福山城下町

備陽史探訪:184号」より

高木 康彦

(一)築切の築造事情

入川と外堀を仕切る築切はいつ、誰によってどんな事情で築造されたのであろうか。近世史料には次のことが記されている。

備陽六郡志

東門の橋築切 当城の始、此築切無之、猟船は東門の橋の下を通りて直に上魚屋町に至り魚を揚、せりて商けるか、勝成公其騒敷を嫌ひ給ひて、此所を築切なば猟船の通行もなく堀に水を溜るにも宜かるへしと、不達公聴而、築切しむ。

 

福山志料

上魚屋町 昔ハ舟濠中ニ入テ此町ノ西首ニテ魚ヲ囃ス、水野家ノ中頃、ソノ聲喧シトテ入口ヲ築切ラセ玉フ、今ソノ所ヲツキキリト云、大手ノ東ニアリ

備陽六郡志と福山志料では築切の築造時期が異なって記されている。

正保絵図(一六四四―一六四八)には既に築切が描かれており、築造時期は福山志料に云う水野期中頃ではなく、元和・寛永期(~一六四四)すなわち、初代勝成若しくは二代勝重の時代と推察される。

然しながら、両書共、魚河岸の声が喧しいとして築切を築いたとしているが、本丸御殿は云うに及ばず、三ノ丸下屋敷からも相当、離れており、また城下の発展を願う両藩主がそのことで魚河岸を移すとは考えにくい。恐らく、干満の繰り返しにより外濠の水深が浅くなり、入川を断ち切って吉津川からの流入に切り替え、一定の水深を得ようと図ったものと推察される。

勝成は藩主時代は本丸御殿に起居し、寛永十六年(一六三九)閏十一月、隠居して三ノ丸西側の隠居屋敷に移った。二代勝重は藩主襲封後、本丸御殿に起居していたが、寛永十八年(一六四一)、総奉行小場兵左衛門・神谷治部に三ノ丸東側に下屋敷を新築することを命じ、来年五月までに完成するよう指示していることが、次の小場家文書から分かる。

小場家文書

寛永十八年付

其元作事(下屋敷新築工事)ニ付大工久左衛門遣候間、一筆令申候、(中略)随而其元之作事、来年五月ニすきと仕廻候様ニ可被申付候、
(後略)
  八月廿日     美作守
      神谷治部殿
      小場兵左衛門殿

 
東外濠北御門手前の東堀端から東に向かって現在の城見通りに沿って昭和四十年の町界町名変更まで城下草創期に魚河岸で賑わった上魚屋町が在った。ところが、築切の出来後、魚河岸は入川築切の手前から東に延びる下魚屋町に移ったのである。

(二)惣門の移設

①その時期
村上正名著「城下町福山」(昭和六十一年発刊)では惣門は勝貞の時代に東の新橋筋に移したと記述しているが、これは濱本鶴賓著「福山の今昔」(大正六年発刊)を引用したと思われる。濱本鶴賓氏は福山領分語伝記の「御三代目当りにも候哉」の記述を引用した可能性が考えられる。

福山領分語伝記

惣御門、始メの程は吉津唐犬町之筋より、本町通り本橋之筋へ一文字ニ懸り居申候由、御三代目当りにも候哉、今之所へ附キ替り、新橋筋本屋通りニ相成候

吉津橋ならびに新橋は寛永十八年、二代勝重の時代に架けられたことが小場家文書から分かる。したがって惣門もほぼ同時に設営されたと考えられる。その数年後に作成された正保絵図(藩主勝重)では惣門ならびに番所が描かれ、惣門辺りは「町屋」と記載されている。

小場家文書

寛永十八年付

新橋大形出来候由、思ひ之外早く出来候而、満足申事候、吉津橋無油断材木調へ、揃次第ニ全而様子可申越候由得其意候、謹言
            美作守 
 八月朔日      勝重(花押)
       小場兵左衛門殿

 
寛永十八年付

吉津橋能時分ニ出来、大水出候へとも、人馬共ニ心安致通路之由祝着申候、当御地別条無之、我等父子共無事ニ御奉公申候間可心安候、謹言
         美作守
 九月廿六日    勝重(花押)
      小場兵左衛門殿

小場家文書は当年の書状であり、福山領分語伝記は寛永十八年から百年後の寛保元年(一七四一)以降に完成した編纂物である。領分語伝記の著者も確信がないため、「・・・候哉」と疑問形で記述したのであろう。「福山の今昔」が発刊された頃は小場家文書は未だ世に出ていなかった。

すなわち、胡町の惣門ならびに番所は二代勝重の正保期には既に設営されており、三代勝貞の時代に建設されたものではない。

②塞がれた旧幹線道
福山領分語伝記に依れば旧惣門は唐犬小路・本町の筋にあり、旧幹線道は旧惣門より本町を通って本橋の筋へ一文字に懸っていたようである。ところが、水野五代記によれば唐犬小路から本町へ通る橋が嘗てはあったが、今は塞がったとしている。

水野五代記

古吉津町、唐犬小路より本町へ通る橋ありしが、塞がれり。

正保絵図(二代勝重時代)・備後福山之城図(三代勝貞時代)・水野家時代福山城下明細地図(四代勝種時代)など水野家時代絵図を照合すると古吉津町から本町へ通じる唐犬小路は胎蔵寺の前を南に走る古吉津町分の小路と考えられる。唐犬小路は勝重時代絵図や勝貞時代絵図などでは吉津川まで通じているが、勝種時代絵図では吉津川に達する途中で塞がれている。

さらにこれら絵図はいずれも唐犬小路の先の吉津川には橋がなく、また南岸には(旧)惣門も描かれていない。しかも、その先の本町へ通じる道は塞がれ、(旧)惣門と思われる地点から本町へ抜ける天神通りまでの一帯は武家屋敷として描かれている。将にこれらは水野五代記に記している通りである。

すなわち、城下草創期には唐犬小路から南へ吉津川を渡る橋があり、橋の南詰には(旧)惣門があって(旧)
惣門から本町へ通じる道があったのである。

この一帯は武家屋敷としてこれら水野家時代絵図は描いているが、城下草創期勝成の時代にはは町人町(旧本町)であった可能性が高い。それは福山城下町では武家屋敷と町人町の境には木戸が設けられ、町人は自由に武家屋敷に出入りすることが許されず、城下を縦断する幹線道は武家屋敷を避け、町人町を通っていたと思われるからである。   

但し、天保四年書写絵図・廃藩直前福山城下地図など阿部時代の絵図は旧惣門から天神通の間は再び町人町(本町)に変わっている。これは胡町の発展に伴って町人町がさらに西に延びた結果と考えられる。

因みに胡町は勝重の時代以前は侍屋敷であったようだ。これは惣門が本町筋から胡町筋に移ったため、胡町筋が人々の自由に往来できる町人町に変わったと推察される。

福山語伝記

古美作守様御代迠胡町ハ侍町ニ而候由、中興西町ヘ引ケ跡、町屋ニナリ候由

従って旧幹線道の経路は町人町を通ることを考慮すると古吉津町唐犬小路・旧吉津橋・旧惣門・旧本町・本町・本町分柳町・上魚屋町・桶屋町・深津町・下魚屋町・船町を経て本橋に達していたと考えられる。 

将に前述福山領分語伝記の記す通り、本町を通って本橋の筋へ一文字に懸っていたことになる。

ところで城下草創期は本橋は入川のさらに西に在ったことになっている。したがって、当時は本橋の筋は上魚屋町を横切らず、上魚屋町の通りを西進し、米屋町の通りを南下して旧本橋に達したと考えられる。
2015.6月度添付城下絵図

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/6bc8957177ca218ccf3e6d0faffe4540.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/6bc8957177ca218ccf3e6d0faffe4540-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:184号」より 高木 康彦 (一)築切の築造事情 入川と外堀を仕切る築切はいつ、誰によってどんな事情で築造されたのであろうか。近世史料には次のことが記されている。 備陽六郡志 東門の橋築切 当城の始、此築切無之、猟船は東門の橋の下を通りて直に上魚屋町に至り魚を揚、せりて商けるか、勝成公其騒敷を嫌ひ給ひて、此所を築切なば猟船の通行もなく堀に水を溜るにも宜かるへしと、不達公聴而、築切しむ。   福山志料 上魚屋町 昔ハ舟濠中ニ入テ此町ノ西首ニテ魚ヲ囃ス、水野家ノ中頃、ソノ聲喧シトテ入口ヲ築切ラセ玉フ、今ソノ所ヲツキキリト云、大手ノ東ニアリ 備陽六郡志と福山志料では築切の築造時期が異なって記されている。 正保絵図(一六四四―一六四八)には既に築切が描かれており、築造時期は福山志料に云う水野期中頃ではなく、元和・寛永期(~一六四四)すなわち、初代勝成若しくは二代勝重の時代と推察される。 然しながら、両書共、魚河岸の声が喧しいとして築切を築いたとしているが、本丸御殿は云うに及ばず、三ノ丸下屋敷からも相当、離れており、また城下の発展を願う両藩主がそのことで魚河岸を移すとは考えにくい。恐らく、干満の繰り返しにより外濠の水深が浅くなり、入川を断ち切って吉津川からの流入に切り替え、一定の水深を得ようと図ったものと推察される。 勝成は藩主時代は本丸御殿に起居し、寛永十六年(一六三九)閏十一月、隠居して三ノ丸西側の隠居屋敷に移った。二代勝重は藩主襲封後、本丸御殿に起居していたが、寛永十八年(一六四一)、総奉行小場兵左衛門・神谷治部に三ノ丸東側に下屋敷を新築することを命じ、来年五月までに完成するよう指示していることが、次の小場家文書から分かる。 小場家文書 寛永十八年付 其元作事(下屋敷新築工事)ニ付大工久左衛門遣候間、一筆令申候、(中略)随而其元之作事、来年五月ニすきと仕廻候様ニ可被申付候、 (後略)   八月廿日     美作守       神谷治部殿       小場兵左衛門殿   東外濠北御門手前の東堀端から東に向かって現在の城見通りに沿って昭和四十年の町界町名変更まで城下草創期に魚河岸で賑わった上魚屋町が在った。ところが、築切の出来後、魚河岸は入川築切の手前から東に延びる下魚屋町に移ったのである。 (二)惣門の移設 ①その時期 村上正名著「城下町福山」(昭和六十一年発刊)では惣門は勝貞の時代に東の新橋筋に移したと記述しているが、これは濱本鶴賓著「福山の今昔」(大正六年発刊)を引用したと思われる。濱本鶴賓氏は福山領分語伝記の「御三代目当りにも候哉」の記述を引用した可能性が考えられる。 福山領分語伝記 惣御門、始メの程は吉津唐犬町之筋より、本町通り本橋之筋へ一文字ニ懸り居申候由、御三代目当りにも候哉、今之所へ附キ替り、新橋筋本屋通りニ相成候 吉津橋ならびに新橋は寛永十八年、二代勝重の時代に架けられたことが小場家文書から分かる。したがって惣門もほぼ同時に設営されたと考えられる。その数年後に作成された正保絵図(藩主勝重)では惣門ならびに番所が描かれ、惣門辺りは「町屋」と記載されている。 小場家文書 寛永十八年付 新橋大形出来候由、思ひ之外早く出来候而、満足申事候、吉津橋無油断材木調へ、揃次第ニ全而様子可申越候由得其意候、謹言             美作守   八月朔日      勝重(花押)        小場兵左衛門殿   寛永十八年付 吉津橋能時分ニ出来、大水出候へとも、人馬共ニ心安致通路之由祝着申候、当御地別条無之、我等父子共無事ニ御奉公申候間可心安候、謹言          美作守  九月廿六日    勝重(花押)       小場兵左衛門殿 小場家文書は当年の書状であり、福山領分語伝記は寛永十八年から百年後の寛保元年(一七四一)以降に完成した編纂物である。領分語伝記の著者も確信がないため、「・・・候哉」と疑問形で記述したのであろう。「福山の今昔」が発刊された頃は小場家文書は未だ世に出ていなかった。 すなわち、胡町の惣門ならびに番所は二代勝重の正保期には既に設営されており、三代勝貞の時代に建設されたものではない。 ②塞がれた旧幹線道 福山領分語伝記に依れば旧惣門は唐犬小路・本町の筋にあり、旧幹線道は旧惣門より本町を通って本橋の筋へ一文字に懸っていたようである。ところが、水野五代記によれば唐犬小路から本町へ通る橋が嘗てはあったが、今は塞がったとしている。 水野五代記 古吉津町、唐犬小路より本町へ通る橋ありしが、塞がれり。 正保絵図(二代勝重時代)・備後福山之城図(三代勝貞時代)・水野家時代福山城下明細地図(四代勝種時代)など水野家時代絵図を照合すると古吉津町から本町へ通じる唐犬小路は胎蔵寺の前を南に走る古吉津町分の小路と考えられる。唐犬小路は勝重時代絵図や勝貞時代絵図などでは吉津川まで通じているが、勝種時代絵図では吉津川に達する途中で塞がれている。 さらにこれら絵図はいずれも唐犬小路の先の吉津川には橋がなく、また南岸には(旧)惣門も描かれていない。しかも、その先の本町へ通じる道は塞がれ、(旧)惣門と思われる地点から本町へ抜ける天神通りまでの一帯は武家屋敷として描かれている。将にこれらは水野五代記に記している通りである。 すなわち、城下草創期には唐犬小路から南へ吉津川を渡る橋があり、橋の南詰には(旧)惣門があって(旧) 惣門から本町へ通じる道があったのである。 この一帯は武家屋敷としてこれら水野家時代絵図は描いているが、城下草創期勝成の時代にはは町人町(旧本町)であった可能性が高い。それは福山城下町では武家屋敷と町人町の境には木戸が設けられ、町人は自由に武家屋敷に出入りすることが許されず、城下を縦断する幹線道は武家屋敷を避け、町人町を通っていたと思われるからである。    但し、天保四年書写絵図・廃藩直前福山城下地図など阿部時代の絵図は旧惣門から天神通の間は再び町人町(本町)に変わっている。これは胡町の発展に伴って町人町がさらに西に延びた結果と考えられる。 因みに胡町は勝重の時代以前は侍屋敷であったようだ。これは惣門が本町筋から胡町筋に移ったため、胡町筋が人々の自由に往来できる町人町に変わったと推察される。 福山語伝記 古美作守様御代迠胡町ハ侍町ニ而候由、中興西町ヘ引ケ跡、町屋ニナリ候由 従って旧幹線道の経路は町人町を通ることを考慮すると古吉津町唐犬小路・旧吉津橋・旧惣門・旧本町・本町・本町分柳町・上魚屋町・桶屋町・深津町・下魚屋町・船町を経て本橋に達していたと考えられる。  将に前述福山領分語伝記の記す通り、本町を通って本橋の筋へ一文字に懸っていたことになる。 ところで城下草創期は本橋は入川のさらに西に在ったことになっている。したがって、当時は本橋の筋は上魚屋町を横切らず、上魚屋町の通りを西進し、米屋町の通りを南下して旧本橋に達したと考えられる。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 近世福山の歴史を学ぶ