一乗山城跡(福山市熊野町)

山城探訪」より

園尾 裕

一乗山城跡
一乗山城跡

福山市の南部、沼隈半島のほぼ中央部に標高四三八メートルの熊ヶ峰が奪え立っている。この山並みの南西、黒木谷の奥深くに一乗山城がある。別名に、黒木城・七面山城がある。ここから南東に山越えすれば鞆に至る。この城は、室町・戦国時代に、水呑・草戸・長和・半坂・山田・坪生・木之庄などに勢力をもち、杉原・古志氏と並び称せられた渡辺氏の居城である。一九六四(昭和三十九)年三月三十一日、福山市史跡に指定されている。

渡辺氏が備後国山田庄に入ってきた時期やその居城は、不明である。渡辺友網が鎌倉時代の末期に入ってきたのが最初といわれ、その子四郎兵衛尉持は、一三五一(観応二)年の石(岩)崎城で、また持の子四郎兵衛尉究も、その年の正戸山城攻めで戦ったと言われている。しかし、彼らの時代には、山田庄内でも下山田城か或いは、中山田城に居城していたものと思われる。友網の曽孫越中守高は応永年間(一三九四~一四二七)に草戸村に入り「長和庄」の領家代官を経て山名是豊の被官となる。その曽孫が越中守兼である。

『備陽六郡志』によると、

渡辺越中守兼、毛利元就命兼曰、当国三太守(宮、三好、杉原)ノ内一人ヲ討取ニ於テハ忠賞ヲ行ルヘシト云々、因テ宮近門民部左衛門藤原信元ヲ討取、其勲賞トシテ山田三ケ村ヲ賜り、初テ一乗山(今ノ七面山是ナリ)ニ城ヲ築テ住居ス

とあり、一乗山城に最初に入城したのは渡辺越中守兼としている。その時期は、文明年間(一四六九~一四八七)とも永正年間(一五〇四~一五二一)ともいわれている。彼は、日蓮宗に帰依し城内に法華の守護神である七面大菩薩を祀り、城の麓に常国寺を建立して菩提寺とした。

渡辺越中守兼木像(熊野町常国寺蔵)
渡辺越中守兼木像(熊野町常国寺蔵)

兼は、当時の備後の多くの武将たちが皆そうであったように初めは、尼子氏に就き、その後に大内氏に従った。一五三四(天文三)年には、大内・毛利連合軍に属し宮新五郎親忠の居城「亀寿山城」を攻撃し、陥落後は、同城の監視役も務めている。大内氏が一五五一(天文二十)年陶氏に滅ぼされてからは、毛利氏に従い、その子の出雲守房は、翌年の毛利氏による志川瀧山城攻めに加わり、子の源三郎高も一五六九(永禄十二)年の神辺城合戦で活躍している。一五七六(天正四)年足利義昭が毛利氏を頼って鞆に来ると、房の子民部少輔元と孫の四郎左衛門景はともに義昭の警固をなしている。しかし、一六〇〇(慶長五)年の関ヶ原合戦による毛利氏の防長二州への移封に伴い城は廃止され、渡辺氏は浪人となったのである。景は、浪人の後仏門に入り福山城下に通安寺を建て、彼の子供は四人までが水野氏の家臣に取り立てられている。

一乗山城跡略側図 1/2500 原図 尾多賀・トレース 山口
一乗山城跡略側図 1/2500 原図 尾多賀・トレース 山口

城の遺構は、よく遺されている。丘陵の先端部を五条の空堀で切断しており、およそ四三〇×四〇〇メートルの範囲に城としての構えがみられる。頂上部の標高は二〇八メートルであり、麓との比高差は、約六十九メートルである。頂部は、三十×二十メートルの平坦面を有する本丸郭である。南側は、石垣が積まれており一段高い台状の土塁(櫓台)を形成している。郭の配置は、本丸郭を取り囲むように三重に配され、さらに郭全体を畝状空堀群で囲っている。水の手は、南東斜面中腹の谷筋に井戸が二ヵ所ある。城の正面の麓は、水源池となって水没しているため遺構は、不明である。

城郭全体がコンパクトに纏まっており、要所要所に石垣を構築するなどまた、畝状空堀と堀切とを多用して、小さく守りを固める技術がみられ、福山近在の山城の中でも重要な遺跡である。

《参考文献》

  • 蒲生敬信『備後国古城記」(高田雄信の筆写本 一九〇六)
  • 福山市史編纂会『福山市史』上巻 一九六三
  • 広島県史編纂室『広島県史』中世 一九八四
  • 田口義之「一乗山城主渡辺氏」(福山市文化財協会『文化財ふくやま』第20号) 一九八五
  • 田口義之『備後の武将と山城』(芦田川文庫3)一九八六
  • 志田原重人「渡辺氏と草戸千軒」(草戸千軒町遺跡調査研究所『草戸千軒』No一〇九) 一九八二
  • 志田原重人「一乗山城跡」(『備後の主要遺跡I』芦田川文庫17)一九九四
  • 新人物往来社『日本城郭大系』13巻広島・岡山版 一九八〇
  • 平凡社『広島県の地名』日本歴史地名大系35巻 一九八二
  • 小都 隆「一乗山城跡」(芸備友の会『広島県の主要城跡』 一九八三

【一乗山城跡】

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/fec4a4200c8bf8cbe26c8cebbcf54a10.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/fec4a4200c8bf8cbe26c8cebbcf54a10-150x100.jpg管理人中世史「山城探訪」より 園尾 裕 福山市の南部、沼隈半島のほぼ中央部に標高四三八メートルの熊ヶ峰が奪え立っている。この山並みの南西、黒木谷の奥深くに一乗山城がある。別名に、黒木城・七面山城がある。ここから南東に山越えすれば鞆に至る。この城は、室町・戦国時代に、水呑・草戸・長和・半坂・山田・坪生・木之庄などに勢力をもち、杉原・古志氏と並び称せられた渡辺氏の居城である。一九六四(昭和三十九)年三月三十一日、福山市史跡に指定されている。 渡辺氏が備後国山田庄に入ってきた時期やその居城は、不明である。渡辺友網が鎌倉時代の末期に入ってきたのが最初といわれ、その子四郎兵衛尉持は、一三五一(観応二)年の石(岩)崎城で、また持の子四郎兵衛尉究も、その年の正戸山城攻めで戦ったと言われている。しかし、彼らの時代には、山田庄内でも下山田城か或いは、中山田城に居城していたものと思われる。友網の曽孫越中守高は応永年間(一三九四~一四二七)に草戸村に入り「長和庄」の領家代官を経て山名是豊の被官となる。その曽孫が越中守兼である。 『備陽六郡志』によると、 渡辺越中守兼、毛利元就命兼曰、当国三太守(宮、三好、杉原)ノ内一人ヲ討取ニ於テハ忠賞ヲ行ルヘシト云々、因テ宮近門民部左衛門藤原信元ヲ討取、其勲賞トシテ山田三ケ村ヲ賜り、初テ一乗山(今ノ七面山是ナリ)ニ城ヲ築テ住居ス とあり、一乗山城に最初に入城したのは渡辺越中守兼としている。その時期は、文明年間(一四六九~一四八七)とも永正年間(一五〇四~一五二一)ともいわれている。彼は、日蓮宗に帰依し城内に法華の守護神である七面大菩薩を祀り、城の麓に常国寺を建立して菩提寺とした。 兼は、当時の備後の多くの武将たちが皆そうであったように初めは、尼子氏に就き、その後に大内氏に従った。一五三四(天文三)年には、大内・毛利連合軍に属し宮新五郎親忠の居城「亀寿山城」を攻撃し、陥落後は、同城の監視役も務めている。大内氏が一五五一(天文二十)年陶氏に滅ぼされてからは、毛利氏に従い、その子の出雲守房は、翌年の毛利氏による志川瀧山城攻めに加わり、子の源三郎高も一五六九(永禄十二)年の神辺城合戦で活躍している。一五七六(天正四)年足利義昭が毛利氏を頼って鞆に来ると、房の子民部少輔元と孫の四郎左衛門景はともに義昭の警固をなしている。しかし、一六〇〇(慶長五)年の関ヶ原合戦による毛利氏の防長二州への移封に伴い城は廃止され、渡辺氏は浪人となったのである。景は、浪人の後仏門に入り福山城下に通安寺を建て、彼の子供は四人までが水野氏の家臣に取り立てられている。 城の遺構は、よく遺されている。丘陵の先端部を五条の空堀で切断しており、およそ四三〇×四〇〇メートルの範囲に城としての構えがみられる。頂上部の標高は二〇八メートルであり、麓との比高差は、約六十九メートルである。頂部は、三十×二十メートルの平坦面を有する本丸郭である。南側は、石垣が積まれており一段高い台状の土塁(櫓台)を形成している。郭の配置は、本丸郭を取り囲むように三重に配され、さらに郭全体を畝状空堀群で囲っている。水の手は、南東斜面中腹の谷筋に井戸が二ヵ所ある。城の正面の麓は、水源池となって水没しているため遺構は、不明である。 城郭全体がコンパクトに纏まっており、要所要所に石垣を構築するなどまた、畝状空堀と堀切とを多用して、小さく守りを固める技術がみられ、福山近在の山城の中でも重要な遺跡である。 《参考文献》 蒲生敬信『備後国古城記」(高田雄信の筆写本 一九〇六) 福山市史編纂会『福山市史』上巻 一九六三 広島県史編纂室『広島県史』中世 一九八四 田口義之「一乗山城主渡辺氏」(福山市文化財協会『文化財ふくやま』第20号) 一九八五 田口義之『備後の武将と山城』(芦田川文庫3)一九八六 志田原重人「渡辺氏と草戸千軒」(草戸千軒町遺跡調査研究所『草戸千軒』No一〇九) 一九八二 志田原重人「一乗山城跡」(『備後の主要遺跡I』芦田川文庫17)一九九四 新人物往来社『日本城郭大系』13巻広島・岡山版 一九八〇 平凡社『広島県の地名』日本歴史地名大系35巻 一九八二 小都 隆「一乗山城跡」(芸備友の会『広島県の主要城跡』 一九八三 【一乗山城跡】備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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