「福山・松永・尾道」 地域の災害について(2)

備陽史探訪:192号」より

岡田 宏一郎

「「福山・松永・尾道」 地域の災害について(1)」から続く

昭和二十年九月十七日
洪水、死傷者多数。家屋浸水、流失、半壊延二、九二〇戸。堤防決壊述べ七、三二〇m、護岸崩壊五七五〇m、橋梁流失二十四ヶ所他被害甚大。
昭和二十一年七月八日
洪水。上流部田畑冠水述五、五二七町歩。家屋流失四〇戸。
昭和二十一年七月九日
洪水。護岸の根固め崩壊、流失。人畜の被害なし。
昭和二十三年八月二十五日
洪水。上流部で護岸崩壊、木工沈床流失、人畜被害なし。
昭和二十四年六月二十日
洪水。上流部芦品郡地先で護岸の崩壊、流失。
昭和二十五年九月十三日
下流部水呑町地先で築堤土砂二、〇〇〇㎡流失、鉄線蛇籠五十m崩壊。
昭和二十六年七月七日
洪水。上流部芦品郡地先で護岸崩壊。人畜被害なし。
昭和二十八年六月二十六日
芦品郡新市町で一〇〇戸床下浸水。田畑冠水、浸水延二六五町歩。福戸橋一部流失。
昭和三十五年七月八日
洪水。上流部府中市、及び中流部芦品郡駅家町地先において、堤防の法面と護岸の一部が洗掘、崩壊。
昭和三十七年七月五日
洪水上流部で根固め流失、崩壊述九三五m。床固め流失一六〇m
昭和三十八年七月十一日
洪水。芦田川右支川有地川の河床低下、護岸の基礎洗掘。
昭和四十年六月二十日
大水。特に被害はなかった。
昭和四十年七月二十二日
洪水。上流部府中市内で家屋浸水。小支川の堤防、護岸決壊。堤防法崩。

と戦後もほぼ毎年のように被害が出ている。而も気になったのは七月に多く発生している。

このように芦田川は「暴れ川」なのか多くの災害を起こしていることに注目したのである。やはり梅雨時や梅雨明けの時には危険であることが分かった。

この中でも大正期の被害は甚大である。この蘆田川大氾濫について沼隈郡誌には次のように書いている。

大正八年七月一日、午前十一時頃より降り始めたる雨は午後七時頃より殷々たる雷鳴と共に再び猛雨となり、翌午後四時ごろには神邊方面既に氾濫して川南川北千田中津原森脇諸村浸水し、本郡も小田川瀬戸川決壊して津之郷字夕倉の一部を襲ひ、更に神島村佐波村一帯濁流に呑まれ、翌五日午前三時頃には郷分村芦田川内外兩堤防相續いて突破され、有名なる二本松の老松一株は五六十間彼方の田圃中に残骸を横へ滔滔たる洪水見る見る山手沖一面を泥海と化し去り、夜明けて暫く山手小學校へ避難せしめ臨時炊出をなす、又草戸村も五日午前一時過ぎ鷹取橋下手及び野沖堤防決壊し、三時過ぎ更に錢取橋上手約百間決壊し、次で洗谷橋付近決壊せるを以て、草戸福山間見渡す限り水茫たる大海となる。

とあり、続けて

午前五時三十分に至り、福山市野上堤防決壊し、濁流滔々奔馬の如く。家屋を漂はし人畜を傷け、瞬くうちに殆ど全市を葬り、此時逸早く救助船を以て漕ぎつけ活動せるは鞆・田尻・水呑なりしが、七日岡山工兵大隊来り閉塞作業に従事するや、假椻堤防成るまで毎日沼隈各村青年團消防組在郷軍人など応應援工事に助力せり

とある。(福山水害について詳しく書かれているものは「濱本鶴賓の著にかかる『福山市役所編纂 福山水害誌』がある)

最も被害が大きかった大正八年の洪水被害と義倉の救済ついて最新の研究を『芸備地方史研究 301・302号』(芸備地方史研究会)に平下義記氏が「大正期における芦田川洪水と福山義倉の救済」と題した論文を書いておられる。だがこの論文をすぐ手に入れ自由に読むことが困難であると思うのでここにまとめながら引用して紹介したい。

大正八年の七月一日から五日にかけて降雨が続き洪水の危機が迫り四日には市長・助役の指揮の下に歩兵第四一連隊の兵士が動員され、決壊が危険視された堤防に杭を打ち込み土嚢を積むなどの応急処置がなされた。午後四時頃に堤防が決壊、さらに上流から流れてきた藁葺家屋が鞆軽便鉄道用の木橋に衝突、水流が妨げられた。これにより周辺の水位が急上昇し、市街地の地吹堤防が約五〇〇メートルにわたって決壊市街地の南部は水没した。午前六時頃には市街地南部の川口附近から北部に向かって氾濫した水が逆流、福山城東側の府中町まで汚水が達している。午後二時頃には市街地北部は減水したが、南部は洪水発生から四日間は泥沼状態であった。
被害地域は福山市街地、入江以南は潅水、北部も深津村迄被害を受けている。沿岸部の川口村や新涯も床上浸水の被害が出ている。
沼隈郡の山手村・神島村、支流の高屋川、加茂川でも洪水が起きている福山市では人的被害は死者一五人、重軽傷八人、行方不明二人で、家屋は全壊五〇戸、半壊一二二戸で、芦品郡の有磨村、近田村、新市町でも家屋浸水被害を出している。

このように広範囲にわたる被害を出していて

洪水記録よれば一六二〇~一八六七年間(慶長六年~慶應三年)の二四七年間で二九回、一八六八~一九二〇年間(明治元年~大正九年)の五二年間で一六回が確認される。

つまり

近世より近現代の方が洪水頻度が高いことが理解される

と述べている。

その中でも大正八年の洪水は

被蓋範囲・頻度とともに『空前絶後』のものであった。

と云われている。

大正八年七月の芦田川堤防決壊による福山市街地の被災状況
大正八年七月の芦田川堤防決壊による福山市街地の被災状況

さらに西部諸川(松永地域)ではどうであろうか。沼隈郡誌には

本郷川は四日午後著しく増水して危險刻々に加はり、本郷今津等の消防組出動して徹宵警戒に任じ、堤防浸蝕したるも遂に防止したり、藤井川は西村に於いて數ヶ所決壊し、西村の一部及高須村字川尻三十戸浸水す、山南川も決壊し耕地浸水す、其地各村に亘つて谷川の決壊又山辷りの為め被害少からず。

とある。

また「大正八年秋再度水害」に見舞われていて、次のように書かれている。 

九月十三日未明より寸刻の小歇もなく降り頻れる豪雨は、又々芦田川に濁流を漲らし。夜半に板つて俄に増水し、十四日午後三時に至り、郷分村假堤防再び決壊して山手沖並に津之郷佐波神島一面浸水し、草戸村錢取橋下手其他新に決壊したる所もあり、又本郷川・藤井川も亦決壊し、殊前年度決壊せる個所は殆んど全部再び決壊し

とある。

さらに大正九年の猛雨暴水については

大正八年夏秋二回の洪水に辛き經驗を甞めたる本郡は、翌九年八月十六日黎明頃山汐なる大惨事に遭逢したり、十五日より空前の猛雨にて、郡役所の調査によれば一坪三石四斗二升といふ稀有の降雨量を示し、十六日午前三時頃より車軸を流さんばかりの雷雨となり、短時間に最大多量の雨を猛射せし為、熊野・川尻・水呑・草戸・佐波・山南・千年・金江を始め各地の山嶽崩落して山海嘯を起し、巨岩大木を押流し、田畑家屋を埋没破壊して熊野村の半ばを流失し、田尻村芦谷の山頂崩落して勘定池を突破せるなど、有史以来の大變事にて慘害の跡正視するに忍びず・・・・

とあり、山崩れ、土砂災害の被害の凄さがよくわかる。

さらに次の年の「大正十年の豪雨」でもまた被害を出している。

六月十四日夜間より降り出したる雨は十五日の朝に至り六〇、三粍に達し次て十七日少雨となり十八日午前零時より十時迄には更に百五粍の雨量あり為に前縁災害に於いて復舊工事を施したる堤防等多く決壊し、芦田川流域及び藤井川、本郷川、山南川等氾濫し耕地浸水被害尠からず。

さらに

越えて七月十三日午前三時寄りの降雨は夜明方より北東の風加はり午前七時より九時頃迄最も激烈を極め各川増水して堤防を破壊し或は橋梁を流失する等猛威を逞せしが同十時頃より小雨となり午後全く止む。此雨量實に百四十粍に達し殆ど全郡に旦りて被害あり、殊に瀬戸川・本郷川・山南川・金江新川・羽原川等の流域最も甚だし。

とあり、中小河川の流域で被害が出ている。

こうした災害から河川の改修運動が高まり、大正八年十月に蘆田川治水同盟の創立総会が開かれる。沼隈郡は「郷分・山手・津之郷・瀬戸・佐波。神島・草戸・水呑の八ヶ村」と「福山市幷深安郡二十ヶ村、芦品郡九ヶ村と合計三十八ヶ市町村」が同盟し「其筋へ請願・・・・陳情」「大正十二年第四十六議会に於いて遂に豫算提出され、二月可決」され「十ヶ年繼續事業」となる。「治水同盟會は四月十八日福山に於いて祝賀會を催し、同日を以て解散せり」とある。「芦田川改修豫算金六百萬圓」であった。(当時の福山市長は阿武信一である)と松永でも被害が近年まで起こっていた。

福山藩領内の被害は数知れずあり、松永北側の本郷村については「松永市本郷町誌」に次のような記載がある。

元文五申六月八九両日の大水害後、今津と本郷両村から藩庁へ改修工事の請願を重ね、下流に当る今津村分の本郷川改修工事へ五千人余の人夫が補助された

との記述がある。

宝暦七丑六月十四十五両日の水害は元文の水害後十七年目である。この度の復旧は翌々宝暦九卯八月五日より着工、今津村分に人夫四千二百人を費して同月十九日に完了、引続いて同じく四千二百人を動員して本郷村分を施行した

とある。続いて

天明七未四月廿五廿六両日の大雨は、水嵩一丈一尺と記され・・・・この天明七年の水害は相当に大きく。根本的の大修理には大約五万人の人夫を必要とすると、本郷今津両村から請願したのである

この水害の原因は

本郷奥山一帯に古来鉱山が開発され、鉱山の閉止後も永らくそこから流失する土砂に患まされた

とあり

本郷川の水害は、その過半の原因が旧鉱山から流失する土砂の滞積にある

と書いている。

同年九月本郷今津両村の差出した書上帖に「川上砂留のため大谷に砂止、下流さらへ」とあり、砂留と堆積した砂の除去の工事を述べている。

本郷川の復旧工事は福山藩の行政上の困難と財政上の問題から延期・また延期と先延、先延にされている。その理由として

寛政元年正月 幕府が福山藩主らに命じて江戸隅田川を改修させた

ことや

寛政二年十一月 藩主阿部正倫入国、諸政改革のため工事一時見合わせ、・・・・寛政三年春の着工延期を両村に申し渡す

だがその後も寛政三年・寛政四年・寛政六年寛政七年と出水が続くが福山藩は放任したままで両村の農民は痛めつけられたままであった。藩政は極度に行き詰まり緊縮につぐ緊縮続ける実情があった。そうした実情から五万人もの人夫を動員しての大工事は不可能であるため、規模を縮小した改革案を願い出た。両村は

寛政六年二月、両村は六郡寄人夫一万人、内本郷村四百人、今津村九百人の補助を申請したが、着工許可は出なかった。だが同寛政七年八月またも大洪水に見舞われ松永村にも被害が及んだ。そこで同年十一月両村は再度申請し人夫一千五百人を以て本郷川改修工事が着工となった。八年後にようやく着工したのである。

だがこの程度の工事は責任逃れに過ぎないという。寛政八年、破壊された堤防を造り直すとき松永村と今津村で悶着が起きる。これは

松永は将来の心配のないように長さ三百四十間幅一間上がり三尺の石畳を以って頑丈な護岸を造ろうとした。今津側が之を見ると石積みの高さが旧態より一尺高い。これでは今津分が危険にさらされるというので大勢が現場に詰め掛けて普請奉行を責め遂に上通りの石を刎ね除けさせる

と云う事件があった此の悶着は本郷川の改修をやらねば解決できないので松永の堰堤築造を認める代償として、本郷川の改修を促進するということが藩庁と関係各村で協定されている。

どの程度まで改修されたかは不明であるが、寛政七年十二月に藩庁は領分内の富裕者に御用金を借りあげている。

天保十一年の「天保の大流れ」の大洪水では福山領内六郡の損害総集計は「四十万三千人が復旧に要する人員」であるが「七万一千余」としたが再吟味の結果「十九万八千四百九十四人」と決定している。附近の村々の統計では

本郷 一一〇〇五人 
内七四八人 池普請跡廻し 
一〇二五七人 川除人夫
今津 一九九六三人 内四九五人
高須村普請に廻す 一六〇〇九人
東川(本郷川) 三〇七四人 川除当年普請
松永 一六九人 願い下げ
神村 一六三四八人 
内願い下げ 二八七人
東村 八三三人 願い下げ
西村 二五一九九人 
内一四八人 池普請跡廻し
 七八五人 今津村受け
 一七三八九人 川除人夫

と五万三千余人の復旧人夫を要している。

福山・松永・尾道」 地域の災害について(3)」に続く

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/10/t8-918x1024.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/10/t8-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:192号」より 岡田 宏一郎 「「福山・松永・尾道」 地域の災害について(1)」から続く 昭和二十年九月十七日 洪水、死傷者多数。家屋浸水、流失、半壊延二、九二〇戸。堤防決壊述べ七、三二〇m、護岸崩壊五七五〇m、橋梁流失二十四ヶ所他被害甚大。 昭和二十一年七月八日 洪水。上流部田畑冠水述五、五二七町歩。家屋流失四〇戸。 昭和二十一年七月九日 洪水。護岸の根固め崩壊、流失。人畜の被害なし。 昭和二十三年八月二十五日 洪水。上流部で護岸崩壊、木工沈床流失、人畜被害なし。 昭和二十四年六月二十日 洪水。上流部芦品郡地先で護岸の崩壊、流失。 昭和二十五年九月十三日 下流部水呑町地先で築堤土砂二、〇〇〇㎡流失、鉄線蛇籠五十m崩壊。 昭和二十六年七月七日 洪水。上流部芦品郡地先で護岸崩壊。人畜被害なし。 昭和二十八年六月二十六日 芦品郡新市町で一〇〇戸床下浸水。田畑冠水、浸水延二六五町歩。福戸橋一部流失。 昭和三十五年七月八日 洪水。上流部府中市、及び中流部芦品郡駅家町地先において、堤防の法面と護岸の一部が洗掘、崩壊。 昭和三十七年七月五日 洪水上流部で根固め流失、崩壊述九三五m。床固め流失一六〇m 昭和三十八年七月十一日 洪水。芦田川右支川有地川の河床低下、護岸の基礎洗掘。 昭和四十年六月二十日 大水。特に被害はなかった。 昭和四十年七月二十二日 洪水。上流部府中市内で家屋浸水。小支川の堤防、護岸決壊。堤防法崩。 と戦後もほぼ毎年のように被害が出ている。而も気になったのは七月に多く発生している。 このように芦田川は「暴れ川」なのか多くの災害を起こしていることに注目したのである。やはり梅雨時や梅雨明けの時には危険であることが分かった。 この中でも大正期の被害は甚大である。この蘆田川大氾濫について沼隈郡誌には次のように書いている。 大正八年七月一日、午前十一時頃より降り始めたる雨は午後七時頃より殷々たる雷鳴と共に再び猛雨となり、翌午後四時ごろには神邊方面既に氾濫して川南川北千田中津原森脇諸村浸水し、本郡も小田川瀬戸川決壊して津之郷字夕倉の一部を襲ひ、更に神島村佐波村一帯濁流に呑まれ、翌五日午前三時頃には郷分村芦田川内外兩堤防相續いて突破され、有名なる二本松の老松一株は五六十間彼方の田圃中に残骸を横へ滔滔たる洪水見る見る山手沖一面を泥海と化し去り、夜明けて暫く山手小學校へ避難せしめ臨時炊出をなす、又草戸村も五日午前一時過ぎ鷹取橋下手及び野沖堤防決壊し、三時過ぎ更に錢取橋上手約百間決壊し、次で洗谷橋付近決壊せるを以て、草戸福山間見渡す限り水茫たる大海となる。 とあり、続けて 午前五時三十分に至り、福山市野上堤防決壊し、濁流滔々奔馬の如く。家屋を漂はし人畜を傷け、瞬くうちに殆ど全市を葬り、此時逸早く救助船を以て漕ぎつけ活動せるは鞆・田尻・水呑なりしが、七日岡山工兵大隊来り閉塞作業に従事するや、假椻堤防成るまで毎日沼隈各村青年團消防組在郷軍人など応應援工事に助力せり とある。(福山水害について詳しく書かれているものは「濱本鶴賓の著にかかる『福山市役所編纂 福山水害誌』がある) 最も被害が大きかった大正八年の洪水被害と義倉の救済ついて最新の研究を『芸備地方史研究 301・302号』(芸備地方史研究会)に平下義記氏が「大正期における芦田川洪水と福山義倉の救済」と題した論文を書いておられる。だがこの論文をすぐ手に入れ自由に読むことが困難であると思うのでここにまとめながら引用して紹介したい。 大正八年の七月一日から五日にかけて降雨が続き洪水の危機が迫り四日には市長・助役の指揮の下に歩兵第四一連隊の兵士が動員され、決壊が危険視された堤防に杭を打ち込み土嚢を積むなどの応急処置がなされた。午後四時頃に堤防が決壊、さらに上流から流れてきた藁葺家屋が鞆軽便鉄道用の木橋に衝突、水流が妨げられた。これにより周辺の水位が急上昇し、市街地の地吹堤防が約五〇〇メートルにわたって決壊市街地の南部は水没した。午前六時頃には市街地南部の川口附近から北部に向かって氾濫した水が逆流、福山城東側の府中町まで汚水が達している。午後二時頃には市街地北部は減水したが、南部は洪水発生から四日間は泥沼状態であった。 被害地域は福山市街地、入江以南は潅水、北部も深津村迄被害を受けている。沿岸部の川口村や新涯も床上浸水の被害が出ている。 沼隈郡の山手村・神島村、支流の高屋川、加茂川でも洪水が起きている福山市では人的被害は死者一五人、重軽傷八人、行方不明二人で、家屋は全壊五〇戸、半壊一二二戸で、芦品郡の有磨村、近田村、新市町でも家屋浸水被害を出している。 このように広範囲にわたる被害を出していて 洪水記録よれば一六二〇~一八六七年間(慶長六年~慶應三年)の二四七年間で二九回、一八六八~一九二〇年間(明治元年~大正九年)の五二年間で一六回が確認される。 つまり 近世より近現代の方が洪水頻度が高いことが理解される と述べている。 その中でも大正八年の洪水は 被蓋範囲・頻度とともに『空前絶後』のものであった。 と云われている。 さらに西部諸川(松永地域)ではどうであろうか。沼隈郡誌には 本郷川は四日午後著しく増水して危險刻々に加はり、本郷今津等の消防組出動して徹宵警戒に任じ、堤防浸蝕したるも遂に防止したり、藤井川は西村に於いて數ヶ所決壊し、西村の一部及高須村字川尻三十戸浸水す、山南川も決壊し耕地浸水す、其地各村に亘つて谷川の決壊又山辷りの為め被害少からず。 とある。 また「大正八年秋再度水害」に見舞われていて、次のように書かれている。  九月十三日未明より寸刻の小歇もなく降り頻れる豪雨は、又々芦田川に濁流を漲らし。夜半に板つて俄に増水し、十四日午後三時に至り、郷分村假堤防再び決壊して山手沖並に津之郷佐波神島一面浸水し、草戸村錢取橋下手其他新に決壊したる所もあり、又本郷川・藤井川も亦決壊し、殊前年度決壊せる個所は殆んど全部再び決壊し とある。 さらに大正九年の猛雨暴水については 大正八年夏秋二回の洪水に辛き經驗を甞めたる本郡は、翌九年八月十六日黎明頃山汐なる大惨事に遭逢したり、十五日より空前の猛雨にて、郡役所の調査によれば一坪三石四斗二升といふ稀有の降雨量を示し、十六日午前三時頃より車軸を流さんばかりの雷雨となり、短時間に最大多量の雨を猛射せし為、熊野・川尻・水呑・草戸・佐波・山南・千年・金江を始め各地の山嶽崩落して山海嘯を起し、巨岩大木を押流し、田畑家屋を埋没破壊して熊野村の半ばを流失し、田尻村芦谷の山頂崩落して勘定池を突破せるなど、有史以来の大變事にて慘害の跡正視するに忍びず・・・・ とあり、山崩れ、土砂災害の被害の凄さがよくわかる。 さらに次の年の「大正十年の豪雨」でもまた被害を出している。 六月十四日夜間より降り出したる雨は十五日の朝に至り六〇、三粍に達し次て十七日少雨となり十八日午前零時より十時迄には更に百五粍の雨量あり為に前縁災害に於いて復舊工事を施したる堤防等多く決壊し、芦田川流域及び藤井川、本郷川、山南川等氾濫し耕地浸水被害尠からず。 さらに 越えて七月十三日午前三時寄りの降雨は夜明方より北東の風加はり午前七時より九時頃迄最も激烈を極め各川増水して堤防を破壊し或は橋梁を流失する等猛威を逞せしが同十時頃より小雨となり午後全く止む。此雨量實に百四十粍に達し殆ど全郡に旦りて被害あり、殊に瀬戸川・本郷川・山南川・金江新川・羽原川等の流域最も甚だし。 とあり、中小河川の流域で被害が出ている。 こうした災害から河川の改修運動が高まり、大正八年十月に蘆田川治水同盟の創立総会が開かれる。沼隈郡は「郷分・山手・津之郷・瀬戸・佐波。神島・草戸・水呑の八ヶ村」と「福山市幷深安郡二十ヶ村、芦品郡九ヶ村と合計三十八ヶ市町村」が同盟し「其筋へ請願・・・・陳情」「大正十二年第四十六議会に於いて遂に豫算提出され、二月可決」され「十ヶ年繼續事業」となる。「治水同盟會は四月十八日福山に於いて祝賀會を催し、同日を以て解散せり」とある。「芦田川改修豫算金六百萬圓」であった。(当時の福山市長は阿武信一である)と松永でも被害が近年まで起こっていた。 福山藩領内の被害は数知れずあり、松永北側の本郷村については「松永市本郷町誌」に次のような記載がある。 元文五申六月八九両日の大水害後、今津と本郷両村から藩庁へ改修工事の請願を重ね、下流に当る今津村分の本郷川改修工事へ五千人余の人夫が補助された との記述がある。 宝暦七丑六月十四十五両日の水害は元文の水害後十七年目である。この度の復旧は翌々宝暦九卯八月五日より着工、今津村分に人夫四千二百人を費して同月十九日に完了、引続いて同じく四千二百人を動員して本郷村分を施行した とある。続いて 天明七未四月廿五廿六両日の大雨は、水嵩一丈一尺と記され・・・・この天明七年の水害は相当に大きく。根本的の大修理には大約五万人の人夫を必要とすると、本郷今津両村から請願したのである この水害の原因は 本郷奥山一帯に古来鉱山が開発され、鉱山の閉止後も永らくそこから流失する土砂に患まされた とあり 本郷川の水害は、その過半の原因が旧鉱山から流失する土砂の滞積にある と書いている。 同年九月本郷今津両村の差出した書上帖に「川上砂留のため大谷に砂止、下流さらへ」とあり、砂留と堆積した砂の除去の工事を述べている。 本郷川の復旧工事は福山藩の行政上の困難と財政上の問題から延期・また延期と先延、先延にされている。その理由として 寛政元年正月 幕府が福山藩主らに命じて江戸隅田川を改修させた ことや 寛政二年十一月 藩主阿部正倫入国、諸政改革のため工事一時見合わせ、・・・・寛政三年春の着工延期を両村に申し渡す だがその後も寛政三年・寛政四年・寛政六年寛政七年と出水が続くが福山藩は放任したままで両村の農民は痛めつけられたままであった。藩政は極度に行き詰まり緊縮につぐ緊縮続ける実情があった。そうした実情から五万人もの人夫を動員しての大工事は不可能であるため、規模を縮小した改革案を願い出た。両村は 寛政六年二月、両村は六郡寄人夫一万人、内本郷村四百人、今津村九百人の補助を申請したが、着工許可は出なかった。だが同寛政七年八月またも大洪水に見舞われ松永村にも被害が及んだ。そこで同年十一月両村は再度申請し人夫一千五百人を以て本郷川改修工事が着工となった。八年後にようやく着工したのである。 だがこの程度の工事は責任逃れに過ぎないという。寛政八年、破壊された堤防を造り直すとき松永村と今津村で悶着が起きる。これは 松永は将来の心配のないように長さ三百四十間幅一間上がり三尺の石畳を以って頑丈な護岸を造ろうとした。今津側が之を見ると石積みの高さが旧態より一尺高い。これでは今津分が危険にさらされるというので大勢が現場に詰め掛けて普請奉行を責め遂に上通りの石を刎ね除けさせる と云う事件があった此の悶着は本郷川の改修をやらねば解決できないので松永の堰堤築造を認める代償として、本郷川の改修を促進するということが藩庁と関係各村で協定されている。 どの程度まで改修されたかは不明であるが、寛政七年十二月に藩庁は領分内の富裕者に御用金を借りあげている。 天保十一年の「天保の大流れ」の大洪水では福山領内六郡の損害総集計は「四十万三千人が復旧に要する人員」であるが「七万一千余」としたが再吟味の結果「十九万八千四百九十四人」と決定している。附近の村々の統計では 本郷 一一〇〇五人  内七四八人 池普請跡廻し  一〇二五七人 川除人夫 今津 一九九六三人 内四九五人 高須村普請に廻す 一六〇〇九人 東川(本郷川) 三〇七四人 川除当年普請 松永 一六九人 願い下げ 神村 一六三四八人  内願い下げ 二八七人 東村 八三三人 願い下げ 西村 二五一九九人  内一四八人 池普請跡廻し  七八五人 今津村受け  一七三八九人 川除人夫 と五万三千余人の復旧人夫を要している。 「福山・松永・尾道」 地域の災害について(3)」に続く備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 近世福山の歴史を学ぶ