芋原の大すき跡(福山市加茂町北山)

山城探訪」より

平田 恵彦


山城探訪―福山周辺の山城三〇選―」の選定会議では、この「芋原の大すき(大人のすき跡)」を入れるかどうかで議論が分かれた。というのは、この「大すき」跡が、以前から正体不明とされており、果たして山城の遺構といえるのかどうかもわからないからである。

しかし、集落を取り囲むように大規模な溝が厳然として存在している。この際、我々の手で一部測量調査してみようということになり、取り上げることにした。

芋原周辺の通称は「広瀬」。かつて深安郡広瀬村の集落であったためである。その後、昭和五一年(一九七六)に福山市と合併し、現在は福山市加茂町北山となっている。芋原は福山市北部、標高約三五〇mの吉備高原の台地上にあり、ここからの眺望は極めて良好である。南に目をやれば、眼下に四川の集落が望め、さらに神辺平野はもちろんのこと、駅家町や福山市街地まで一望できる。

さて、「芋原の大スキ」は中世城郭とすれば空堀であるが、その遺構は集落の東部を除くほぼ全域を鉢巻き状に巡っている(城域図参照。破線部は遣構が不明瞭)。

〈城域図〉1/10000都市計画図
〈城域図〉1/10000都市計画図

周溝の幅は三~五メートル、深さは一~ニメートルである(写真参照)。長径は東西に約一キロ、短径は南北に約〇・五キロで、全長は約二・五キロにも及ぶ広大さである。

南東側の空堀(幅5m、深さ2m、城域図参照)
南東側の空堀(幅5m、深さ2m、城域図参照)

しかし、残っているのは空堀(溝)だけで、その内側に曲輪の遺構は確認されていない(ただし地名と井戸跡から館跡は推定できる)。したがって、通常の中世山城の遺構とは大きく様相を異にする。謎とされてきた所以である。「大すき」については次のような伝承が残っている。

むかし大人が大きな牛に犂を引っぱらせてヒイゴシの端から高野峠を越して竹之端、幸之神に出て、芋原東の山本平を通って大野呂の端まで来た時、大きな岩に犂がひっかかった。そこで、大人が牛の尻を思いっきりたたいた。すると、牛が飛びあがって蹄についていた赤土を神辺まで飛ばして片山をつくった。いいか、大人がつくった大すきの道には近づいたらだめだ。大人にさらわれるぞ

―「昔語り大人と大すき」「深安郡広瀬村誌」を要約―

今回のわれわれの調査は簡単な測量調査である。正式な発掘調査を行わなければ、この謎の空掘の正体を結論づけることはできない。したがって本稿では、従来提出されている代表的な二説に若干批評を交えて紹介するにとどめる。

①志川滝山合戦関連城説

芋原の南西に高尾三郎左衛門義兼の築城と伝えられる志川滝山城がある(周辺図参照)。

〈周辺図〉黒丸 志川滝山城、中央 芋原の大すき
〈周辺図〉黒丸 志川滝山城、中央 芋原の大すき

天文三年(一五三四)、宮氏の本拠新市亀寿山城が毛利氏の攻撃によって落城した際、幼主宮元範は落ち延びて宮常陸入道光音を頼り、芋原の地に居を帯えたという。その後、天文二一年(一五五二)に、光音らは一族の再興を図って志川滝山城に集結・挙兵したが、毛利軍の攻撃の前に武運つたなく討死にした。有名な志川滝山合戦である。

この合戦に際し、宮氏が支城として築いた、あるいは毛利方が築いたという説である。確かに、芋原は志川滝山城と谷を挟んで向かい合っており、戦略上の要衝である。

しかし、「大すき」の内側が城域とすると、志川滝山城よりはるかに大きい。支城が本城より大きいはずがない。仮に、芋原の方が本城としても曲輪が存在しないのは不可解である。また、毛利方の造築とすれば、西側の堀切だけで十分なはずだ。それよりも何よりも、空堀の内部・城域が広大すぎる。とにかく、中世の山城とするならまとまりに欠けるのである。それに、近辺で大きな合戦があったにもかかわらず、芋原で合戦があった、ここに城を築いたという伝承がまったく残っていない。先の「大すき」伝説も明らかに中世の山城造築を意味するものではない。

要するにこの説では、なぜ中世山城の形態を成していないのか、説明できないのである。

②古代山城茨城説

われわれ備陽史探訪の会が提起した説である。備後には文献に残る有名な古代山城、茨城・常城がある。「続日本紀」養老三年の条に「備後の国安那郡茨城、董田郡常城を停む(停止した)」とあるのがそれである。

このうち茨城の所在地は、蔵王山説・井原説など諸説あるが、いずれも「和名抄」等の文献による考察のみで、遣構はまったく発見されていない。

それに対し、この「芋原=茨城」説は立派な遺構があるだけに魅力的である。この説だと、空堀だけで内部に曲輪の遣構がないことや、城域が広大なこと(一般に古代山城の城域は広い)も比較的容易に説明できる。

会員の井村富貴男氏は「古代山城茨城について」の中で次のように述べている。

他の古代山城は出来上がって居たが茨城と常城は建設中に朝鮮と我国との和平交渉がなり城建設の必要がなくなったので建設なかばで中止になった

また、茨城の訓み「うまらぎ、いばらぎ」が「いもばら」と似ていることからも有力と思われる。

現地までの交通

国道一八二号(バイパス)を北上し、山野方面に右折して道なりに進む。五キロほどで「広瀬」の標識が見える。ここを少し戻るように鋭角に左折すると、道は細く急な登りとなる。産廃処理場の入口を過ぎて少し進むと、左手に急坂があってここを左折。途中「広瀬中学校方面」とかかれた小さな立て札のところをもう一度左に道をとって登りきったあたりが芋原(東)である。

バスを利用する場合は、福山駅南ロから井笠バス「広瀬」行に乗車し、「広瀬郵便局」または「芋原」で下車。

初めての人には「大すき」の所在地はわかりづらいので「広瀬公民館」で尋ねることをお勧めする。

《参考文献》

  1. 「深安郡広瀬村誌」広瀬村誌編纂委員会編
  2. 古代山城茨城について」井村富貴男(備陽史探訪 42号
  3. 隠れた史跡と伝説を訪ねて」田口義之(備陽史探訪 58号
  4. 芋原「大すき」探索」小島袈裟春(備陽史探訪 60号
  5. 北山の歴史と民俗を探る」備陽史探訪の会編

芋原の大すき跡

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2023/08/z1-1024x677.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2023/08/z1-150x100.jpg管理人中世史古代史「山城探訪」より 平田 恵彦 「山城探訪―福山周辺の山城三〇選―」の選定会議では、この「芋原の大すき(大人のすき跡)」を入れるかどうかで議論が分かれた。というのは、この「大すき」跡が、以前から正体不明とされており、果たして山城の遺構といえるのかどうかもわからないからである。 しかし、集落を取り囲むように大規模な溝が厳然として存在している。この際、我々の手で一部測量調査してみようということになり、取り上げることにした。 芋原周辺の通称は「広瀬」。かつて深安郡広瀬村の集落であったためである。その後、昭和五一年(一九七六)に福山市と合併し、現在は福山市加茂町北山となっている。芋原は福山市北部、標高約三五〇mの吉備高原の台地上にあり、ここからの眺望は極めて良好である。南に目をやれば、眼下に四川の集落が望め、さらに神辺平野はもちろんのこと、駅家町や福山市街地まで一望できる。 さて、「芋原の大スキ」は中世城郭とすれば空堀であるが、その遺構は集落の東部を除くほぼ全域を鉢巻き状に巡っている(城域図参照。破線部は遣構が不明瞭)。 周溝の幅は三~五メートル、深さは一~ニメートルである(写真参照)。長径は東西に約一キロ、短径は南北に約〇・五キロで、全長は約二・五キロにも及ぶ広大さである。 しかし、残っているのは空堀(溝)だけで、その内側に曲輪の遺構は確認されていない(ただし地名と井戸跡から館跡は推定できる)。したがって、通常の中世山城の遺構とは大きく様相を異にする。謎とされてきた所以である。「大すき」については次のような伝承が残っている。 むかし大人が大きな牛に犂を引っぱらせてヒイゴシの端から高野峠を越して竹之端、幸之神に出て、芋原東の山本平を通って大野呂の端まで来た時、大きな岩に犂がひっかかった。そこで、大人が牛の尻を思いっきりたたいた。すると、牛が飛びあがって蹄についていた赤土を神辺まで飛ばして片山をつくった。いいか、大人がつくった大すきの道には近づいたらだめだ。大人にさらわれるぞ ―「昔語り大人と大すき」「深安郡広瀬村誌」を要約― 今回のわれわれの調査は簡単な測量調査である。正式な発掘調査を行わなければ、この謎の空掘の正体を結論づけることはできない。したがって本稿では、従来提出されている代表的な二説に若干批評を交えて紹介するにとどめる。 ①志川滝山合戦関連城説 芋原の南西に高尾三郎左衛門義兼の築城と伝えられる志川滝山城がある(周辺図参照)。 天文三年(一五三四)、宮氏の本拠新市亀寿山城が毛利氏の攻撃によって落城した際、幼主宮元範は落ち延びて宮常陸入道光音を頼り、芋原の地に居を帯えたという。その後、天文二一年(一五五二)に、光音らは一族の再興を図って志川滝山城に集結・挙兵したが、毛利軍の攻撃の前に武運つたなく討死にした。有名な志川滝山合戦である。 この合戦に際し、宮氏が支城として築いた、あるいは毛利方が築いたという説である。確かに、芋原は志川滝山城と谷を挟んで向かい合っており、戦略上の要衝である。 しかし、「大すき」の内側が城域とすると、志川滝山城よりはるかに大きい。支城が本城より大きいはずがない。仮に、芋原の方が本城としても曲輪が存在しないのは不可解である。また、毛利方の造築とすれば、西側の堀切だけで十分なはずだ。それよりも何よりも、空堀の内部・城域が広大すぎる。とにかく、中世の山城とするならまとまりに欠けるのである。それに、近辺で大きな合戦があったにもかかわらず、芋原で合戦があった、ここに城を築いたという伝承がまったく残っていない。先の「大すき」伝説も明らかに中世の山城造築を意味するものではない。 要するにこの説では、なぜ中世山城の形態を成していないのか、説明できないのである。 ②古代山城茨城説 われわれ備陽史探訪の会が提起した説である。備後には文献に残る有名な古代山城、茨城・常城がある。「続日本紀」養老三年の条に「備後の国安那郡茨城、董田郡常城を停む(停止した)」とあるのがそれである。 このうち茨城の所在地は、蔵王山説・井原説など諸説あるが、いずれも「和名抄」等の文献による考察のみで、遣構はまったく発見されていない。 それに対し、この「芋原=茨城」説は立派な遺構があるだけに魅力的である。この説だと、空堀だけで内部に曲輪の遣構がないことや、城域が広大なこと(一般に古代山城の城域は広い)も比較的容易に説明できる。 会員の井村富貴男氏は「古代山城茨城について」の中で次のように述べている。 他の古代山城は出来上がって居たが茨城と常城は建設中に朝鮮と我国との和平交渉がなり城建設の必要がなくなったので建設なかばで中止になった また、茨城の訓み「うまらぎ、いばらぎ」が「いもばら」と似ていることからも有力と思われる。 現地までの交通 国道一八二号(バイパス)を北上し、山野方面に右折して道なりに進む。五キロほどで「広瀬」の標識が見える。ここを少し戻るように鋭角に左折すると、道は細く急な登りとなる。産廃処理場の入口を過ぎて少し進むと、左手に急坂があってここを左折。途中「広瀬中学校方面」とかかれた小さな立て札のところをもう一度左に道をとって登りきったあたりが芋原(東)である。 バスを利用する場合は、福山駅南ロから井笠バス「広瀬」行に乗車し、「広瀬郵便局」または「芋原」で下車。 初めての人には「大すき」の所在地はわかりづらいので「広瀬公民館」で尋ねることをお勧めする。 《参考文献》 「深安郡広瀬村誌」広瀬村誌編纂委員会編 「古代山城茨城について」井村富貴男(備陽史探訪 42号) 「隠れた史跡と伝説を訪ねて」田口義之(備陽史探訪 58号) 「芋原「大すき」探索」小島袈裟春(備陽史探訪 60号) 「北山の歴史と民俗を探る」備陽史探訪の会編 芋原の大すき跡備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会古代史部会では「大人の博物館教室」と題して定期的に勉強会を行っています。
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