石成庄(福山市神辺町・加茂町・研究のまとめ)

備陽史探訪:172号」より

坂本 敏夫

岩成庄に関係する寄稿は、会報一〇八一〇九一一三一五九の四度にわたって寄稿しましたが、今回は前回寄稿時までに思い至らなかった点、その後新たに判明した事実等を中心に記述してみたいと思います。

新たに判明したこと等を述べる前に、以前に寄稿した記述の論点を確認しておきます。

一、岩成庄の上村・下村は、福山市史等に記載されている荘域を南北に、北が上村・南が下村と解釈すべきではなく、東西に東が上村・西が下村と解釈すべきである。

二、上村に地頭職が設定されていた事は、文書資料を子細に検討すれば判明していたにもかかわらず見落としていた事。

三、岩成庄は、上村・下村・法成寺の三地域に分かれていたと解釈していた事。

今回記述します論旨に関係する論点は、大略以上の三点です。新発見及び解釈修正を含めて以下記述をいたします。

まず一点は、一年半くらい前に知り得たことでありますが、加茂町上加茂古川地区の県道三九一号線の路面地下を掘削中に、埋没流木丸太を発見し掘り出したと聞き及んだことです。

私は過去の寄稿で岩成庄が上村・下村に分かれ、その境界部は旧加茂川の流路であり、その旧加茂川の流路は「古川」「中筋」「石井手」等の地名を基に、南北に通じている現在の県道三九一号線を含む地帯であると度々述べて来ました。

私が旧加茂川の流路であると指摘していた地帯から埋没流木を発見したという事実は、「加茂川の旧流路は、現在の加茂川流路とは異なり、県道三九一号を含む地帯である」と云う地名を基にした私の説を強力に補強するものであると考えます。

次に二点目ですが、「古文書から見た「岩成庄道上」」と題しての二月の城郭部会勉強会へ向けての資料点検中に改めて気付いた事です。

それは『大日本史料』に所収されている応永八年(一四〇一)七月十六日付の「足利義持御教書」に記されている岩成内上村に応永八年以前から地頭職が設定されていたと云うことであり、その前地頭職の保持者が「片山兵庫大夫入道」と記載されていることです。

岩成上村に地頭職が設定されていた事が解るのは、私が知り得ている岩成関係の文書資料三十六点の中では、この文書「足利義持御教書」一点のみです。

注目すべきは、文書中の前地頭職保持者は「片山」を姓として名乗っていることである。「片山」とは現在の神辺町川南片山のことであると考えられます。

この片山を姓とする「片山兵庫大夫入道」は、地域生えぬきの土着豪族であった可能性があると考えます。その裏づけ論証の一つとして、以前の例会等で提示しました文明十五年(一四八三)九月二六日付山内豊通譲与請地日記(山内首藤家文書)に記載されている「片山・元藤」同じ地であると考えられること。

その同じ文書では片山・元藤の請料として「京着公用廿貫文」を納付とあり、片山・元藤が納付出来る経済力を、有していた地であったと推定できること。

このような一定の経済力を有する地には、中世期所謂悪党と称される地方土着豪族が多く生れていると云われていること。

これらのことから「片山兵庫大夫入道」とは片山地区を拠点としていた土着豪族であったとは考えられないでしょうか。

この高屋川沿いの片山には、故小林定市氏が片山の山頂に、山城跡と思われる遺構があると言われ現地調査に訪れたことがあります。

その時には山城遺構とは断定できず。むしろ後世畠として開発したことにより郭らしき平地が出現したものと断定した記憶があります。

しかしこの文書を読み解き、片山に上村地頭職を保持していた地区豪族が存在していたと云う事は、片山山頂に過っては山城が存在していた事もありえます。

今となっては小林定市氏がこの文書を年頭において山城跡の存在を考えられていたかどうか解りません。残念至極であり心苦しき思いでもあります。

なお文書全文は次の通りであり、傍線部分が岩成上村に関係する部分です。

足利義持御教書

三重太郎政信申備後國□□(岩成)内上村片山兵庫大夫入道跡 地頭職事、先守護度々被仰了、早退押領、可沙汰付下地政信之由、所被仰下候也、仍執達如件、
   応永八年七月十六日
          (畠山基國)
           沙爾 判
    山名右衛門(時熙)佐入道殿

注、三重太郎政信については、木下和司氏の御教示によると杉原氏の同族大和氏の支流・三重氏の惣領、尊卑分脈の伊勢平氏貞平流の内、三重流の南北朝の末期の惣領に認められる人物、備後にも所領を持っていて岩成の上村に所領を有していた。横領しているのは宮氏と推測されるといわれました。

次に第三点目ですが、岩成庄は上村・下村・法成寺の三域に分かれると述べてきましたが、この解釈は修正した方がよいのではと考えるようになりました。

上村・下村・法成寺の三地域に分割されると解釈した根拠は、応安七年(一三七三)正月十三日付け油木八幡神社大般若経奥書に記載されている次の記述である「備後国岩成庄於法成寺佛摂寺住呂○○法師」この傍線部の記述を基に、上村・下村・法成寺の三地域に分割されると解釈したのです。

その解釈の意味するところは、三地域がそれぞれ独立した中世的村落であった事を意味しており、その意味においては解釈を修正すべきではないかと考えるに至りました。

修正の内容は、上村については従前通りでよいかと考えますが、法成寺については、岩成庄下村内の一つの集落呼称と考えるべきではないかと解釈します。

解釈修正の根拠としては、応永十五年十月十三日(一四〇八)付け室町幕府御教書(山内首藤家文書)中に見える「備後國石成庄下村、同門田」の傍線部の下村門田の地と解釈すべき場所が法成寺地区西部に門田の地名に存在することです。

岩成庄下村は、したがって法成寺地区を含み、私が従前考え主張していた下村地域の範囲より北部へと拡大すべきと考えます。以上三点について、推定論旨を交えて述べ今回は筆を置きます。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2013/05/b320833381806e42f083271ba09b78ce.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2013/05/b320833381806e42f083271ba09b78ce-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:172号」より 坂本 敏夫 岩成庄に関係する寄稿は、会報一〇八・一〇九・一一三・一五九の四度にわたって寄稿しましたが、今回は前回寄稿時までに思い至らなかった点、その後新たに判明した事実等を中心に記述してみたいと思います。 新たに判明したこと等を述べる前に、以前に寄稿した記述の論点を確認しておきます。 一、岩成庄の上村・下村は、福山市史等に記載されている荘域を南北に、北が上村・南が下村と解釈すべきではなく、東西に東が上村・西が下村と解釈すべきである。 二、上村に地頭職が設定されていた事は、文書資料を子細に検討すれば判明していたにもかかわらず見落としていた事。 三、岩成庄は、上村・下村・法成寺の三地域に分かれていたと解釈していた事。 今回記述します論旨に関係する論点は、大略以上の三点です。新発見及び解釈修正を含めて以下記述をいたします。 まず一点は、一年半くらい前に知り得たことでありますが、加茂町上加茂古川地区の県道三九一号線の路面地下を掘削中に、埋没流木丸太を発見し掘り出したと聞き及んだことです。 私は過去の寄稿で岩成庄が上村・下村に分かれ、その境界部は旧加茂川の流路であり、その旧加茂川の流路は「古川」「中筋」「石井手」等の地名を基に、南北に通じている現在の県道三九一号線を含む地帯であると度々述べて来ました。 私が旧加茂川の流路であると指摘していた地帯から埋没流木を発見したという事実は、「加茂川の旧流路は、現在の加茂川流路とは異なり、県道三九一号を含む地帯である」と云う地名を基にした私の説を強力に補強するものであると考えます。 次に二点目ですが、「古文書から見た「岩成庄道上」」と題しての二月の城郭部会勉強会へ向けての資料点検中に改めて気付いた事です。 それは『大日本史料』に所収されている応永八年(一四〇一)七月十六日付の「足利義持御教書」に記されている岩成内上村に応永八年以前から地頭職が設定されていたと云うことであり、その前地頭職の保持者が「片山兵庫大夫入道」と記載されていることです。 岩成上村に地頭職が設定されていた事が解るのは、私が知り得ている岩成関係の文書資料三十六点の中では、この文書「足利義持御教書」一点のみです。 注目すべきは、文書中の前地頭職保持者は「片山」を姓として名乗っていることである。「片山」とは現在の神辺町川南片山のことであると考えられます。 この片山を姓とする「片山兵庫大夫入道」は、地域生えぬきの土着豪族であった可能性があると考えます。その裏づけ論証の一つとして、以前の例会等で提示しました文明十五年(一四八三)九月二六日付山内豊通譲与請地日記(山内首藤家文書)に記載されている「片山・元藤」同じ地であると考えられること。 その同じ文書では片山・元藤の請料として「京着公用廿貫文」を納付とあり、片山・元藤が納付出来る経済力を、有していた地であったと推定できること。 このような一定の経済力を有する地には、中世期所謂悪党と称される地方土着豪族が多く生れていると云われていること。 これらのことから「片山兵庫大夫入道」とは片山地区を拠点としていた土着豪族であったとは考えられないでしょうか。 この高屋川沿いの片山には、故小林定市氏が片山の山頂に、山城跡と思われる遺構があると言われ現地調査に訪れたことがあります。 その時には山城遺構とは断定できず。むしろ後世畠として開発したことにより郭らしき平地が出現したものと断定した記憶があります。 しかしこの文書を読み解き、片山に上村地頭職を保持していた地区豪族が存在していたと云う事は、片山山頂に過っては山城が存在していた事もありえます。 今となっては小林定市氏がこの文書を年頭において山城跡の存在を考えられていたかどうか解りません。残念至極であり心苦しき思いでもあります。 なお文書全文は次の通りであり、傍線部分が岩成上村に関係する部分です。 足利義持御教書 三重太郎政信申備後國□□(岩成)内上村片山兵庫大夫入道跡 地頭職事、先守護度々被仰了、早退押領、可沙汰付下地政信之由、所被仰下候也、仍執達如件、    応永八年七月十六日           (畠山基國)            沙爾 判     山名右衛門(時熙)佐入道殿 注、三重太郎政信については、木下和司氏の御教示によると杉原氏の同族大和氏の支流・三重氏の惣領、尊卑分脈の伊勢平氏貞平流の内、三重流の南北朝の末期の惣領に認められる人物、備後にも所領を持っていて岩成の上村に所領を有していた。横領しているのは宮氏と推測されるといわれました。 次に第三点目ですが、岩成庄は上村・下村・法成寺の三域に分かれると述べてきましたが、この解釈は修正した方がよいのではと考えるようになりました。 上村・下村・法成寺の三地域に分割されると解釈した根拠は、応安七年(一三七三)正月十三日付け油木八幡神社大般若経奥書に記載されている次の記述である「備後国岩成庄於法成寺佛摂寺住呂○○法師」この傍線部の記述を基に、上村・下村・法成寺の三地域に分割されると解釈したのです。 その解釈の意味するところは、三地域がそれぞれ独立した中世的村落であった事を意味しており、その意味においては解釈を修正すべきではないかと考えるに至りました。 修正の内容は、上村については従前通りでよいかと考えますが、法成寺については、岩成庄下村内の一つの集落呼称と考えるべきではないかと解釈します。 解釈修正の根拠としては、応永十五年十月十三日(一四〇八)付け室町幕府御教書(山内首藤家文書)中に見える「備後國石成庄下村、同門田」の傍線部の下村門田の地と解釈すべき場所が法成寺地区西部に門田の地名に存在することです。 岩成庄下村は、したがって法成寺地区を含み、私が従前考え主張していた下村地域の範囲より北部へと拡大すべきと考えます。以上三点について、推定論旨を交えて述べ今回は筆を置きます。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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