「備陽史探訪:183号」より
会長 田口 義之
はじめに
備後国神石郡志麻里庄(現神石高原町小畑周辺)を本拠とした国人馬屋原氏に関しては、以前から関心を持ち、『芸備地方史研究』や『備陽史探訪』に私見を発表し(1)、今まで知りえた事柄に関しては『油木町史』通史編でその概要を述べさせてもらった(2)。
馬屋原氏には、神石高原町小畑の固屋城を拠点とした「源姓」馬屋原氏と、固屋城から小畑の平野を挟んで南に位置する九鬼城に拠った「平姓」馬屋原氏の二つの主要な家があり、戦国時代にはそれぞれ国人領主として勢力を伸ばしたこと。両家とも、毛利氏が備後に勢力を拡大する中で毛利氏に臣従し、その「国衆」として天正年間まで独自性を維持したこと。九鬼城馬屋原氏は、十六世紀半ば過ぎ、毛利氏の庶家より養子を迎え、神石郡最大の国人領主に成長したこと、などがその内容である。
大まかな流れとしては、今でも内容は誤っていないと思っているが、新たな史料の確認によって、1、2新たな知見を加える必要が出てきた。以下はその概要である。
村山文書
紹介したいのは、「村山文書」(3)である。この史料は『広島県史』古代中世編(Ⅴ)に収録されて広く知られるようになったもので、既にその重要なものは同書に所収されている。編集の都合で同書に収録されなかったものも相当数あり、その内に左の馬屋原氏関係文書があったのである。
- (一)正月二十日付馬屋原小七郎秀正書状断簡
- (二)二月十三日付馬屋原因幡守秀国書状
- (三)八月晦日付馬屋原少輔五郎元信書状断簡
- (四)閏一二月二十日付馬屋原少輔五郎元信書状断簡
- (五)年月不詳十八日付馬屋原小七郎秀観書状断簡
- (六)三月 日付馬屋原右馬助秀国書状断簡
- (七)年月日不詳馬屋原小七郎秀正書状断簡
多くは書状の奥付部分のみを切り取ったもので、伊勢の御師であった村山氏が、自分の檀那の名簿として利用する為に奥付部分のみを残したものである。
馬屋原元信
中でも注目されるのは、三と四の馬屋原元信書状断簡である。その内、特に注目される(四)の原文を左に提示する。
馬屋原少輔五郎
閏十二月二十日 元信(花押)
村山四郎太夫殿 御返報
この書状断簡は「閏十二月」とあることによって年代が判明する。十六世紀後半の「閏十二月」は、永禄七年(一五六四)と、天正二年(一五七四)に絞られる。
馬屋原少輔五郎は敷名毛利元範の子息で、永禄七年(一五六四)十二月、馬屋原信春の遺子宮寿の後見として九鬼城馬屋原氏に入り、その後、宮寿の早世によって馬屋原氏の家督を継いだ(4)。永禄十一年(一五六八)二月七日、毛利氏によって「備後国志摩利庄二五〇貫之地、同国豊松四か村四四〇貫余地」を安堵されているから、馬屋原氏の家督を継承したのはこの頃と推定され、この書状断簡は天正二年のものと推定できる。
以後、信春の先例を受けて「兵部大輔」に任官、慶長三年(一五九八)には「壱岐守」の受領名を許され、備後の国衆の一員として重んじられた(5)。
ところが、この人物、永らくその実名が「不明」であったのである。実名の上の一字のみは、永禄二年(一五五九)十二月、毛利隆元の偏諱を受けて「元」であったことが分っている(6)。子孫の長州藩士馬屋原山三郎家でもこの人物の実名は分からなかったらしく、藩府に提出された家譜にも「馬屋原壱岐守元○ 下字不知」として実名が伝えられていなかったことが分かる。その馬屋原少輔五郎の実名が「元信」であったことがこの書状断簡で判明したのである。
馬屋原秀国
さらに、これら一連の文書によって馬屋原氏の一族に、今まで知られていなかった「秀」を通字とした一族がいたことも分ってきた。先に挙げた一連の書状断簡の内、一・二・五・六・七に見える馬屋原秀国、同秀正、同秀観である。この三人の内、秀正・秀観は仮名「小七郎」が一致することから同一人物の可能性が高いが、名乗の上に「秀」字を用いることから三者の関係は親子、或いは兄弟と推定するのが妥当であろう。
ここで注目したいのは、彼等の実名に用いられている「国」と「正」である。
馬屋原氏では、伝承上の人物として「馬屋原但馬守正国」が有名であった。正国は九鬼城を築いた人物で、『西備名区』の著者馬屋原重帯の先祖としても知られ、神石郡では馬屋原氏を代表する偉人として知られてきた(7)。ところが、この人物、長州藩士として存続した馬屋原氏の家譜には登場せず、近年は伝承上の人物としてその実在が疑われる存在となっていた。
実は筆者もその一人であったわけであるが、この一連の文書で、伝説上の存在と考えられてきた馬屋原正国が、実在する可能性が浮上する。正国の実名の一字を用いた一族が存在することが確認され、秀国、秀正の父祖として「馬屋原但馬守正国」を位置づけることが可能となったのである。
おわりに
今回は、村山文書に収録された未刊の文書の中で馬屋原氏に関する文書を取り上げ、それが備後国衆馬屋原氏にとってどのような意味を持つのか私見を述べてみた。馬屋原氏の例は、ほんの一部にしか過ぎない。まだまだ知られていない史料群は多い。備後の中世史、或いは国衆の研究が、今後更に深まっていくことを期待して閣筆したい。
【補注】
- (1)拙稿「九鬼城馬屋原氏について」芸備地方史研究一八七・一八八 拙稿「敷名元範」備陽史探訪一〇八
- (2)油木町史編さん委員会 二〇〇四年
- (3)東大史料編纂所影写本、現在同編纂所のホームページで公開されている。広島県史古代中世資料編Ⅴには「贈村山家返章」として収録されている。
- (4)『萩藩閥閲録』巻四一馬屋原山三郎家
- (5)注4、及び「毛利家文書」二二五号など
- (6)注4所収永禄二年二月二七日付毛利隆元加冠状
- (7)『神石郡誌』など
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会長 田口 義之 はじめに
備後国神石郡志麻里庄(現神石高原町小畑周辺)を本拠とした国人馬屋原氏に関しては、以前から関心を持ち、『芸備地方史研究』や『備陽史探訪』に私見を発表し(1)、今まで知りえた事柄に関しては『油木町史』通史編でその概要を述べさせてもらった(2)。 馬屋原氏には、神石高原町小畑の固屋城を拠点とした「源姓」馬屋原氏と、固屋城から小畑の平野を挟んで南に位置する九鬼城に拠った「平姓」馬屋原氏の二つの主要な家があり、戦国時代にはそれぞれ国人領主として勢力を伸ばしたこと。両家とも、毛利氏が備後に勢力を拡大する中で毛利氏に臣従し、その「国衆」として天正年間まで独自性を維持したこと。九鬼城馬屋原氏は、十六世紀半ば過ぎ、毛利氏の庶家より養子を迎え、神石郡最大の国人領主に成長したこと、などがその内容である。 大まかな流れとしては、今でも内容は誤っていないと思っているが、新たな史料の確認によって、1、2新たな知見を加える必要が出てきた。以下はその概要である。
村山文書 紹介したいのは、「村山文書」(3)である。この史料は『広島県史』古代中世編(Ⅴ)に収録されて広く知られるようになったもので、既にその重要なものは同書に所収されている。編集の都合で同書に収録されなかったものも相当数あり、その内に左の馬屋原氏関係文書があったのである。 (一)正月二十日付馬屋原小七郎秀正書状断簡
(二)二月十三日付馬屋原因幡守秀国書状
(三)八月晦日付馬屋原少輔五郎元信書状断簡
(四)閏一二月二十日付馬屋原少輔五郎元信書状断簡
(五)年月不詳十八日付馬屋原小七郎秀観書状断簡
(六)三月 日付馬屋原右馬助秀国書状断簡
(七)年月日不詳馬屋原小七郎秀正書状断簡 多くは書状の奥付部分のみを切り取ったもので、伊勢の御師であった村山氏が、自分の檀那の名簿として利用する為に奥付部分のみを残したものである。 馬屋原元信
中でも注目されるのは、三と四の馬屋原元信書状断簡である。その内、特に注目される(四)の原文を左に提示する。
馬屋原少輔五郎
閏十二月二十日 元信(花押)
村山四郎太夫殿 御返報
この書状断簡は「閏十二月」とあることによって年代が判明する。十六世紀後半の「閏十二月」は、永禄七年(一五六四)と、天正二年(一五七四)に絞られる。
馬屋原少輔五郎は敷名毛利元範の子息で、永禄七年(一五六四)十二月、馬屋原信春の遺子宮寿の後見として九鬼城馬屋原氏に入り、その後、宮寿の早世によって馬屋原氏の家督を継いだ(4)。永禄十一年(一五六八)二月七日、毛利氏によって「備後国志摩利庄二五〇貫之地、同国豊松四か村四四〇貫余地」を安堵されているから、馬屋原氏の家督を継承したのはこの頃と推定され、この書状断簡は天正二年のものと推定できる。 以後、信春の先例を受けて「兵部大輔」に任官、慶長三年(一五九八)には「壱岐守」の受領名を許され、備後の国衆の一員として重んじられた(5)。 ところが、この人物、永らくその実名が「不明」であったのである。実名の上の一字のみは、永禄二年(一五五九)十二月、毛利隆元の偏諱を受けて「元」であったことが分っている(6)。子孫の長州藩士馬屋原山三郎家でもこの人物の実名は分からなかったらしく、藩府に提出された家譜にも「馬屋原壱岐守元○ 下字不知」として実名が伝えられていなかったことが分かる。その馬屋原少輔五郎の実名が「元信」であったことがこの書状断簡で判明したのである。 馬屋原秀国
さらに、これら一連の文書によって馬屋原氏の一族に、今まで知られていなかった「秀」を通字とした一族がいたことも分ってきた。先に挙げた一連の書状断簡の内、一・二・五・六・七に見える馬屋原秀国、同秀正、同秀観である。この三人の内、秀正・秀観は仮名「小七郎」が一致することから同一人物の可能性が高いが、名乗の上に「秀」字を用いることから三者の関係は親子、或いは兄弟と推定するのが妥当であろう。 ここで注目したいのは、彼等の実名に用いられている「国」と「正」である。 馬屋原氏では、伝承上の人物として「馬屋原但馬守正国」が有名であった。正国は九鬼城を築いた人物で、『西備名区』の著者馬屋原重帯の先祖としても知られ、神石郡では馬屋原氏を代表する偉人として知られてきた(7)。ところが、この人物、長州藩士として存続した馬屋原氏の家譜には登場せず、近年は伝承上の人物としてその実在が疑われる存在となっていた。 実は筆者もその一人であったわけであるが、この一連の文書で、伝説上の存在と考えられてきた馬屋原正国が、実在する可能性が浮上する。正国の実名の一字を用いた一族が存在することが確認され、秀国、秀正の父祖として「馬屋原但馬守正国」を位置づけることが可能となったのである。 おわりに
今回は、村山文書に収録された未刊の文書の中で馬屋原氏に関する文書を取り上げ、それが備後国衆馬屋原氏にとってどのような意味を持つのか私見を述べてみた。馬屋原氏の例は、ほんの一部にしか過ぎない。まだまだ知られていない史料群は多い。備後の中世史、或いは国衆の研究が、今後更に深まっていくことを期待して閣筆したい。 【補注】 (1)拙稿「九鬼城馬屋原氏について」芸備地方史研究一八七・一八八 拙稿「敷名元範」備陽史探訪一〇八
(2)油木町史編さん委員会 二〇〇四年
(3)東大史料編纂所影写本、現在同編纂所のホームページで公開されている。広島県史古代中世資料編Ⅴには「贈村山家返章」として収録されている。
(4)『萩藩閥閲録』巻四一馬屋原山三郎家
(5)注4、及び「毛利家文書」二二五号など
(6)注4所収永禄二年二月二七日付毛利隆元加冠状
(7)『神石郡誌』など管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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