「備陽史探訪:108号」より
坂本 敏夫
私は福山市御幸町上岩成字正戸の正戸山城跡に近い、神辺町道上岩崎に生まれ育ち、且つ上岩成には父祖の代より耕作していた水田が在ったなど、私にとって岩成は特別な地自分を育ててくれた故郷の地です。
私が石(岩)成庄に付いて関心を持つに至ったのは、備陽史探訪の会に入会し中世史の勉強を通じて、中世の荘園「石(岩)成庄」の存在を知ったことが始まりです。
岩成の地名は古代の深津郡岩茂郷(いわなしごう)の遺名とする説もあるが詳細は不明。岩成地域は芦田川流域の中流よりやや下流に位置し、古代条里制の名残と考えられる地名呼称・地割等を今に伝え、且つ古文書からも条里制地名を伺うことができる地域です。
中世には石(岩)成庄といわれていましたが、庄域・立庄の時期・領家・本所等荘園に関わる本質的な事柄は殆ど不明ですが、南北朝初期には少なくとも上村・下村・法成寺の三地区が存在していた事が古文書から伺えます。
数年前、出内博都先生により発見解読された古文書に、神石郡油木町の油木八幡神社に伝わる大般若経が有ります。その大般若経の奥書に次のように記されています。応安七年正月十三日(一一七三)「備後國岩成庄於法成寺仏摂寺」と記載されています。
即ち従来考えられていた石(岩)成上村・下村の二村だけでなく新たに法成寺が加わり三地区以上が石(岩)成には存在していたと考えられます。
今回は石(岩)成上村に付いて考証して見たいと思います。石(岩)成上村の推定地については、広島県史・福山市史・其の外大方の史誌は福山市御幸町上岩成地域周辺を上村に当てていますが、私の見解では少し異なり庄域は、東に広がり現神辺町道上地区が石(岩)成庄上村の中心と考えます。
それでは以下私なりに岩成に付いて考証記述してみます。
中世の岩成上村を考証する方法として、私は三つの方法で試みてみたいと思います。
一つは、中世の時代に立ちかえり当時の地勢・地名等を勘案して考証する法。
二つは、古文書に記載されている文言から現在に伝わる地名・条里制遺構・寺院銘等を手懸りとする法。
まず石(岩)成上村に付いて記述する前に庄域全体の外観について考証してみます。
芦田川には府中市を過ぎた辺りより上流から神谷川・服部川・加茂川・箱田川が北から、南から有地川・北東から高屋川が流入し、この流入域一帯を通称神辺平野と呼称している。
平野中心部の標高は現在でも約一〇~十二三メートルであり、当時の中心部は低湿地帯が大部分を占めていたと考えられる。そのうえ瀬戸内特有の少雨の年が数年置きに訪れる土地柄であり早魃にも苦しめられていたと考えられる。(昭和十四年の大干ばつの年には道上西組地区では反当り八升程度の収量であったと伝う)坂本国恵著「正戸の山辺に第一輯」より。
上下岩成地域は神辺平野のほぼ中心に位置し、周辺部の山地は風化した花商岩質の真砂土に覆われ芦田川に向って間断なく土砂が流れ込んでくる堆積平野であり、このような芦田川に向けての流れは中世も同じであると考えられる。
以上のような概観を念頭に置いて地勢。地名等の考証をしてみます。始めに現岩成を流れる加茂川に付いて詳細に考証して行きます。
一、上加茂の現加茂川東側に「古川」上岩成の加茂川東側には「中筋」「石井出」等の旧流路に関係すると思える地名が伝わる。
二、現加茂川は上岩成と下岩成の境界辺りの中途で人工的に南東に曲折させ曲折部より下流二十軒屋の高屋川合流部までを新川と呼称している。
三、中津原の北部兼近団地北側新川の西側に道上分の土地が三角形に存在する。
四、上岩成南部の現加茂川そばに光台寺の地名が伝わりその昔水害に合い流されたと伝う。
本来の加茂川の流路は上加茂と中野の境界辺りから現流路よりは、東をほぼ直線的に南流していたと考える。
本流の芦田川と芦田川に注ぐ各支流の流路が現在の流路に定まったのは元和五年(一六一九)水野勝成が備後に入封以後各何川を改修してからといわれています。
以上のような地勢。地名等から荘園が立庄して居たであろう中世の現岩成地域は、絶えず変化したであろう中世加茂川の流路に大部分が含まれ、戦国末期まで一円開発は行われておらず、散在的な開発地であったと考えられる。
次に古文書を基に考証してみます。
一、一の天龍寺文書から石(岩)成上村は、後醍醐天皇の菩提を弔う為に尊氏により建立された天龍寺の領地として、至徳四年以前に寄進された事が読み取れる。
一、二の道珍寄進状。三の田畠坪付状から石成上村は武守名が半分を占め且つ武守名に道上が在り。浄香庵が存在する。
一、三の田畠坪付状から条里制遺構に基づいて坪付が行われている事がわかる。
一、三の田畠坪付状の起草者は勘解由の官途名を名乗り且つ案主である。
一、武守名内には小川の氾濫によると考えられる荒地が存在する事、且つ大工・細工師等の職人が居住していた事が伺われる。
以上の事が読み取れます。
以下次号へ。
今号はここで筆を置き以下は次号に譲ります。次号では今号で考証した各事項と、今号では考証していない他の文書等も参考にして、具体的に石成上村の範囲と何時の時代から現在の上岩成。下岩成が成立したかに付いて考証してみます。
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石(岩)成庄上村に付いて(其の二)
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坂本 敏夫 私は福山市御幸町上岩成字正戸の正戸山城跡に近い、神辺町道上岩崎に生まれ育ち、且つ上岩成には父祖の代より耕作していた水田が在ったなど、私にとって岩成は特別な地自分を育ててくれた故郷の地です。 私が石(岩)成庄に付いて関心を持つに至ったのは、備陽史探訪の会に入会し中世史の勉強を通じて、中世の荘園「石(岩)成庄」の存在を知ったことが始まりです。 岩成の地名は古代の深津郡岩茂郷(いわなしごう)の遺名とする説もあるが詳細は不明。岩成地域は芦田川流域の中流よりやや下流に位置し、古代条里制の名残と考えられる地名呼称・地割等を今に伝え、且つ古文書からも条里制地名を伺うことができる地域です。 中世には石(岩)成庄といわれていましたが、庄域・立庄の時期・領家・本所等荘園に関わる本質的な事柄は殆ど不明ですが、南北朝初期には少なくとも上村・下村・法成寺の三地区が存在していた事が古文書から伺えます。 数年前、出内博都先生により発見解読された古文書に、神石郡油木町の油木八幡神社に伝わる大般若経が有ります。その大般若経の奥書に次のように記されています。応安七年正月十三日(一一七三)「備後國岩成庄於法成寺仏摂寺」と記載されています。 即ち従来考えられていた石(岩)成上村・下村の二村だけでなく新たに法成寺が加わり三地区以上が石(岩)成には存在していたと考えられます。 今回は石(岩)成上村に付いて考証して見たいと思います。石(岩)成上村の推定地については、広島県史・福山市史・其の外大方の史誌は福山市御幸町上岩成地域周辺を上村に当てていますが、私の見解では少し異なり庄域は、東に広がり現神辺町道上地区が石(岩)成庄上村の中心と考えます。 それでは以下私なりに岩成に付いて考証記述してみます。 中世の岩成上村を考証する方法として、私は三つの方法で試みてみたいと思います。 一つは、中世の時代に立ちかえり当時の地勢・地名等を勘案して考証する法。 二つは、古文書に記載されている文言から現在に伝わる地名・条里制遺構・寺院銘等を手懸りとする法。 まず石(岩)成上村に付いて記述する前に庄域全体の外観について考証してみます。 芦田川には府中市を過ぎた辺りより上流から神谷川・服部川・加茂川・箱田川が北から、南から有地川・北東から高屋川が流入し、この流入域一帯を通称神辺平野と呼称している。 平野中心部の標高は現在でも約一〇~十二三メートルであり、当時の中心部は低湿地帯が大部分を占めていたと考えられる。そのうえ瀬戸内特有の少雨の年が数年置きに訪れる土地柄であり早魃にも苦しめられていたと考えられる。(昭和十四年の大干ばつの年には道上西組地区では反当り八升程度の収量であったと伝う)坂本国恵著「正戸の山辺に第一輯」より。 上下岩成地域は神辺平野のほぼ中心に位置し、周辺部の山地は風化した花商岩質の真砂土に覆われ芦田川に向って間断なく土砂が流れ込んでくる堆積平野であり、このような芦田川に向けての流れは中世も同じであると考えられる。 以上のような概観を念頭に置いて地勢。地名等の考証をしてみます。始めに現岩成を流れる加茂川に付いて詳細に考証して行きます。 一、上加茂の現加茂川東側に「古川」上岩成の加茂川東側には「中筋」「石井出」等の旧流路に関係すると思える地名が伝わる。 二、現加茂川は上岩成と下岩成の境界辺りの中途で人工的に南東に曲折させ曲折部より下流二十軒屋の高屋川合流部までを新川と呼称している。 三、中津原の北部兼近団地北側新川の西側に道上分の土地が三角形に存在する。 四、上岩成南部の現加茂川そばに光台寺の地名が伝わりその昔水害に合い流されたと伝う。 本来の加茂川の流路は上加茂と中野の境界辺りから現流路よりは、東をほぼ直線的に南流していたと考える。 本流の芦田川と芦田川に注ぐ各支流の流路が現在の流路に定まったのは元和五年(一六一九)水野勝成が備後に入封以後各何川を改修してからといわれています。 以上のような地勢。地名等から荘園が立庄して居たであろう中世の現岩成地域は、絶えず変化したであろう中世加茂川の流路に大部分が含まれ、戦国末期まで一円開発は行われておらず、散在的な開発地であったと考えられる。 次に古文書を基に考証してみます。 一、一の天龍寺文書から石(岩)成上村は、後醍醐天皇の菩提を弔う為に尊氏により建立された天龍寺の領地として、至徳四年以前に寄進された事が読み取れる。 一、二の道珍寄進状。三の田畠坪付状から石成上村は武守名が半分を占め且つ武守名に道上が在り。浄香庵が存在する。 一、三の田畠坪付状から条里制遺構に基づいて坪付が行われている事がわかる。 一、三の田畠坪付状の起草者は勘解由の官途名を名乗り且つ案主である。 一、武守名内には小川の氾濫によると考えられる荒地が存在する事、且つ大工・細工師等の職人が居住していた事が伺われる。 以上の事が読み取れます。 以下次号へ。 今号はここで筆を置き以下は次号に譲ります。次号では今号で考証した各事項と、今号では考証していない他の文書等も参考にして、具体的に石成上村の範囲と何時の時代から現在の上岩成。下岩成が成立したかに付いて考証してみます。 <関連記事>
石(岩)成庄上村に付いて(其の二)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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