道上(道の上とも)地名の考察(福山市神辺町の条里制地名)

備陽史探訪:159号」より

坂本 敏夫

神辺町道上の地名については、私の生地でもあり、年来の持論があります。

私は以前の会報(一〇八~〇九号)記載文で道上地名に付いて触れたことがありますが、前号の会報(一五八号)紙上にて根岸尚克氏が条里制を基に道上の地名について氏の節を述べられておられます。私が以前から提唱している論旨とは若干異なりますので、改めて私の論旨を述べる事にし、投稿することとしました。

まず、道上の地名は、根岸氏と同じく条里制に関係があり、条里制地名その物であると考えます。

ただ、根岸氏が提示されている「読みが転化したもの」説とは、私の論旨は異なります。

道上地名は、中世に備後国岩成庄上村と言われていた地域に条里区割りを、施行した当初から「道上条」と言われる条里地が存在していたことが、伝えられている中世文書等から論証考察できます。

さらに条里遺構及び地名の研究家である佐々木卓也氏が『芸備両国の条里遺構』紙面で備後国の条里地割に付いて論証されており、佐々木卓也氏の論証は現在伝えられている道上・加茂等に残る地名とも一致しており、条里制遺構と従来から言われている道上地区に現存する地割とも一致します。

それでは佐々木氏の論証による条里制地割図・伝わる中世古文書をともに記載し、それを基に私の論証を記述します。

先ず右の条里地割図は、佐々木卓也氏の条里遺構研究論文『芸備両国の条里遺構』に記載されている条里地割図を引用し、図面中に私が数字1~4と旧山陽道を表す線を太線で、道上条の区域を表示するために、塗りつぶしを書き加えた地割図です。
条里地割図

それではこの道上という条里がなぜどうして成立したかを、次に左記の条里地割図を基に論証していきます。図の1~3は古・中世山陽道を示しています。1は駅家町近田の廃最明寺西の小丘陵先端部に当ります。2は正戸山城跡南側裾に当ります。3は神辺町箱田の箱田池束の丁屋に当ります。4は加茂町中野の加茂小学校南約三〇〇m付近の「立縄手」と呼称されている場所に当ります。

「立縄手」とは、条里制施工の起点になった地点であると考えられています。

安那郡には東から「東条」「中条」「西条」の各条里が存在したことは広く認識されています。しかし東・中・西条がそれぞれ現在のどの地域に該当するかと言う事は、一般的に認識されているとは言えないと思います。そこでさきに確認の意味も含めて東・中・西条それぞれ該当する現在の地域を列記します。

東条は、現在の御領地域に比定されます。中条は、現在の中条と箱田地域に比定されます。

西条は、現在の加茂谷筋と岩成地域の一部に当ると考えます。

今回は右の条里の内、中条・西条の条里の東西の起点と南北の起点及び西条の北端の条里起点について、佐々木氏の論旨を引用して、道上条について論証します。中条については、図中の2を起点にして旧山陽道が北へ振れて丁屋へ向ってほぼ直進する。このやや北に振れた旧山陽道を東西の基軸にし、神辺旭高校北の要害山頂から旧山陽道との直角線を南北の基軸にしたのが、中条の条里地割であると佐々木氏は述べられています。

次に西条に付いては、東西の起点は1から2に通じる旧山陽道を東西の基軸とし、南北軸は西の品治郡の南北軸を基準としている。西条の一条の起点は4の加茂町中野地区の「立縄手」が基準である。立縄手から南へ三条が丁度旧山陽道に位置する。この西条の東西軸が2を起点として北に振れる事により、西条の条里地割と北に振れた旧山陽道に沿うように南北両側に三角形地形の余条地帯が出現する。この余条地帯(地割図内の薄墨に塗りつぶしを施した力所)が「道上条」に相当する部分であると私は考えます。

この道上条は、道上地区西端の正藤池南約五〇mから(西の上岩成正戸地区へ延びる痕跡あり)道上中組の堂を結ぶ東西路から北、旧山陽道間と東は亀山遺跡丘陵東側の旧中川流路の間、この三角形の地域が道上条に相当すると私は考えます。

なお、今回引用しました佐々木卓也著『芸備両国の条里遺構』が備後の条里制に付いて学術的に述べられているただ一つの条里制論文であると言われています。その上これまで私が管見する限りこの論文要旨に異論を記述されている研究者は存じていません。何方かご存知でしたら御教えいただければ幸いです。

次に「道上条」が記載されている古文書を提示します。この文書は、広島県史古代中世資料集に所収されている京都大学文学部所蔵の「古文書集」より引用しています。

一備後国深津郡石成庄上村武守名内即分田畠坪付
「備州石成上村」
石成庄上村半分武守名内即分田畠坪付事合四条三里八(坪ヵ)ゝ一反三百卅歩四条三里廿九ゝ五反内屋敷半
道上条二ゝ小
南六条四ゝ二反小内神一反土一反小川成也、
南六条五ゝ二反半
南六条十ゝ八反半内三反ッゝミソヘ
南六条十三ゝ二反
南六条十四ゝ半常一反也、
 西条門
 ・五反六十歩内川成半
 庄田
 ・一反六十歩同名畠坪付
 ・三反内一反浄香庵屋敷替才二反公方
 ・二反内小手作才大工方
 ・半内早倉部正敷地九十歩才二工田
 ・一反神也、
 右注進如件、
 応安三年二月三日案主勘解由左衛門尉□

上記のように応安三年宝(一三七〇)二月付けの石(岩)成庄上村武守名即分田畠坪付に道上条が記載されており、この道上条が道上地名の名称の基になったと解釈すべきであると考えます。

道上の地名が村名として使われるようになるのは、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後に福島氏が芸備両国の領主として入って後、近世村落が誕生してからである。それまでは、中世的呼称である岩成庄上村内の各「名」で呼称されていたと解釈するべきであると考える。現在でも道上には「名」地名と考えられる字地名が二ヶ所伝わっている。(兼近・長光)以上提示しました二点の資料が基になり「道上」の地名が誕生したと私は解釈すべきであると考えます。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/2c57a0a1e1b264f8235052d8fbd453a4.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/2c57a0a1e1b264f8235052d8fbd453a4-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:159号」より 坂本 敏夫 神辺町道上の地名については、私の生地でもあり、年来の持論があります。 私は以前の会報(一〇八~〇九号)記載文で道上地名に付いて触れたことがありますが、前号の会報(一五八号)紙上にて根岸尚克氏が条里制を基に道上の地名について氏の節を述べられておられます。私が以前から提唱している論旨とは若干異なりますので、改めて私の論旨を述べる事にし、投稿することとしました。 まず、道上の地名は、根岸氏と同じく条里制に関係があり、条里制地名その物であると考えます。 ただ、根岸氏が提示されている「読みが転化したもの」説とは、私の論旨は異なります。 道上地名は、中世に備後国岩成庄上村と言われていた地域に条里区割りを、施行した当初から「道上条」と言われる条里地が存在していたことが、伝えられている中世文書等から論証考察できます。 さらに条里遺構及び地名の研究家である佐々木卓也氏が『芸備両国の条里遺構』紙面で備後国の条里地割に付いて論証されており、佐々木卓也氏の論証は現在伝えられている道上・加茂等に残る地名とも一致しており、条里制遺構と従来から言われている道上地区に現存する地割とも一致します。 それでは佐々木氏の論証による条里制地割図・伝わる中世古文書をともに記載し、それを基に私の論証を記述します。 先ず右の条里地割図は、佐々木卓也氏の条里遺構研究論文『芸備両国の条里遺構』に記載されている条里地割図を引用し、図面中に私が数字1~4と旧山陽道を表す線を太線で、道上条の区域を表示するために、塗りつぶしを書き加えた地割図です。 それではこの道上という条里がなぜどうして成立したかを、次に左記の条里地割図を基に論証していきます。図の1~3は古・中世山陽道を示しています。1は駅家町近田の廃最明寺西の小丘陵先端部に当ります。2は正戸山城跡南側裾に当ります。3は神辺町箱田の箱田池束の丁屋に当ります。4は加茂町中野の加茂小学校南約三〇〇m付近の「立縄手」と呼称されている場所に当ります。 「立縄手」とは、条里制施工の起点になった地点であると考えられています。 安那郡には東から「東条」「中条」「西条」の各条里が存在したことは広く認識されています。しかし東・中・西条がそれぞれ現在のどの地域に該当するかと言う事は、一般的に認識されているとは言えないと思います。そこでさきに確認の意味も含めて東・中・西条それぞれ該当する現在の地域を列記します。 東条は、現在の御領地域に比定されます。中条は、現在の中条と箱田地域に比定されます。 西条は、現在の加茂谷筋と岩成地域の一部に当ると考えます。 今回は右の条里の内、中条・西条の条里の東西の起点と南北の起点及び西条の北端の条里起点について、佐々木氏の論旨を引用して、道上条について論証します。中条については、図中の2を起点にして旧山陽道が北へ振れて丁屋へ向ってほぼ直進する。このやや北に振れた旧山陽道を東西の基軸にし、神辺旭高校北の要害山頂から旧山陽道との直角線を南北の基軸にしたのが、中条の条里地割であると佐々木氏は述べられています。 次に西条に付いては、東西の起点は1から2に通じる旧山陽道を東西の基軸とし、南北軸は西の品治郡の南北軸を基準としている。西条の一条の起点は4の加茂町中野地区の「立縄手」が基準である。立縄手から南へ三条が丁度旧山陽道に位置する。この西条の東西軸が2を起点として北に振れる事により、西条の条里地割と北に振れた旧山陽道に沿うように南北両側に三角形地形の余条地帯が出現する。この余条地帯(地割図内の薄墨に塗りつぶしを施した力所)が「道上条」に相当する部分であると私は考えます。 この道上条は、道上地区西端の正藤池南約五〇mから(西の上岩成正戸地区へ延びる痕跡あり)道上中組の堂を結ぶ東西路から北、旧山陽道間と東は亀山遺跡丘陵東側の旧中川流路の間、この三角形の地域が道上条に相当すると私は考えます。 なお、今回引用しました佐々木卓也著『芸備両国の条里遺構』が備後の条里制に付いて学術的に述べられているただ一つの条里制論文であると言われています。その上これまで私が管見する限りこの論文要旨に異論を記述されている研究者は存じていません。何方かご存知でしたら御教えいただければ幸いです。 次に「道上条」が記載されている古文書を提示します。この文書は、広島県史古代中世資料集に所収されている京都大学文学部所蔵の「古文書集」より引用しています。 一備後国深津郡石成庄上村武守名内即分田畠坪付 「備州石成上村」 石成庄上村半分武守名内即分田畠坪付事合四条三里八(坪ヵ)ゝ一反三百卅歩四条三里廿九ゝ五反内屋敷半 道上条二ゝ小 南六条四ゝ二反小内神一反土一反小川成也、 南六条五ゝ二反半 南六条十ゝ八反半内三反ッゝミソヘ 南六条十三ゝ二反 南六条十四ゝ半常一反也、  西条門  ・五反六十歩内川成半  庄田  ・一反六十歩同名畠坪付  ・三反内一反浄香庵屋敷替才二反公方  ・二反内小手作才大工方  ・半内早倉部正敷地九十歩才二工田  ・一反神也、  右注進如件、  応安三年二月三日案主勘解由左衛門尉□ 上記のように応安三年宝(一三七〇)二月付けの石(岩)成庄上村武守名即分田畠坪付に道上条が記載されており、この道上条が道上地名の名称の基になったと解釈すべきであると考えます。 道上の地名が村名として使われるようになるのは、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後に福島氏が芸備両国の領主として入って後、近世村落が誕生してからである。それまでは、中世的呼称である岩成庄上村内の各「名」で呼称されていたと解釈するべきであると考える。現在でも道上には「名」地名と考えられる字地名が二ヶ所伝わっている。(兼近・長光)以上提示しました二点の資料が基になり「道上」の地名が誕生したと私は解釈すべきであると考えます。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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