「備陽史探訪:112号」より
三好 勝芳
西国の鎮衛として水野勝成公が備後国に元和五年(一六一九)に入国して以来、まず福山築城とその城下町の築調にとりかかり、ここに福山という新しい町ができあがった。同時に領国経営が始まり、財政源の拡充のための耕地拡大政策即ち新開築調を始めた。此新開築調は水野各時代を通じて行われ元禄の頃には約三万石の増加を見ることになるのである。
勝成公の後を継いだ二代勝俊公も父の事業を継承して、土木普請を普請奉行の神谷治部に継続して推進させた。その主な事業は城下東部の干拓事業である。
勝俊公時代は、まず寛永十八年(一六四一)座床から深津王子端までを築堤して木之端新開十八町歩の開発であった。つづいて寛永十九年から吉田新開、引野新開を開発した。正保(一六四四)に入ると、木之端・王子端から引野村の梶島山に向かって千間土手を築き、深津・市村・引野の各新開、および深津沼田一〇七町歩、市村沼田九四町歩、引野沼田一一八町歩が新たに開発された。
この広大な耕地を確保するには、千間土手の築堤工事の成功が何より大切なことであったが築堤工事は困難を極めたようで、築造中たびたび波浪によって決壊し、一時中止のやむなきに至ったこともあったようである。この時の語り伝えとして『福山志料』につぎのような話が載せられている。
「正保四年庚申の秋(これは正保元年(一六四四)の誤りらしい。)隠居の勝成公が深津村の汐崎に見間に行った時、庄屋藤井庄五郎が言うには、この浜辺には、汐崎大明神といって不動明王を本地とする社がある。ここへ祈願をこめたならば、たちまち土手が固まり、新開の工事も成功するであろう。そこで勝成公はこの言葉をいれて祈願をこめるとその通りになったので、ここに新社殿を建て、神田五反を寄進したと言うのである。」
神護もさることながら、当時の築堤技術の粋を集めて、この長い土手を多くの人々の努力によって正保四年(一六四七)に完成させたのである。
海中に堤防を設け、その内側の海水を排水して土地を造成することを干拓という。その海水を排水する口すなわち汐抜き口は、海底にある水脈(みお)とよばれる海水の流れ道が城下東部の深津湾内では現在の手城川のところに集まって流れており、その流れが梶島山の西約二〇〇米のところで千間土手を横切っているので、ここに設けられた。この汐抜き口には樋門を設け、引き潮の時にはこれを開き、上げ潮の時にはこれを閉じて干拓を行った。ここに設けられた樋門の大きさが五間あったので、五間樋と言い、現在はこの付近の地名にもなっている。
この五間樋門も、設けられた当初は深い水脈の上に築かれたためか、上げ潮の時たびたび汐抜けがあり、困ったとの事で、土手の地固めに汐崎神社に祈願した勝成公は、五間樋を守るためと干拓地の安寧と農業の発展を地元民に祈願させるように、農業神の稲荷神社をこの地に祀ったという言い伝えがある。当初、稲荷神社は五間樋の西側に祀られていたが、何時の頃かに東側の土手の上に小さな祠で祀られていた。
一方、五間樋は寛文六年に手城新開が完成し、千間土手は海の波浪を受ける堤防としての役目を終了した。それと同時に五間樋も元々の役目から開放され、千問土手北部干拓地の水利を調節する樋門となった。元禄になって鶴戸屋樋門が設置されて役目を終了して樋門はなくなった。
昭和初年に、手城川の千間土手の部分が改修され、樋門の跡が無くなり、土手断面の石垣積み直しなどの工事と合わせて、土手を削平して稲荷神社の境内を造り、玉垣を築き、社殿が設けられた。本殿を手城川の上に長石で突き出して祀り、本殿の前に広い拝殿(二間・三間)をもつた立派な神社であった。
神社の拝殿は東向きで上がり口に四角の大きな踏石があり、その上に打ち鈴があった。踏石の前には石の線香立があった。稲荷神社には何処も赤い鳥居が沢山奉納されているが、ここにも何基もの木製の鳥居が並んでいた。少し離れて北向きに注連柱が立っていた。千間土手の北側に当時は道があったので、稲荷神社の入り回は北側にあった。境内の南側には広場があり、戦時中には地域の出征兵士をこの広場で送っていた。また、拝殿の下には大きな穴があり狐が住んでいると言われていた。
昭和四十二年、福山市の都市計画事業により、この地区の区画整理があり、直ぐ西を国道一八二号線が、また、直ぐ北側を国道二号線が通り、この地域は様変わりした。手城川に沿って道路を付けることになり、稲荷神社を移転することになった。
直ぐ南側の土手下の田んぼを埋め立てて神社の社地とした。その埋立てに旧神社の玉垣をもってしたとのことである。手城川から道路を隔てた三角の土地に長屋(三間四間)を建て、東側を社殿とした。この社に改めて、京都伏見稲荷神社から神霊を分祀したとのことである。西側は、東手城町庵ノ下組の集会所として使用している。
社殿の上がり口には踏石が置かれ、その上には旧社の打ち鈴が、東側横には線香立がおかれている。鳥居は平成十五年五月に新しく石造りで奉納された。南側からの入り口には旧社の注連柱が移設されている。
平成十五年四月十三日の稲荷神社の例祭を機に、現在判っている範囲においての、稲荷神社の由緒をまとめ、後世のために残すことにした。
【五間樋稲荷神社】
https://bingo-history.net/archives/11651https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/c55670e8a47e4bd389f740475378af64.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/c55670e8a47e4bd389f740475378af64-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:112号」より
三好 勝芳 西国の鎮衛として水野勝成公が備後国に元和五年(一六一九)に入国して以来、まず福山築城とその城下町の築調にとりかかり、ここに福山という新しい町ができあがった。同時に領国経営が始まり、財政源の拡充のための耕地拡大政策即ち新開築調を始めた。此新開築調は水野各時代を通じて行われ元禄の頃には約三万石の増加を見ることになるのである。 勝成公の後を継いだ二代勝俊公も父の事業を継承して、土木普請を普請奉行の神谷治部に継続して推進させた。その主な事業は城下東部の干拓事業である。 勝俊公時代は、まず寛永十八年(一六四一)座床から深津王子端までを築堤して木之端新開十八町歩の開発であった。つづいて寛永十九年から吉田新開、引野新開を開発した。正保(一六四四)に入ると、木之端・王子端から引野村の梶島山に向かって千間土手を築き、深津・市村・引野の各新開、および深津沼田一〇七町歩、市村沼田九四町歩、引野沼田一一八町歩が新たに開発された。 この広大な耕地を確保するには、千間土手の築堤工事の成功が何より大切なことであったが築堤工事は困難を極めたようで、築造中たびたび波浪によって決壊し、一時中止のやむなきに至ったこともあったようである。この時の語り伝えとして『福山志料』につぎのような話が載せられている。 「正保四年庚申の秋(これは正保元年(一六四四)の誤りらしい。)隠居の勝成公が深津村の汐崎に見間に行った時、庄屋藤井庄五郎が言うには、この浜辺には、汐崎大明神といって不動明王を本地とする社がある。ここへ祈願をこめたならば、たちまち土手が固まり、新開の工事も成功するであろう。そこで勝成公はこの言葉をいれて祈願をこめるとその通りになったので、ここに新社殿を建て、神田五反を寄進したと言うのである。」 神護もさることながら、当時の築堤技術の粋を集めて、この長い土手を多くの人々の努力によって正保四年(一六四七)に完成させたのである。 海中に堤防を設け、その内側の海水を排水して土地を造成することを干拓という。その海水を排水する口すなわち汐抜き口は、海底にある水脈(みお)とよばれる海水の流れ道が城下東部の深津湾内では現在の手城川のところに集まって流れており、その流れが梶島山の西約二〇〇米のところで千間土手を横切っているので、ここに設けられた。この汐抜き口には樋門を設け、引き潮の時にはこれを開き、上げ潮の時にはこれを閉じて干拓を行った。ここに設けられた樋門の大きさが五間あったので、五間樋と言い、現在はこの付近の地名にもなっている。 この五間樋門も、設けられた当初は深い水脈の上に築かれたためか、上げ潮の時たびたび汐抜けがあり、困ったとの事で、土手の地固めに汐崎神社に祈願した勝成公は、五間樋を守るためと干拓地の安寧と農業の発展を地元民に祈願させるように、農業神の稲荷神社をこの地に祀ったという言い伝えがある。当初、稲荷神社は五間樋の西側に祀られていたが、何時の頃かに東側の土手の上に小さな祠で祀られていた。 一方、五間樋は寛文六年に手城新開が完成し、千間土手は海の波浪を受ける堤防としての役目を終了した。それと同時に五間樋も元々の役目から開放され、千問土手北部干拓地の水利を調節する樋門となった。元禄になって鶴戸屋樋門が設置されて役目を終了して樋門はなくなった。 昭和初年に、手城川の千間土手の部分が改修され、樋門の跡が無くなり、土手断面の石垣積み直しなどの工事と合わせて、土手を削平して稲荷神社の境内を造り、玉垣を築き、社殿が設けられた。本殿を手城川の上に長石で突き出して祀り、本殿の前に広い拝殿(二間・三間)をもつた立派な神社であった。 神社の拝殿は東向きで上がり口に四角の大きな踏石があり、その上に打ち鈴があった。踏石の前には石の線香立があった。稲荷神社には何処も赤い鳥居が沢山奉納されているが、ここにも何基もの木製の鳥居が並んでいた。少し離れて北向きに注連柱が立っていた。千間土手の北側に当時は道があったので、稲荷神社の入り回は北側にあった。境内の南側には広場があり、戦時中には地域の出征兵士をこの広場で送っていた。また、拝殿の下には大きな穴があり狐が住んでいると言われていた。 昭和四十二年、福山市の都市計画事業により、この地区の区画整理があり、直ぐ西を国道一八二号線が、また、直ぐ北側を国道二号線が通り、この地域は様変わりした。手城川に沿って道路を付けることになり、稲荷神社を移転することになった。 直ぐ南側の土手下の田んぼを埋め立てて神社の社地とした。その埋立てに旧神社の玉垣をもってしたとのことである。手城川から道路を隔てた三角の土地に長屋(三間四間)を建て、東側を社殿とした。この社に改めて、京都伏見稲荷神社から神霊を分祀したとのことである。西側は、東手城町庵ノ下組の集会所として使用している。 社殿の上がり口には踏石が置かれ、その上には旧社の打ち鈴が、東側横には線香立がおかれている。鳥居は平成十五年五月に新しく石造りで奉納された。南側からの入り口には旧社の注連柱が移設されている。 平成十五年四月十三日の稲荷神社の例祭を機に、現在判っている範囲においての、稲荷神社の由緒をまとめ、後世のために残すことにした。 【五間樋稲荷神社】管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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