間に浄土真宗に改宗したと伝う。「浄香庵」は浄光寺の前身と考えられ、現浄光寺の前身の庵寺が浄光寺の上にあったとの言い伝えも伝わる。浄香庵が立地していた場所に付いては、浄光寺本堂東側が近年まで微高地で在った事、同地周辺には、室町前期頃の作と考えられる小米石製の五輪塔がまつられていた事等から、本堂東側に存在した微高地が浄香庵の立地場所と考えられる。以上の事から考えて武守名は現浄光寺を含む寺周辺地区と考えられる。字「正藤」の東の端と考えられる辺りに現在鞘池と云う溜池が存在している。「鞘」は本来「戈」の字であったものが「鞘」に転化したものと考えられる。 「才」は村堺、部落堺の守り神「才之神」に通じると考えられ境界を示すものと考える。現在でも鞘池の土手上に道祖神が祀られています。 また、鞘池西側に「折神」と云う地名があり、折神とは神の居る所と云う意味と考えられ戈之神の居る所とも考えられる。 以上のことから考証して道上地区の鞘池西側折神筋辺りを堺として西側が「正藤名」東側が「武守名」であると考える。 次に条里制遺構を参考にしながら武守名について考証してみます。 ―以下佐々木卓也著 「芸備両国の条里遺構」を参考にして考証します。― 前号記載の文書「備後国深津郡石成庄上村武守名内即分田畠坪付」に付いて考証し記述して見ます。 佐々木氏の論証によると安那郡「西部」の条里制は古代山陽道が東西の基線と考えられ「中部」は福山市御幸町上岩成正戸と加茂町八軒屋の堺を基点にして、約十五度北側へ振れて神辺町西中条丁屋の中陣山の北端を結ぶ線上に古代山陽道が通り条里の東西基線となっている。 すなわち神辺町中条地区は、北側へ振れた古代山陽道が東西条里の基線となっている。 神辺町道上地区の条里制の東西其線は、古代山陽道が北側へ「屈折」している事には関係なく、駅家町の福塩線近田駅北側山麓部辺りから、御幸町上岩成の正戸山南麓を結ぶ基線を東に延長した線上に位置する。したがって道上地区には、道上西部の正藤池西の加茂町八軒屋と上岩成正戸が交差する辺りを基点として、東に広がりを持ち方形とは異なる三角形に近い「変形な形の条里遺構」が存在し且つ、その条里遺構上を古代山陽道が東西に通っている。 この異形条里遺構が文書に記載されている「道上条」に当たると考える。条里北部の基点は佐々木氏の説によれば、福山市加茂町中野の字地「立縄手」であり立縄手を基点として、南へ三条下がる地点に三条が存在し、其の三条の南端を古代山陽道が東西に貫通している。 したがって、文書中の四条三里とは古代山陽道の南側が四条であり、中世以後の郡境と云われる現加茂川流路の西側、上岩成の川西地区辺りを境として、東に向かって安那郡の里が始まる。したがって東へ三里の地、即ち道上地区の現仲中、仲下地域(旧仲沖地域)が文書中の「四条三里」に当たると考えられる。 次に文書中の「西条門」に確当する地とは何処か。 西条の門とは古代山陽道上の中条と西条境界辺りと考えられる。即ち道上地区と中条地区との境界を流れる「中川」と旧山陽道の交差する辺りと考えられる。すなわち三ツ池の東方と考える。 中川は近年の何川改修によって様相が変わっていますが、かつては度々氾濫を起こす小河川の一つであった事が地元でよく知られています。 文書中に記述されている「内川成半」に合致すると考えます。 畠坪付に記述されている「一反浄香庵屋敷替」とあるのは現浄光寺の敷地と考えられます。 以上の考証から石(岩)成庄上村の村域は神辺町道上地区の大部分と現御幸町上岩成のほぼ中心を南北に流れていた旧加茂川以東と考えます。今号は紙面の都合にて此処で筆を置きます。近世上岩成村、下岩成村の成立時期に付いては号を改めて記述したいと思います。なお十一月の郷土史講座で詳細にお話ししたいと思っています。 <関連記事>
石(岩)成庄上村に付いて管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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