備後国府城と杉原保(八尾山城説の呪縛)

備陽史探訪:120号」より

小林 定市

一、はじめに

平成十四年一月、四十一万都市福山の中心部に当たる福山城の初期城下町(野上村)と、隣接する本庄村一帯が中世の杉原保であったことが判明した。

その理由は福山城が築城される以前、同地には常興禅寺があったが築城に伴い同寺は北吉津町に移転し、本尊の木像釈迦如来坐像は胎蔵寺に伝えられ、同仏像内から「日本国備後洲深津郡椙原保常興禅寺」という記述が見付かったのである。

従来の通説では杉原氏の本拠杉原保は、御調郡(尾道市原田町周辺)であるとする説が圧倒的に有力視され、片山清氏による杉原保福山城地説の「備後國椙原保私考」論文は注目されなかった。

杉原氏の本拠が福山市に存在したと判明しても、杉原氏の本拠は江戸時代から府中八尾山城であるとする不動の説があり、何れの説が正しいのか検証が必要となった。

杉原氏の本拠八尾山城説は、『福山市史』と『広島県史』を執筆された先生方に依って、肯定された解決済みの歴史的事実とされていても、杉原氏の本拠説を振出しに戻して再検討を試みる。

八尾山城説の根本資料は江戸時代に書かれた『西備名区』で、同書によると「杉原伯耆守光平 (伯耆守、従五位下、始めて杉原と称す)鎮守府将軍貞盛後胤、鎌倉殿に仕へ頼家将軍(一一八二~一二〇四)より備後守護を賜り、営城(八尾山城・芦田郡出口村)を築いて住まいす。」と書かれており、馬屋原重帯が記した「杉原氏の本拠は八尾山城であった」とする説が史家に依って肯定されてきたからである。

更に光平の次男員平に就いても「杉原民部丞員平 八尾二代 光平男、実朝将軍に奉仕、従五位下に任じられ、備後守護職を賜はる。 是より木梨に続く」と記し、員平の嫡男光綱を「杉原民部丞光網 八尾三世」、光綱の嫡男盛綱について「杉原三郎盛網 八尾四世」と記していた。

以後五世は員平の二男忠綱・六世親網・七世時綱・八世光房。九世親光・十世満平と続き、鎌倉時代初期以降杉原嫡流は杉原保の関係は見当たらず、「八尾城は杉原光平より世々の本城なり」と書いている。

二、『西備名区』の出典

馬屋原重帯は、杉原氏系図の出典史書を明らかにしていない。しかし、『西備名区』の記載内容を丹念に追跡し八尾杉原系図を復元してみると、以外にも原書は『尊卑分脈』の「桓武平氏」が用いられており、同書を書写していた事が判明した。

書写は桓武平氏の平貞盛から始まり、貞盛の三男維衡から子息の正度に続き、正度には維盛・貞季・季衡・貞衡・正衡の五人の子息が居たが、誤写が原因で光平は貞衡の弟で正衡の兄に当たる正度の五男の位置に記入された。そのため『西備名区』の正度の子息は、一名増加して六人兄弟となり辻棲が合わなくなった。

馬屋原重帯が原書を正確に書写していると、光平は貞衡から数えて六代日の桓平の次男になるのであるが、桓平の嫡男宗平を書き漏らしていた。其の上七代も省略して誤写したため、系図の上で光平は平清盛(一一一八~一一八一)より古い平安時代中期の人物となった。

困惑した馬屋原重帯は誤写には気付かなかったらしいが、想定年代と系図が三百年近くも食い違っている矛盾に気付いたらしく、そこで辻棲を合わすため実年代に少しでも近付けるため次案の系図を作成した。

二番目の系図は「一は貞盛の孫・正度の子・光平の弟正衡・其男正盛・其男忠盛。其男清盛・其男重盛。其男維盛・其孫光平とみゆ、維盛の後は木梨に記す」と記し、光平の曽祖父は平重盛(一一三八~一一七九)と書いた。

そのため平維盛には孫が居て、その孫が杉原光平であるとする日本歴史に無い備後だけで見られる新系図を創作した。『西備名区』の系図は光平の親が平正度であるとする系図と、平維盛の孫とする出鱈目な二つの系図が伝えられた。

平重盛は生年が確定しており、光平の生誕年は平重盛を基準にして三代後の計算をすれば概略光平の生年の答えが出る。女子が続けて誕生する場合もあり、仮に最短年の一代を二十年余として三代の掛け算すると約六十年という答えが出る。そこで平重盛の誕生年の保延四年に、六十年を加えた年の正治二年(一二〇〇)頃が光平の誕生年となる。

ところで源頼家が将軍に就任するのは建仁二年(一二〇一)七月の出来事で、系図の通り頼家が光平を備後の守護職に任じたとすると、光平の守護拝命年齢は誕生前後と信じられない年代の答えとなる。

次に光平の次男員平は、「実朝将軍に奉仕して備後守護職を賜る」と記しているが、実朝の没年は承久元年(一二一九)正月であった。員平の推定誕生の計算は、正治二年に二十年に次男の二年を加えた、貞応元年(一二二二)頃が相応の年と考えられる。簡単な計算であるが、員平は実朝が死去した三年後に誕生した勘定になる。前記の事由から二・三代将軍と杉原光平・員平の接点があったとする見方は誤りである。

光平の実在は確認されていないようであるが、実在した人物に系図上で光平の外孫に当たる深津杉原淡路守泰綱がいる。杉原泰網は建武三年(一三三六)頃活躍しており、杉原泰綱の活躍年を基にして、光平の活躍年代を二代五十年遡らせて逆算すると弘安九年(一二八六)が光平の活躍年代という答えになった。

その他系図の写し誤りに、八代光方を光房と誤記。寛正から文明年間の頃活躍した伊賀守賢盛を師盛と誤記。賢盛の曾孫兵庫助晴盛を兵庫介時盛と誤記している。他に康安二年(一三六二)の頃活躍したと記載されている、八尾の城主杉原左近将監詮光の外孫彦三郎光親について、「天文の初め(一五三二)に丹州に移ると云う」と記しているが、百年以上も空白の年代が見られる。

『西備名区』の御調郡木梨村の条には、「鷲尾山城の木梨左衛門尉信平に就いて、其の先は大政大臣平清盛の裔孫維盛の末葉なり。その孫は、何れかの時に鎌倉に出て北条家に仕える。平貞盛の十三世にあたり、杉原胤平という、其の胤平の嫡男なり。」と記している。

更に「胤平は相模入道の女と通じて、罪を得て兄弟倶に討果たさるべしとありしを聞きて、遁れて西国に下り、備後國山野村に隠れ住む。其の後、元弘の乱に桜山に組し桜山没後、後醍醐天皇の船上山に国士と倶に馳参り、」と、福山市山野町に隠棲していたとする漫画や物語程度の変わった新説を記しているが、杉原保に関する記述は何も見当たらない。

近年は商品に対して不当表示が厳しく追及されている。私見であるが史書に対しても、商品と同様に今後は内容を吟味して評価を下して行くことが肝要と思う。

『西備名区』の「八尾山城」を注意して読み進めると、『尊卑分脈』の原書に無い書き加えが見られる。そのため先ず最初に書き加え文の真偽鑑定が必要となってくる。

『尊卑分脈」に書き加えられた追記の記録は歴史の解明に貢献する史料なのか、それとも「禁じ手」に近い改竄捏造記録なのか、詳細な分析と評価は歴史家の使命である。

三、頼家と実朝の将軍権力

前記の光平と員平父子が、「源頼家と源実朝から備後守護に補任されたとする」説に対して、備後では学問的裏付けの無い盲目的な賛同説と尻馬説が見られる。一般の読者は頼家と実朝の将軍権力は、頼朝や尊氏・家康等と同等程度のものとして、何の違和感もなく受け入れられてきたようである。

正冶元年(一一九九)正月源頼朝が死没すると、鎌倉幕府は頼家の将軍家督親裁権を止めて、北条時政や大江広元を含む宿老十三人の合議制で幕政を運営しており、当時の幕府発給文書を見れば『西備名区』の記録は明らかに誤りである。頼家は名ばかりの将軍となり実権は宿老会議に奪われ、守護職の補任権は幕府に収奪されており、実権を取り返せなかった頼家は蹴鞠に熱中していた。

建仁三年(一二〇三)八月、頼家が重病に罹ると北条時政はその遺跡譲与を定めた。「頼家の嫡男一幡に関東二十八ヵ國の地頭職を、頼朝の次男実朝に関西三十八ヵ國の地頭職を」相続させることにしている。その後時政は政敵比企一族とともに一幡まで殺害したのであった。時政は実朝を将軍に据え幕府の実権を完全に掌握すると、諸国の御家人に下文を発給して所領の安堵を行った。

三代将軍源実朝(一一九二~一二一九)の政治権力は、北条時政の強大な実権の掌握による北条幕府独占体制を固めてしまった。そのため実朝の将軍権力と地位は完全に没却されており、実朝は歌や蹴鞠による孤独な日々を送っていた。

以上前記の事由から光平と員平が頼家と実朝から、備後守護職に補任されることは絶対にあり得ないことで、光平と員平が守護に補任されたとする年代には、長井時広が備後の守護として活躍していた時期と重複する時期でもあった。

四、『備陽六郡志』の杉原氏

尾道の『西国寺文書』文明三年(一四七一)の、西国寺不断経修行状に見られる「杉原 圓蔵坊」の後身と推定できる寺に、福山市西町の真言宗能満寺がある。

同寺は「開山不知」と飾らない寺伝を伝え、約四百有余年前の伝承を梵鐘に伝えていた。梵鐘の銘文は「備之後州福山妙智山普門院能満寺鐘銘井序 夫営寺者、未詳傳世何人草創、傳聞杉原又太郎信平、同舎弟又次郎為平者則、當寺住持乃甥也、因而在於當寺、励文筆蛍雪之功業、顕軍術抜群之栄誉、依之高字云能満之又太郎同又次郎、(以下略)」とあり、梵鐘は寛保元年(一七四一)三月に鋳造されていた。

銘文は鎌倉時代末の杉原保時代の出来事を、かなりの程度迄正確に反映している伝承のようである。苗字の本拠地である杉原保の寺院で、信平と為平の兄弟が文武に励んでいたとする伝承を、江戸時代の住職阿闍梨宥弘が鐘銘に彫らせていた。

その梵鐘銘文を、『備陽六郡志』の筆者宮原直倁が「福山城下寺院」の条に筆写していた。前記の記録から杉原氏の本拠地野上村は動かし難いと思うのであるが、馬屋原重帯は国府の八尾が本城であるとしている。

平安時代末頃の、岩清水八幡宮寺領の備後國杉原別宮の後身と推定できる、本庄村の宮本八幡宮は元禄末年頃次の記録を伝えていた。(『備陽六郡志』内篇巻十)に依ると「社殿三間四面、除地社地六畝・小林一町五反三畝・田一反一畝・流鏑馬場五畝十八歩」と、近隣の宮には見られない流鏑馬の馬場があり、弓矢の神八幡宮を奉斎していた杉原氏が、社頭で流鏑馬の修練を行っていた名残を示す地名を伝えていた。

五、防長の杉原系図

関ヶ原合戦後、杉原氏は毛利輝元に従い防長に移住した後、木梨杉原・高洲杉原・山手杉原の三杉原家が系図を毛利家に提出している。

木梨杉原氏の系図は、「平貞盛から始まり平貞衡の七代日に杉原光平を記し、光平―員平―真観―胤平の弟某は(備後國深津郡野上村能満寺住職)―信平(備後國御調郡木梨庄鷲尾城主)」と記しているが、系図は『尊卑分脈』の平正度の四男平貞衡と五男正衡の合成系図を作成していた。

更に『木梨先祖由来書』は、「平貞盛十四世の末葉たり、孤となり歳久しく沈論して流浪の身にて有りける故、深津郡野上村能満寺の住侶と、伯父甥の親に依って彼寺に養育致され」と、建武以前は備後國深津郡野上村が故地であったと記していた。

高洲杉原氏の系図は、「平相國清盛四代之孫―季衡―恒平―光平(備後國中祭城主)―員平―真観―胤平(妻深津淡路守泰綱女)―信平(在城備後國御調郡木梨)」と先祖は平清盛から始まり、光平は備後国中祭城主(場所不詳)としている。

山手杉原氏の系図も、「平相國清盛五代従五位下掃津守恒平次男―光平―真観―光良弟親平―胤平弟為平―光胤―光恒―光貞―匡信(備後國沼隈郡山手之城主)―理興」と伝えており、高洲杉原氏と山手杉原氏の系図は『尊卑分脈』の平貞衡と平正衡の家系を合成した系図であった。

このように防長の杉原氏三家は、能満寺との関係を伝えていたが八尾城に関する記載は何一つ無かった。系図は『尊卑分脈』に依拠していたが、建武以前の杉原氏の動向を明らかにする史料は見当たらない。

六、備後山名氏の国府城

康応二年(一三九〇)から応永七年(一四〇〇)頃にかけて、細川基之と細川頼長の二人が、備後守護職であった時代には備後に二ヶ所の守護所が存在したものと推定される。応永八年山名時熈が備後守護職(但馬・石見・安芸守護兼務)に任じられると、時沢は京都に近い但馬國を本拠として、備後の府中に守護代を派遣していたようである。

永享五年(一四三三)山名持豊が備後守護職を相続、予てから持豊の相続に不満をもつていた異母兄の満熈は、永享九年七月中旬頃、備後国府城(八尾城)を奪取しようと攻撃したが、返り討ちに遭い首を京都に送られた。後花園天皇の実父伏見宮貞成親王の「看聞日記」に依ると、「卅日、抑山名刑部少輔討たれる云々、首上洛早速落去珍重々々。八月一日、抑山名刑部少輔首の事、御悦喜目出云々、」と記している。

また、武家伝奏として活躍していた、中山(藤原)定親の「薩戒記』の八月一日の条に、「山名刑部少輔某(満熈)惣領小弼、備後國に乱入し國苻城を奪取し楯籠る、仍って守護の兵兄押寄せ之を攻め討取り、件の刑部少輔の首を京都に召進せ了、仍って人々賀を申し相府(将軍家)へ各銀釼等又月内裏へ遣わされる」と記している。武家や公家等は山名氏の相続争いが短期間に決着し、備後の静謐が早く訪れた事を祝って金銀や剣の贈り物をしている。

古文書を中心とした近代史学が確立される以前、『西備名区』等は地方の昔年の歴史を知る有力な手掛りになる資料として珍重されてきた。しかし、八尾城に関する『西備名区』の記載は『尊卑分脈』をベースにした、史実と全く無関係な書き加えが多数見受けられ、事実無根の創作伝承に過ぎないことが判明した。

国府付近は山名氏の拠点で、杉原氏が国府地域と関係していたことを証明する、中世史料は何も発見されていない。馬屋原重帯は宮氏の亀寿山城に関する個人的な想念から、亀寿山城対八尾山城という発想で山名時氏との関係を強調し、杉原氏の本拠は八尾山城であるとする新説を発展させたようである。

『看聞日記』と『薩戒記』は、幕府と朝廷との関係を知る事ができる一級史料である。室町時代に国府城はあっても八尾城の記録は無く、江戸時代前期頃に書かれた『備後古城記』には、村名から出回の城と記録されている。八尾城に杉原氏が関係していたとする資料は、『西備名区』以外には見当たらず江戸時代中後期頃に創作された城名であろう。

七、中世杉原氏の支配地

中世をいくらかでも反映していると推定できる、慶長六年(一六〇一)の杉原保の生産高は、深津郡野上村が八〇一石。本庄村六九一石と、其の他に保内の可能性が高かったと推定できる村に、深津郡坂田村の八五石と、本庄村の対岸の村、沼隈郡山手村八七一石があった。

山手村には、鎌倉時代末期頃杉原氏によって創建された可能性が高い、臨済宗法灯派の三寶寺(法灯国師木像あり)がある。また、野上村には福山城を築城する以前同城内月見櫓の所に、臨済宗法灯派の諸山常興禅寺が鎌倉時代末頃に法灯国師の高弟無伴智洞に依って建立されている。

杉原保に隣接していた吉津庄に、建武の頃寂室元光が、杉原一族と推定されている平居士に迎えられ、屋敷を寄進され韜光庵(後の諸山臨済宗永徳禅寺)としている。場所は常興禅寺東方五百米先の福山八幡宮の辺りにあった。

杉原保の杉原氏は鎌倉時代末頃から、福山湾日の杉原保で文化を発展させ経済力を伸ばし、臨済宗寺院三ヶ寺に真言宗能満寺を含めると四ヶ寺を建立していた可能性が高い。

貞和五年(一三四九)九月、鞆の大可島城を守護所としていた足利直冬に対して、『太平記』に依ると尊氏方の杉原又四郎が攻撃を仕掛けている。従来の通説では御調郡の北方を本拠としていた杉原氏が、何故海上攻撃を行う能力を保持していたのか不思議であった。杉原又四郎が本拠としていた杉原保は海岸端で、『尊卑分脈』に見られる、伊勢水軍を先祖としていた杉原又四郎は海戦の猛者であった可能性が高い。

康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并國役引付」を手掛りにして、備後の杉原氏が段銭を負担していた地域の割り出しを行うと、「杉原彦四郎の木梨庄が御調郡。杉原美濃守の父木野四ヶ所が神石郡。杉原千代松の三原浦井高洲社が御調郡と沼隈郡。杉原因幡守の信敷名主が三上郡。杉原左京亮の杉原本庄が深津郡。杉原新蔵人の草原村。」は、草木村を宛てる説が見られるが疑問である。

『別本伺事記録』の延徳二年(一四九〇)間八月三日の条に、「一、杉原太郎法師申同名(杉原)左馬助盛秀遺跡備後國苧原村等事、於同名次郎法師者、偽謀書之咎乍令逐電、猶致狼藉之間、任度々御成敗、彌加誅伐、至知行分者、為使節宮若狭守(宗兼)・小早川美作守(敬平)相共莅彼所、可沙汰居代官之旨、可成奉書之由、被仰下之、」と杉原盛秀は苧原村の領主であった。この苧原村は木梨杉原氏とは関係が無かった御調郡以外の地と推定され、場所不詳の苧原村では、杉原盛秀の遺跡を巡り相続争いで紛糾していた。

前記の史料から、「杉原盛秀が苧原村を領有」していた史料が伝えられており、杉原氏が草原村と関係していた史料は見当たらない。苧原村の所在に就いては御調郡が有力視されてきた。しかし、木梨庄との関係から賛同できない。他に史家から見落とされてきた苧原村がある。沼隈郡の小原村は慶長検地で百三十二石の村高があったが、其の後赤坂村と合併して村名が消滅している。

長和庄草戸の代官であった渡辺越中守兼は、「一分にて苧原へ押し上り要害を執り詰め拾ヶ年在城仕り候」と、文亀永正の頃渡辺兼は独力で十年間苧原を占領しており、地形と周囲の点在する山城の位置から場所は沼隈郡の小原村が有望視できる。

応仁三年(一四六九)二月十日、備後の西軍が南下して東軍と杉原の苧原で合戦している。続いて同年四月下旬、東軍の山名是豊は西軍が占領していた草戸を奪回している。苧原は草戸から西南約五kmにあり、史料を総合的に勘案すると苧原合戦は沼隈郡が最も有力となる。

元来芦田郡の府中付近に、杉原氏の本領が存在したとする資料は『西備名区』以外には無く、杉原氏の本拠は深津郡杉原保に存在した事は確実である。前記の事由により、一日も早く杉原氏の本拠が、芦田郡出口村の八尾山城であったとする説の総括を行い、『西備名区』の荒唐無稽とも云える亡霊を退治して呪縛から解放されたいものである。

『西備名区』の杉原系図
『西備名区』の杉原系図

薩戒記
薩戒記
 
https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/7752bfedc367424305084937f200ef2b.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/7752bfedc367424305084937f200ef2b-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:120号」より 小林 定市 一、はじめに 平成十四年一月、四十一万都市福山の中心部に当たる福山城の初期城下町(野上村)と、隣接する本庄村一帯が中世の杉原保であったことが判明した。 その理由は福山城が築城される以前、同地には常興禅寺があったが築城に伴い同寺は北吉津町に移転し、本尊の木像釈迦如来坐像は胎蔵寺に伝えられ、同仏像内から「日本国備後洲深津郡椙原保常興禅寺」という記述が見付かったのである。 従来の通説では杉原氏の本拠杉原保は、御調郡(尾道市原田町周辺)であるとする説が圧倒的に有力視され、片山清氏による杉原保福山城地説の「備後國椙原保私考」論文は注目されなかった。 杉原氏の本拠が福山市に存在したと判明しても、杉原氏の本拠は江戸時代から府中八尾山城であるとする不動の説があり、何れの説が正しいのか検証が必要となった。 杉原氏の本拠八尾山城説は、『福山市史』と『広島県史』を執筆された先生方に依って、肯定された解決済みの歴史的事実とされていても、杉原氏の本拠説を振出しに戻して再検討を試みる。 八尾山城説の根本資料は江戸時代に書かれた『西備名区』で、同書によると「杉原伯耆守光平 (伯耆守、従五位下、始めて杉原と称す)鎮守府将軍貞盛後胤、鎌倉殿に仕へ頼家将軍(一一八二~一二〇四)より備後守護を賜り、営城(八尾山城・芦田郡出口村)を築いて住まいす。」と書かれており、馬屋原重帯が記した「杉原氏の本拠は八尾山城であった」とする説が史家に依って肯定されてきたからである。 更に光平の次男員平に就いても「杉原民部丞員平 八尾二代 光平男、実朝将軍に奉仕、従五位下に任じられ、備後守護職を賜はる。 是より木梨に続く」と記し、員平の嫡男光綱を「杉原民部丞光網 八尾三世」、光綱の嫡男盛綱について「杉原三郎盛網 八尾四世」と記していた。 以後五世は員平の二男忠綱・六世親網・七世時綱・八世光房。九世親光・十世満平と続き、鎌倉時代初期以降杉原嫡流は杉原保の関係は見当たらず、「八尾城は杉原光平より世々の本城なり」と書いている。 二、『西備名区』の出典 馬屋原重帯は、杉原氏系図の出典史書を明らかにしていない。しかし、『西備名区』の記載内容を丹念に追跡し八尾杉原系図を復元してみると、以外にも原書は『尊卑分脈』の「桓武平氏」が用いられており、同書を書写していた事が判明した。 書写は桓武平氏の平貞盛から始まり、貞盛の三男維衡から子息の正度に続き、正度には維盛・貞季・季衡・貞衡・正衡の五人の子息が居たが、誤写が原因で光平は貞衡の弟で正衡の兄に当たる正度の五男の位置に記入された。そのため『西備名区』の正度の子息は、一名増加して六人兄弟となり辻棲が合わなくなった。 馬屋原重帯が原書を正確に書写していると、光平は貞衡から数えて六代日の桓平の次男になるのであるが、桓平の嫡男宗平を書き漏らしていた。其の上七代も省略して誤写したため、系図の上で光平は平清盛(一一一八~一一八一)より古い平安時代中期の人物となった。 困惑した馬屋原重帯は誤写には気付かなかったらしいが、想定年代と系図が三百年近くも食い違っている矛盾に気付いたらしく、そこで辻棲を合わすため実年代に少しでも近付けるため次案の系図を作成した。 二番目の系図は「一は貞盛の孫・正度の子・光平の弟正衡・其男正盛・其男忠盛。其男清盛・其男重盛。其男維盛・其孫光平とみゆ、維盛の後は木梨に記す」と記し、光平の曽祖父は平重盛(一一三八~一一七九)と書いた。 そのため平維盛には孫が居て、その孫が杉原光平であるとする日本歴史に無い備後だけで見られる新系図を創作した。『西備名区』の系図は光平の親が平正度であるとする系図と、平維盛の孫とする出鱈目な二つの系図が伝えられた。 平重盛は生年が確定しており、光平の生誕年は平重盛を基準にして三代後の計算をすれば概略光平の生年の答えが出る。女子が続けて誕生する場合もあり、仮に最短年の一代を二十年余として三代の掛け算すると約六十年という答えが出る。そこで平重盛の誕生年の保延四年に、六十年を加えた年の正治二年(一二〇〇)頃が光平の誕生年となる。 ところで源頼家が将軍に就任するのは建仁二年(一二〇一)七月の出来事で、系図の通り頼家が光平を備後の守護職に任じたとすると、光平の守護拝命年齢は誕生前後と信じられない年代の答えとなる。 次に光平の次男員平は、「実朝将軍に奉仕して備後守護職を賜る」と記しているが、実朝の没年は承久元年(一二一九)正月であった。員平の推定誕生の計算は、正治二年に二十年に次男の二年を加えた、貞応元年(一二二二)頃が相応の年と考えられる。簡単な計算であるが、員平は実朝が死去した三年後に誕生した勘定になる。前記の事由から二・三代将軍と杉原光平・員平の接点があったとする見方は誤りである。 光平の実在は確認されていないようであるが、実在した人物に系図上で光平の外孫に当たる深津杉原淡路守泰綱がいる。杉原泰網は建武三年(一三三六)頃活躍しており、杉原泰綱の活躍年を基にして、光平の活躍年代を二代五十年遡らせて逆算すると弘安九年(一二八六)が光平の活躍年代という答えになった。 その他系図の写し誤りに、八代光方を光房と誤記。寛正から文明年間の頃活躍した伊賀守賢盛を師盛と誤記。賢盛の曾孫兵庫助晴盛を兵庫介時盛と誤記している。他に康安二年(一三六二)の頃活躍したと記載されている、八尾の城主杉原左近将監詮光の外孫彦三郎光親について、「天文の初め(一五三二)に丹州に移ると云う」と記しているが、百年以上も空白の年代が見られる。 『西備名区』の御調郡木梨村の条には、「鷲尾山城の木梨左衛門尉信平に就いて、其の先は大政大臣平清盛の裔孫維盛の末葉なり。その孫は、何れかの時に鎌倉に出て北条家に仕える。平貞盛の十三世にあたり、杉原胤平という、其の胤平の嫡男なり。」と記している。 更に「胤平は相模入道の女と通じて、罪を得て兄弟倶に討果たさるべしとありしを聞きて、遁れて西国に下り、備後國山野村に隠れ住む。其の後、元弘の乱に桜山に組し桜山没後、後醍醐天皇の船上山に国士と倶に馳参り、」と、福山市山野町に隠棲していたとする漫画や物語程度の変わった新説を記しているが、杉原保に関する記述は何も見当たらない。 近年は商品に対して不当表示が厳しく追及されている。私見であるが史書に対しても、商品と同様に今後は内容を吟味して評価を下して行くことが肝要と思う。 『西備名区』の「八尾山城」を注意して読み進めると、『尊卑分脈』の原書に無い書き加えが見られる。そのため先ず最初に書き加え文の真偽鑑定が必要となってくる。 『尊卑分脈」に書き加えられた追記の記録は歴史の解明に貢献する史料なのか、それとも「禁じ手」に近い改竄捏造記録なのか、詳細な分析と評価は歴史家の使命である。 三、頼家と実朝の将軍権力 前記の光平と員平父子が、「源頼家と源実朝から備後守護に補任されたとする」説に対して、備後では学問的裏付けの無い盲目的な賛同説と尻馬説が見られる。一般の読者は頼家と実朝の将軍権力は、頼朝や尊氏・家康等と同等程度のものとして、何の違和感もなく受け入れられてきたようである。 正冶元年(一一九九)正月源頼朝が死没すると、鎌倉幕府は頼家の将軍家督親裁権を止めて、北条時政や大江広元を含む宿老十三人の合議制で幕政を運営しており、当時の幕府発給文書を見れば『西備名区』の記録は明らかに誤りである。頼家は名ばかりの将軍となり実権は宿老会議に奪われ、守護職の補任権は幕府に収奪されており、実権を取り返せなかった頼家は蹴鞠に熱中していた。 建仁三年(一二〇三)八月、頼家が重病に罹ると北条時政はその遺跡譲与を定めた。「頼家の嫡男一幡に関東二十八ヵ國の地頭職を、頼朝の次男実朝に関西三十八ヵ國の地頭職を」相続させることにしている。その後時政は政敵比企一族とともに一幡まで殺害したのであった。時政は実朝を将軍に据え幕府の実権を完全に掌握すると、諸国の御家人に下文を発給して所領の安堵を行った。 三代将軍源実朝(一一九二~一二一九)の政治権力は、北条時政の強大な実権の掌握による北条幕府独占体制を固めてしまった。そのため実朝の将軍権力と地位は完全に没却されており、実朝は歌や蹴鞠による孤独な日々を送っていた。 以上前記の事由から光平と員平が頼家と実朝から、備後守護職に補任されることは絶対にあり得ないことで、光平と員平が守護に補任されたとする年代には、長井時広が備後の守護として活躍していた時期と重複する時期でもあった。 四、『備陽六郡志』の杉原氏 尾道の『西国寺文書』文明三年(一四七一)の、西国寺不断経修行状に見られる「杉原 圓蔵坊」の後身と推定できる寺に、福山市西町の真言宗能満寺がある。 同寺は「開山不知」と飾らない寺伝を伝え、約四百有余年前の伝承を梵鐘に伝えていた。梵鐘の銘文は「備之後州福山妙智山普門院能満寺鐘銘井序 夫営寺者、未詳傳世何人草創、傳聞杉原又太郎信平、同舎弟又次郎為平者則、當寺住持乃甥也、因而在於當寺、励文筆蛍雪之功業、顕軍術抜群之栄誉、依之高字云能満之又太郎同又次郎、(以下略)」とあり、梵鐘は寛保元年(一七四一)三月に鋳造されていた。 銘文は鎌倉時代末の杉原保時代の出来事を、かなりの程度迄正確に反映している伝承のようである。苗字の本拠地である杉原保の寺院で、信平と為平の兄弟が文武に励んでいたとする伝承を、江戸時代の住職阿闍梨宥弘が鐘銘に彫らせていた。 その梵鐘銘文を、『備陽六郡志』の筆者宮原直倁が「福山城下寺院」の条に筆写していた。前記の記録から杉原氏の本拠地野上村は動かし難いと思うのであるが、馬屋原重帯は国府の八尾が本城であるとしている。 平安時代末頃の、岩清水八幡宮寺領の備後國杉原別宮の後身と推定できる、本庄村の宮本八幡宮は元禄末年頃次の記録を伝えていた。(『備陽六郡志』内篇巻十)に依ると「社殿三間四面、除地社地六畝・小林一町五反三畝・田一反一畝・流鏑馬場五畝十八歩」と、近隣の宮には見られない流鏑馬の馬場があり、弓矢の神八幡宮を奉斎していた杉原氏が、社頭で流鏑馬の修練を行っていた名残を示す地名を伝えていた。 五、防長の杉原系図 関ヶ原合戦後、杉原氏は毛利輝元に従い防長に移住した後、木梨杉原・高洲杉原・山手杉原の三杉原家が系図を毛利家に提出している。 木梨杉原氏の系図は、「平貞盛から始まり平貞衡の七代日に杉原光平を記し、光平―員平―真観―胤平の弟某は(備後國深津郡野上村能満寺住職)―信平(備後國御調郡木梨庄鷲尾城主)」と記しているが、系図は『尊卑分脈』の平正度の四男平貞衡と五男正衡の合成系図を作成していた。 更に『木梨先祖由来書』は、「平貞盛十四世の末葉たり、孤となり歳久しく沈論して流浪の身にて有りける故、深津郡野上村能満寺の住侶と、伯父甥の親に依って彼寺に養育致され」と、建武以前は備後國深津郡野上村が故地であったと記していた。 高洲杉原氏の系図は、「平相國清盛四代之孫―季衡―恒平―光平(備後國中祭城主)―員平―真観―胤平(妻深津淡路守泰綱女)―信平(在城備後國御調郡木梨)」と先祖は平清盛から始まり、光平は備後国中祭城主(場所不詳)としている。 山手杉原氏の系図も、「平相國清盛五代従五位下掃津守恒平次男―光平―真観―光良弟親平―胤平弟為平―光胤―光恒―光貞―匡信(備後國沼隈郡山手之城主)―理興」と伝えており、高洲杉原氏と山手杉原氏の系図は『尊卑分脈』の平貞衡と平正衡の家系を合成した系図であった。 このように防長の杉原氏三家は、能満寺との関係を伝えていたが八尾城に関する記載は何一つ無かった。系図は『尊卑分脈』に依拠していたが、建武以前の杉原氏の動向を明らかにする史料は見当たらない。 六、備後山名氏の国府城 康応二年(一三九〇)から応永七年(一四〇〇)頃にかけて、細川基之と細川頼長の二人が、備後守護職であった時代には備後に二ヶ所の守護所が存在したものと推定される。応永八年山名時熈が備後守護職(但馬・石見・安芸守護兼務)に任じられると、時沢は京都に近い但馬國を本拠として、備後の府中に守護代を派遣していたようである。 永享五年(一四三三)山名持豊が備後守護職を相続、予てから持豊の相続に不満をもつていた異母兄の満熈は、永享九年七月中旬頃、備後国府城(八尾城)を奪取しようと攻撃したが、返り討ちに遭い首を京都に送られた。後花園天皇の実父伏見宮貞成親王の「看聞日記」に依ると、「卅日、抑山名刑部少輔討たれる云々、首上洛早速落去珍重々々。八月一日、抑山名刑部少輔首の事、御悦喜目出云々、」と記している。 また、武家伝奏として活躍していた、中山(藤原)定親の「薩戒記』の八月一日の条に、「山名刑部少輔某(満熈)惣領小弼、備後國に乱入し國苻城を奪取し楯籠る、仍って守護の兵兄押寄せ之を攻め討取り、件の刑部少輔の首を京都に召進せ了、仍って人々賀を申し相府(将軍家)へ各銀釼等又月内裏へ遣わされる」と記している。武家や公家等は山名氏の相続争いが短期間に決着し、備後の静謐が早く訪れた事を祝って金銀や剣の贈り物をしている。 古文書を中心とした近代史学が確立される以前、『西備名区』等は地方の昔年の歴史を知る有力な手掛りになる資料として珍重されてきた。しかし、八尾城に関する『西備名区』の記載は『尊卑分脈』をベースにした、史実と全く無関係な書き加えが多数見受けられ、事実無根の創作伝承に過ぎないことが判明した。 国府付近は山名氏の拠点で、杉原氏が国府地域と関係していたことを証明する、中世史料は何も発見されていない。馬屋原重帯は宮氏の亀寿山城に関する個人的な想念から、亀寿山城対八尾山城という発想で山名時氏との関係を強調し、杉原氏の本拠は八尾山城であるとする新説を発展させたようである。 『看聞日記』と『薩戒記』は、幕府と朝廷との関係を知る事ができる一級史料である。室町時代に国府城はあっても八尾城の記録は無く、江戸時代前期頃に書かれた『備後古城記』には、村名から出回の城と記録されている。八尾城に杉原氏が関係していたとする資料は、『西備名区』以外には見当たらず江戸時代中後期頃に創作された城名であろう。 七、中世杉原氏の支配地 中世をいくらかでも反映していると推定できる、慶長六年(一六〇一)の杉原保の生産高は、深津郡野上村が八〇一石。本庄村六九一石と、其の他に保内の可能性が高かったと推定できる村に、深津郡坂田村の八五石と、本庄村の対岸の村、沼隈郡山手村八七一石があった。 山手村には、鎌倉時代末期頃杉原氏によって創建された可能性が高い、臨済宗法灯派の三寶寺(法灯国師木像あり)がある。また、野上村には福山城を築城する以前同城内月見櫓の所に、臨済宗法灯派の諸山常興禅寺が鎌倉時代末頃に法灯国師の高弟無伴智洞に依って建立されている。 杉原保に隣接していた吉津庄に、建武の頃寂室元光が、杉原一族と推定されている平居士に迎えられ、屋敷を寄進され韜光庵(後の諸山臨済宗永徳禅寺)としている。場所は常興禅寺東方五百米先の福山八幡宮の辺りにあった。 杉原保の杉原氏は鎌倉時代末頃から、福山湾日の杉原保で文化を発展させ経済力を伸ばし、臨済宗寺院三ヶ寺に真言宗能満寺を含めると四ヶ寺を建立していた可能性が高い。 貞和五年(一三四九)九月、鞆の大可島城を守護所としていた足利直冬に対して、『太平記』に依ると尊氏方の杉原又四郎が攻撃を仕掛けている。従来の通説では御調郡の北方を本拠としていた杉原氏が、何故海上攻撃を行う能力を保持していたのか不思議であった。杉原又四郎が本拠としていた杉原保は海岸端で、『尊卑分脈』に見られる、伊勢水軍を先祖としていた杉原又四郎は海戦の猛者であった可能性が高い。 康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并國役引付」を手掛りにして、備後の杉原氏が段銭を負担していた地域の割り出しを行うと、「杉原彦四郎の木梨庄が御調郡。杉原美濃守の父木野四ヶ所が神石郡。杉原千代松の三原浦井高洲社が御調郡と沼隈郡。杉原因幡守の信敷名主が三上郡。杉原左京亮の杉原本庄が深津郡。杉原新蔵人の草原村。」は、草木村を宛てる説が見られるが疑問である。 『別本伺事記録』の延徳二年(一四九〇)間八月三日の条に、「一、杉原太郎法師申同名(杉原)左馬助盛秀遺跡備後國苧原村等事、於同名次郎法師者、偽謀書之咎乍令逐電、猶致狼藉之間、任度々御成敗、彌加誅伐、至知行分者、為使節宮若狭守(宗兼)・小早川美作守(敬平)相共莅彼所、可沙汰居代官之旨、可成奉書之由、被仰下之、」と杉原盛秀は苧原村の領主であった。この苧原村は木梨杉原氏とは関係が無かった御調郡以外の地と推定され、場所不詳の苧原村では、杉原盛秀の遺跡を巡り相続争いで紛糾していた。 前記の史料から、「杉原盛秀が苧原村を領有」していた史料が伝えられており、杉原氏が草原村と関係していた史料は見当たらない。苧原村の所在に就いては御調郡が有力視されてきた。しかし、木梨庄との関係から賛同できない。他に史家から見落とされてきた苧原村がある。沼隈郡の小原村は慶長検地で百三十二石の村高があったが、其の後赤坂村と合併して村名が消滅している。 長和庄草戸の代官であった渡辺越中守兼は、「一分にて苧原へ押し上り要害を執り詰め拾ヶ年在城仕り候」と、文亀永正の頃渡辺兼は独力で十年間苧原を占領しており、地形と周囲の点在する山城の位置から場所は沼隈郡の小原村が有望視できる。 応仁三年(一四六九)二月十日、備後の西軍が南下して東軍と杉原の苧原で合戦している。続いて同年四月下旬、東軍の山名是豊は西軍が占領していた草戸を奪回している。苧原は草戸から西南約五kmにあり、史料を総合的に勘案すると苧原合戦は沼隈郡が最も有力となる。 元来芦田郡の府中付近に、杉原氏の本領が存在したとする資料は『西備名区』以外には無く、杉原氏の本拠は深津郡杉原保に存在した事は確実である。前記の事由により、一日も早く杉原氏の本拠が、芦田郡出口村の八尾山城であったとする説の総括を行い、『西備名区』の荒唐無稽とも云える亡霊を退治して呪縛から解放されたいものである。  備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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