永禄二年篠津原合戦記(宮上総介景盛と山内隆通の争い)

備陽史探訪:80号」より

田口 義之

関係地図

戦国たけなわの永禄二年(一五五九)六月のこと、備後国怒可郡(ぬかぐん)西條の城下は、時ならぬ人馬のいななきでごった返していた。当時の大富山(おおとみやま)に城を構える宮上総介景盛(みやかずさのすけかげもり)が、西隣の恵蘇郡本郷の城主山内隆通(やまのうちたかみち)と長年の領地争いに決着を付けるべく、配下の諸侍に動員令を発したのである。目指すは山内方が城を構える、西南方約二里の三上郡高荘篠津原(みかみぐんたかのしょうしのつはら)であった。

両者の間にわだかまった怨恨は相当根深いものがあった。発端は当時備後きっての名門として、室町殿の初めより威を振るっていた宮家の滅亡にあった。永禄二年をさかのぼること二十余年前、備後は中国山脈を越えて南下を繰り返す出雲の尼子氏と、防長から京都を目指す大内氏の勢力が激突する戦乱の巷(ちまた)にあった。

この情勢の中で、宮家の惣領、下野守親忠は尼子に味方し、大内に味方した景盛の親興盛(おき)によって滅ぼされたのである。景盛の家は、元々怒可郡久代で僅か千二百貫を領する宮家の一庶家(久代家(くじろけ)と呼ぶ)に過ぎなかったが、これによって一躍山内家と肩を並べる備後の有力国人となったのである。

この久代家の勢力伸張は、大富山の西方に居城を構える山内家にとって大きな脅威であった。久代家は郡境を越えて山内領の三上郡高荘に侵入を謀った。高荘は元宮家の領分に含まれていた、というのがその理由である。

山内家は、この久代家の侵略に対して大規模な山城を築いて対抗した。それが景盛の攻撃目標となった篠津原の雲井城であった。同城は、上方から「城作り」を招いて築城した山内家自慢の山城で、比高およそ百七十間という山頂本丸には、二間丈の石垣を巡らし、重臣の田中河内守に兵四百を与えて守備につかせた。

さらに、山内家では、隆通の義母が宮家最後の当主親忠の忘れ形見に当たることから、久代家に新たな攻勢を仕掛けた。断絶した宮家の所領は、すべて唯一人の血縁、親忠の娘の婚家山内家が相続するべきだとして、旧備後守護の山名家や備後に勢力を伸ばしつつあった毛利元就にこの要求を認めさせたのである。

この山内家の「筋目」を通した新たな攻勢は、景盛に大きな衝撃を与えた。なにしろ久代家は一庶家の分際で、本来下知に従うべき惣領家を断絶に追い込んだのである。久代家でもこの弱みは十分承知して、幕府に「宮惣領職(そうりょうしき)」の安堵(あんど)を度々嘆願した。しかし、この要求は「筋目」を重んじる幕府の容れるところでは無かった。

意を決した景盛は、最後の手段にでた。それが今回の出陣であった。六月十七日の早朝、大富城下に勢揃いした久代家の軍勢は約七百、このうち三百を景盛自ら率い、残りは家老の奥宮豊後(おくみやぶんご)が大将となって団司(だんし)河原に陣取り、山内家の反撃に備えた。景盛率いる久代勢は、まず南の山を越えて三上郡の本村に侵入して、南から篠津原を目指した。正面攻撃の不利を避け、側面から奇襲を仕掛けようとしたのである。

久代勢の奇襲は成功した。思いもかけぬ南からの攻撃に山内勢は一瞬浮き足だった。久代勢は怒濤(どとう)の如く篠津原へなだれ込み、その先鋒は雲井城の城壁に迫ったのである。中でも弱冠十八歳の若武者松本源次兵衛(げんじびょうえ)の活躍は目覚ましく、山内家にその人ありと知られた上谷六左衛門(かみたにろくざえもん)を討ち取り、敵味方の賞賛を浴びた。

景盛の感状に曰く

今度三上郡高庄篠津原に於いて合戦候処 一番槍比類無く候 感悦の余り 太刀一腰青銅百疋並びに三百疋の在所を以て之を遣わし候いよいよ忠義歓悦たるべく候
恐ゝ謹言
永禄二年六月十七日 景盛 判
   松本源次兵衛殿

しかし、久代方の攻勢もここまでであった。山内家が畿内から城作りまで呼び寄せて築いた雲井城の防備は極めて堅固で、攻めあぐねるうちに、急を聞いて駆けつけた山内勢が久代勢の背後を突いたのである。勝敗は一気に逆転した。久代勢は前後に敵を受けて崩れたった。景盛を先頭にした久代勢は、一丸となって西條川の河原に解抑立ち、上流の大富山を目指して潰走(かいそう)を始めたのである。

合戦の戦機は一瞬で決まる。ここで山内勢がそのまま逃げる久代勢に追い討ちをかけたとしたら、大将景盛を初め、久代勢はほとんど討ち取られ、大富山も山内家のものになったかも知れない。

しかし、山内勢はそうしなかった。一旦城に入った山内勢は、大将隆通の命を待ち、その下知によって追撃を始めたのである。瞬時の差で久代勢は命拾いをした。久代勢を追った山内勢は、折からの増水で西條川を渡りあぐねているうちに久代方の後詰、奥宮豊後率いる四百の軍勢によって進撃を阻上されたのである。

川を挟んで両勢のにらみ合いが続いた。そこに現れたのが安芸の毛利元就の使者である。既にこの時期、備後は毛利氏の勢力下にあり、久代家、山内家双方ともその庭下に属していたのである。元就の使者は両陣営に和議を呼びかけた。

毛利氏としてもこの両家の争いを見逃すことは出来なかった。元就はこの時期、出雲の尼子氏の攻略に取りかかっており、尼子氏と接する久代・山内両家の争いを好まなかったのである。

元就の使者は、両家の家老の前でおもむろに元就の書状を聞き、和議の条件を示した。

一、高荘は三上郡の内にあり、山内家が相違なく知行し、今後一切久代家の異議を認めない。

一、その代わり、久代家には備中国井原荘を与え、毛利家としてその領有を保証すること。

両家とも毛利家の調停とあれば、異議はない。両家老とも謹んでこの和議を受け、誓書を元就に差し出すことを確約した。

こうして、中国山地のただなかで起こった小さな合戦は幕を閉じた。しかし、僅か四、五百の兵力で戦われたに過ぎぬ合戦ながら、その痛みは後々まで両家の中に残った。

久代家では、それまで青年武将として家中の期待を集めていた景盛の酒乱が始まったのは、合戦後のことであった。山内家でも、その後篠津原に居住した隆通の甥が本家乗っ取りを謀ったのも、同地に雲井城という、本家の城を凌ぐ、堅固な山城があったればこそであった。

(筆者註)
『久代記』『芸藩通史』その他関係記録を基に、一部筆者の想像を加えたもので、通常の学術論文ではないことをお断りする。

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