「備陽史探訪:158号」より
高木 康彦
(1)概説
◆明治以降の寺院数激減の原因
鞆津には現在、お寺の数は19ケ寺あるが、江戸時代には28ケ寺もあった。明治になって今日に至るまで約3分の1が消滅したのである。これは明治になるまで鞆津は日本の大動脈であった瀬戸内海の潮待ちの港として北前船を始めとして多くの帆船が立ち寄る交通の要衝・交易盛んな港町だった。そのため、人の出入りが盛んで各宗派は布教の拠点に鞆を選び、競って寺院を建立していったのである。また、交易盛んな大商業都市でもあるため、多くの寺院を支える経済力も持ち合わせていた。
ところが、明治になって蒸気船が現れるようになると鞆は沼隈半島の突端で周囲は人家のまばらな山岳地帯であるため、周辺地域に及ぼす経済力が弱く、船は沖合を通過するようになり、一転して鞆は忘れられる存在になってしまった。さらに明治24年、山陽鉄道が通るようになると陸の孤島となってしまった。その結果、鞆は明治以降、俄かに船・人の出入りが少なくなり、経済力も衰退し多くの寺院を支えることが出来なくなったのである。
また、明治初頭、明治政府によって神仏分離令が布告され、各地で廃仏毀釈の運動が勃発したが、鞆でも消滅した寺院は少なからず、その影響を受けたものと思われる。
◆時代別寺院数の推移
鞆では天正年間から江戸時代初頭の元和に至るまでのわずか40年間に10ケ寺が集中して創建あるいは再興された。これは主に福島正則の治世である。この数は平安時代の初め、鞆で最初のお寺(静観寺)が創建されてから天正期に至るまでの770年間に創建・再興された15ケ寺の3分の2の多さである。福島の治世以降は水野時代80年に4ヶ寺と激減し、阿部時代から平成の現在に至るまでの300年間は皆無である。昭和になって大観寺が創立されたが、これは従前の真言5ヶ寺が統合されたものである。
福島時代、集中して寺院が再興・創建された要因は福島正則の治世に鞆城大拡張があり、町の大規模な区画整理に伴って寺の多くが移転。再興されたことが大きく影響しているようだ。このとき、大可島下を埋め立て「道越町」とし、鞆の町と地続きにしている。
◆真言宗・臨済宗の多い背景
鞆では現在、寺院19ケ寺のうち、真言宗と臨済宗はそれぞれ5ケ寺と最も多いが、江戸時代は28ケ寺のうち、真言宗が10ヶ寺、臨済宗は7ヶ寺とさらに多かった。両宗派が多い理由を述べる。
◇真言宗
真言宗の開祖・空海は鞆や草戸と海で繋がった目と鼻の先の善通寺の生まれである。空海は唐より持ち帰った真言宗を瀬戸内沿岸の布教の拠点に故郷に近い鞆と芦田川の河日の草戸を選んだ。鞆は潮待ちの港として国の内外からの人の出入りの盛んな外港であり、一方、草戸は芦田川流域の人々への生活物資の供給基地であり、積み出し港でもある内港であった。
真言宗寺院は鞆では平安時代、医王寺など5ヶ寺もの寺院が創建されたと伝えられ、江戸時代になると10ケ寺と増えている。草戸でも真言宗は平安時代、背後の愛宕山麓に明王院(当時の常福寺)を創建して布教の拠点としたと伝えられている。草戸千軒町は鎌倉時代から室町時代まで約300年間続いたとされ、明王院本堂も鎌倉時代末の建立とされている。ところが、昭和37年の本堂の解体修理の際、現在の本堂が建立される以前、3度の建て替えがあり、平安の頃から寺院が存在していたことが判明した。したがって、門前町としての草戸千軒町も明王院が創建されたと推察される平安時代から人々が集まり始めたと見ても不思議ではない。したがって平安時代から真言宗は戦略的には瀬戸内沿岸を視野に入れて潮待ちの港・鞆を、戦術的には芦田川流域を中心として備後国を視野に入れて草戸千軒町を布教の拠点にしたのであろう。
明王院は江戸時代になると末寺48ヶ寺をもち、統監したとされる。鞆では江戸時代、真言宗寺院10ヶ寺のうち、江戸時代の初頭、天台宗から真言宗に転向した福禅寺(嵯峨大覚寺派)を除けばすべて明王院の末寺だった。その後、明王院は大覚寺派に属したので現在、鞆にある真言宗5ヶ寺はすべて嵯峨大覚寺派となっている。
◇臨済宗
臨済宗が真言宗に次いで鞆に多いのは鞆で臨済宗寺院として最初に創建された備後安国寺の影響である。鞆の臨済宗寺院は江戸時代の7ヶ寺はすべて備後安国寺の末寺であった。阿伏兎観音といわれる能登原の磐台寺も安国寺末寺だった。
備後安国寺は鎌倉時代中期、文永10年(1273)、金宝寺として創建されたが、室町時代の初め、足利尊氏によって一国に一寺に指定された安国寺となり、「備後安国寺」に改称されて大寺院となった。その影響で多くの臨済宗寺院が続いた。現在、臨済宗寺院となっている静観寺・小松寺は安国寺より早い平安時代に天台宗として創建されたが、安国寺が創設されて以降、安国寺の末寺となり、臨済宗に改宗したと伝えられている。
(2)江戸時代と現在の宗派別寺院数
現在の宗派 | 江戸時代に存在していた寺院 | 現存している寺院 |
真言宗 | ○医王寺 | ○<存続> |
○地福院(泉蔵坊から改称) | ―(大観寺に統合) |
○福禅寺(天台宗から改宗) | ○<存続> |
○玉泉寺 | ―(大観寺に統合) |
○増福寺 | ―(大観寺に統合) |
○地蔵院 | ○<存続> |
○賓厳寺(長福寺から改称) | ―(大観寺に統合) |
○常喜院 | ―(大観寺に統合) |
○円福寺(小松寺東から移転) | ○<存続> |
○普門寺 | ―(廃寺) |
| ○大観寺(真言五ケ寺力統合) |
10 | 5 |
臨済宗 | ○安国寺(金宝寺から改称) | ○<存続> |
○静観寺(天台宗から改宗) | ○<存続> |
○小松寺(天台宗から改宗) | ○<存続> |
○正法寺 | ○<存続> |
○慈徳院 | ○<存続> |
○禅照寺 | ―(安国寺に吸収) |
○勝音寺 | ―(廃寺) |
7 | 5 |
日蓮宗 | ○法宣寺 | ○<存続> |
○顕政寺(真言宗から改宗) | ○<存続> |
○妙蓮寺 | ○<存続> |
3 | 3 |
浄土真宗 (西本願寺派) | ○南禅坊(福禅寺南から移転) | ○<存続> |
○善行寺(山田村から移転) | ○<存続> |
2 | 2 |
浄土宗 | ○阿弥陀寺(城山東麓から移転) | ○<存続> |
○源正庵 | ―(廃寺) |
○浄泉寺(水呑村から移転) | ○<存続> |
3 | 2 |
真宗 (東本願寺派) | ○明園寺(山田村から移転) | ○<存続> |
1 | 1 |
時宗 | ○本願寺(沖御堂から改称) | ○<存続> |
○永海寺(鍛冶阿弥陀堂を改称) | ―(廃寺) |
2 | 1 |
合計 | 28 | 19 |
https://bingo-history.net/archives/12464https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/683548ec2a275413683bbfae95f76823.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/683548ec2a275413683bbfae95f76823-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:158号」より
高木 康彦 (1)概説 ◆明治以降の寺院数激減の原因
鞆津には現在、お寺の数は19ケ寺あるが、江戸時代には28ケ寺もあった。明治になって今日に至るまで約3分の1が消滅したのである。これは明治になるまで鞆津は日本の大動脈であった瀬戸内海の潮待ちの港として北前船を始めとして多くの帆船が立ち寄る交通の要衝・交易盛んな港町だった。そのため、人の出入りが盛んで各宗派は布教の拠点に鞆を選び、競って寺院を建立していったのである。また、交易盛んな大商業都市でもあるため、多くの寺院を支える経済力も持ち合わせていた。 ところが、明治になって蒸気船が現れるようになると鞆は沼隈半島の突端で周囲は人家のまばらな山岳地帯であるため、周辺地域に及ぼす経済力が弱く、船は沖合を通過するようになり、一転して鞆は忘れられる存在になってしまった。さらに明治24年、山陽鉄道が通るようになると陸の孤島となってしまった。その結果、鞆は明治以降、俄かに船・人の出入りが少なくなり、経済力も衰退し多くの寺院を支えることが出来なくなったのである。 また、明治初頭、明治政府によって神仏分離令が布告され、各地で廃仏毀釈の運動が勃発したが、鞆でも消滅した寺院は少なからず、その影響を受けたものと思われる。 ◆時代別寺院数の推移
鞆では天正年間から江戸時代初頭の元和に至るまでのわずか40年間に10ケ寺が集中して創建あるいは再興された。これは主に福島正則の治世である。この数は平安時代の初め、鞆で最初のお寺(静観寺)が創建されてから天正期に至るまでの770年間に創建・再興された15ケ寺の3分の2の多さである。福島の治世以降は水野時代80年に4ヶ寺と激減し、阿部時代から平成の現在に至るまでの300年間は皆無である。昭和になって大観寺が創立されたが、これは従前の真言5ヶ寺が統合されたものである。 福島時代、集中して寺院が再興・創建された要因は福島正則の治世に鞆城大拡張があり、町の大規模な区画整理に伴って寺の多くが移転。再興されたことが大きく影響しているようだ。このとき、大可島下を埋め立て「道越町」とし、鞆の町と地続きにしている。 ◆真言宗・臨済宗の多い背景
鞆では現在、寺院19ケ寺のうち、真言宗と臨済宗はそれぞれ5ケ寺と最も多いが、江戸時代は28ケ寺のうち、真言宗が10ヶ寺、臨済宗は7ヶ寺とさらに多かった。両宗派が多い理由を述べる。 ◇真言宗
真言宗の開祖・空海は鞆や草戸と海で繋がった目と鼻の先の善通寺の生まれである。空海は唐より持ち帰った真言宗を瀬戸内沿岸の布教の拠点に故郷に近い鞆と芦田川の河日の草戸を選んだ。鞆は潮待ちの港として国の内外からの人の出入りの盛んな外港であり、一方、草戸は芦田川流域の人々への生活物資の供給基地であり、積み出し港でもある内港であった。 真言宗寺院は鞆では平安時代、医王寺など5ヶ寺もの寺院が創建されたと伝えられ、江戸時代になると10ケ寺と増えている。草戸でも真言宗は平安時代、背後の愛宕山麓に明王院(当時の常福寺)を創建して布教の拠点としたと伝えられている。草戸千軒町は鎌倉時代から室町時代まで約300年間続いたとされ、明王院本堂も鎌倉時代末の建立とされている。ところが、昭和37年の本堂の解体修理の際、現在の本堂が建立される以前、3度の建て替えがあり、平安の頃から寺院が存在していたことが判明した。したがって、門前町としての草戸千軒町も明王院が創建されたと推察される平安時代から人々が集まり始めたと見ても不思議ではない。したがって平安時代から真言宗は戦略的には瀬戸内沿岸を視野に入れて潮待ちの港・鞆を、戦術的には芦田川流域を中心として備後国を視野に入れて草戸千軒町を布教の拠点にしたのであろう。 明王院は江戸時代になると末寺48ヶ寺をもち、統監したとされる。鞆では江戸時代、真言宗寺院10ヶ寺のうち、江戸時代の初頭、天台宗から真言宗に転向した福禅寺(嵯峨大覚寺派)を除けばすべて明王院の末寺だった。その後、明王院は大覚寺派に属したので現在、鞆にある真言宗5ヶ寺はすべて嵯峨大覚寺派となっている。 ◇臨済宗
臨済宗が真言宗に次いで鞆に多いのは鞆で臨済宗寺院として最初に創建された備後安国寺の影響である。鞆の臨済宗寺院は江戸時代の7ヶ寺はすべて備後安国寺の末寺であった。阿伏兎観音といわれる能登原の磐台寺も安国寺末寺だった。 備後安国寺は鎌倉時代中期、文永10年(1273)、金宝寺として創建されたが、室町時代の初め、足利尊氏によって一国に一寺に指定された安国寺となり、「備後安国寺」に改称されて大寺院となった。その影響で多くの臨済宗寺院が続いた。現在、臨済宗寺院となっている静観寺・小松寺は安国寺より早い平安時代に天台宗として創建されたが、安国寺が創設されて以降、安国寺の末寺となり、臨済宗に改宗したと伝えられている。 (2)江戸時代と現在の宗派別寺院数 現在の宗派
江戸時代に存在していた寺院
現存している寺院 真言宗
○医王寺
○<存続> ○地福院(泉蔵坊から改称)
―(大観寺に統合) ○福禅寺(天台宗から改宗)
○<存続> ○玉泉寺
―(大観寺に統合) ○増福寺
―(大観寺に統合) ○地蔵院
○<存続> ○賓厳寺(長福寺から改称)
―(大観寺に統合) ○常喜院
―(大観寺に統合) ○円福寺(小松寺東から移転)
○<存続> ○普門寺
―(廃寺) ○大観寺(真言五ケ寺力統合) 10
5 臨済宗
○安国寺(金宝寺から改称)
○<存続> ○静観寺(天台宗から改宗)
○<存続> ○小松寺(天台宗から改宗)
○<存続> ○正法寺
○<存続> ○慈徳院
○<存続> ○禅照寺
―(安国寺に吸収) ○勝音寺
―(廃寺) 7
5 日蓮宗
○法宣寺
○<存続> ○顕政寺(真言宗から改宗)
○<存続> ○妙蓮寺
○<存続> 3
3 浄土真宗
(西本願寺派)
○南禅坊(福禅寺南から移転)
○<存続> ○善行寺(山田村から移転)
○<存続> 2
2 浄土宗
○阿弥陀寺(城山東麓から移転)
○<存続> ○源正庵
―(廃寺) ○浄泉寺(水呑村から移転)
○<存続> 3
2 真宗
(東本願寺派)
○明園寺(山田村から移転)
○<存続> 1
1 時宗
○本願寺(沖御堂から改称)
○<存続> ○永海寺(鍛冶阿弥陀堂を改称)
―(廃寺) 2
1 合計
28
19管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。
近世福山の歴史を学ぶ