「福山・松永・尾道」 地域の災害について(1)

備陽史探訪:191号」より

岡田 宏一郎

二〇一六年六月二十二日の夜から二十三日の未明にかけて大雨が降り続きさらにその後も断続的に降雨があり、福山地域の河川・芦田川や手城川・瀬戸川・猪之子川・松永の羽原川・沼隈の山南川等の河川が洪水・増水で住宅が浸かり、またのり面の崩れ、土砂崩れなどで道路の通行止めなどの影響により国道が大渋滞し混乱したことが報道されていました。

こうした梅雨による長雨、豪雨が気になり、江戸期から大正・昭和期までの大雨などによる災害について紹介してみたい。
 
備後南部のこの地域は瀬戸内式気候のため晴天が多く少雨のため「日照りの被害」が多く、そのため「雨乞い神事」が備後南部の神社でも行われているし、また松永の今津町にある高諸神社でも行われていた記録がある。

また奉納されている絵馬の中に「黒馬の絵馬」や「白馬の絵馬」を見かける事がある。松永の神村八幡神社でこうした絵馬見ている。この「白馬の絵馬」は長雨が続くので雨が止み晴天を願った奉納絵馬である。また「黒馬の絵馬」は「日照りが続くので降雨をもたらし農作物への恵みの雨」を願う絵馬である。こうしたことから災害に苦しむ農民などの願いをくみ取ることが出来るのである。

大正十二年に発刊された『沼隈郡誌』や『その他の文献・資料』を見ると水害に関した記述があるから省略しながら引用して報告と紹介をしたい。

沼隈郡誌に出てくる最初の被害について書かれている時代は

元和六年五月二十八日 大雨洪水、蘆田川野上堤防を決壊す、福山築城中。

である。また「三原志稿及び芸藩通志」には

芦田川野上堤防決壊し、福山城築城中、城畳を壊り城下を浸す。

とあり、さらに「元和七年九月明王院本堂再建棟札」には

去る元和六年庚申孟夏天大雨洪水滔々山岸崩仏閣埋土中

とある。これらが古い洪水による被害記録である。 

続けて沼隈郡誌には次のような洪水被害が書かれている。

承應元年五月十日 同二年五月廿二日、同三年七月十九日、三ヶ年引續いて大水、沿川被害大。

寛文十三年五月十四日 關西全体に亙つて大洪水、沼隈諸川悉く氾濫、田畑家畜人類の被害莫大、草戸新田全滅す。

元禄十五年七月二十八日 山汐、八月二十九日洪水、米穀の被害甚だしく、米價昂騰し、百姓困憊す。

寶永四年八月十九日、九月十二日、同五年六月二十二日 大洪水、地方民力を損耗す。

正徳二年六月二日、七月二日 洪水

享保六年閏七月十一日大風洪水、同九年八月十四日大水、同十四年九月十四日洪水、被害大。

寳暦十年六月二十日 大水。

文久三年四月朔日、六月二日共に大水。

天明三年六月十七日 大洪水死傷多し。

寛政元年、同年七月二十六日、同七年八月二十八日洪水、人畜死傷あり。

享和二年八月七日 洪水。

文化五年五月廿九日、閏九月廿九日 大水。

文政十年六月十七日 大水。

嘉永五年八月二十三日 大水。

明治四年五月十八日 洪水。

(ここまでが旧暦の月日だと判断した)
「松永町誌」からの記述には

明治十七年八月廿五日 瀬戸内海沿岸一帯に大海嘯起り被害甚大、機織新涯の決壊を始め潮水、砂礫と共に侵入し被蓋反別実に九十四町八反・・・・

とある。

明治二十四年九月十四日 烈風起り松永小学校藁葺校舎一棟倒壊、当分一部生徒を休校させる。

明治二十五年七月二十六日 大水。

大正三年九月十四日 暴風雨に伴い高潮来襲沿岸被害甚大、小学校児童の通学は困難な程であった。

大正四年九月八日 から九日にかけ暴風雨あり、高須新涯は決壊相生島南堤防の一部決潰五ヶ年間免租地となる。松永の浸水家屋百五十戸に達した。

大正十年六月十八日大水、同七月十三日暴風雨、工事中の今津校校舎倒壊。

大正十二年六月十六日 より一ヶ月間に七度の洪水あり稲苗腐敗する所あり被害甚大、雨量は明治十五年の一ヶ年分より多かつたと。

大正十五年五月二十八日 から九日にかけ駅附近及東町浸水(五戸)今津川本郷土手五十間決潰す。

昭和二年八月二十二日 原田村に豪雨あり今津川増水、原田本郷両村の橋梁二十四箇所今津吾妻橋も流失した。

昭和三年八月十九日 豪雨高潮を伴い村上寅吉工場貯木渠の堤防決壊、石井町の住家三十四戸非住家一七戸床上三、四尺、稲田五町歩へも浸水した。

昭和十年六月下旬 より九月中 霖雨あり稲の稔悪く、松永の製塩は二割(約十万円)の減収となった。

昭和十六年十月一日 颱風高潮を伴い松永の浸水十数戸床下七、八寸、塩田二十坪流失す。

昭和十七年八月二十七日 暴風雨に高潮来襲午前〇時相生島北西堤防三十五間、同東南堤防六十間決潰、海水侵入、復旧に六万円を要し七塩戸の被害三十数万円にて一年免租となる。

以上のように沼隈郡や松永地域は何回も洪水に見舞われていることが分かる。なかでも福山では大正年間は八年から十一年にかけて毎年のように水害の被害を受けていてその被害も甚大であった。
 
沼隈郡誌や松永町誌に書かれていない被害年や大正十二年以降の被害年度については『芦田川改修史』(建設省中国地方建設局 福山工事事務所)に「主要洪水年表」があるので付け加えておく。

貞享四年
三備芸にわたって大洪水
宝永六年
被害甚大なるも程度不詳
明和七年 秋八月
水害によるか、干害によるか不明なるも、農作物の収穫が皆無で飢饉
安永五年
発生月日不明なるも芦田川左支川神谷川筋洪水
天明二年 春夏
春から夏にかけて浮雨。稲苗育たず
寛政二年、三年 八年 九年
と連続してある。
天保十一年
大洪水で芦品郡、沼隈郡地先の堤防決壊。府中、広谷、中津原、郷分、山手、佐波、神島、津之郷の各村浸水。被害甚大。
万延元年
発生月日不詳。万能倉、加茂川堤防決壊。
文久二年、三年
発生月日不詳。二十軒屋土手切り流し。 両度にわたって大洪水被害程度不明。
明治十年
堤防決壊
明治十三年 明治二十八年 明治三十四年
福田村堤防決壊
明治三十六年
新市村堤防決壊
明治三十八年 明治四十三年
駅家村堤防決壊。
大正十二年六月二十一日
洪水。中津原古川堤防及び向羽賀中、羽賀沖堤防決壊、上岩成、下岩成、道上、宣山、山守、二本松、七社、宮の下他下流一帯浸水。
大正十五年五月二十九日
洪水。中津原古川堤防決壊。中津原、森脇村浸水。被害程度不詳。
大正十五年七月七日
洪水。上岩成、下岩成、道上他浸水。
昭和三年八月二十八日
暴風目。河口付近潮害。人家浸水。農作物被害甚大。
昭和六年七月七日
深安郡内で浸水三六二町歩。芦品郡内で浸水田畑三七町歩。石橋流失。
昭和六年十月十三日
暴風雨により沼隈郡、深安郡で浸水延六二〇町歩。中津原村一帯の耕地浸水、減収一割~一・五割。
昭和九年七月二十二日
芦田川の増水で県道が二十五m崩壊し、渡し舟で交通連絡をはかった。
昭和九年九月二十一日
洪水。府中、新市堤防決壊、近田、神辺、千田村冠水。橋梁流失。
昭和十年六月三十日

豪雨。深安郡で浸水約三〇〇町歩。中津原で大渡橋の一部流失。
昭和十年八月二十八日
暴風雨。小田川の堤防堤防流失。
昭和十一年七月二日
神辺平野、千田沼で浸水延一一三町歩。
昭和十二年六月八日
芦品郡で田畑浸水。駅家村で村道破損二十一m。各町村で道路橋の小破損多数。
昭和十六年六月二十八日
豪雨。芦品郡で浸水田一三〇町歩。小橋梁の破損流失交通不能箇所も出た。
昭和十六年十月一日
暴風雨。高潮波浪激烈。護岸洗掘他被害多数
昭和十八年七月二十三日
大洪水。護岸崩壊二十六ヶ所他、世羅郡神田村地先の灌漑用貯水堰堤決壊して附近一帯の家屋浸水、流失、水田冠水、農作物被害甚大。

と昭和の戦前も自然災害が多発し、大きな被害を出しているのに驚かされる。

では戦後はどうか。
「福山・松永・尾道」 地域の災害について(2)」に続く

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/00f0e70d5af2e1793496f40db7607936.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/00f0e70d5af2e1793496f40db7607936-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:191号」より 岡田 宏一郎 二〇一六年六月二十二日の夜から二十三日の未明にかけて大雨が降り続きさらにその後も断続的に降雨があり、福山地域の河川・芦田川や手城川・瀬戸川・猪之子川・松永の羽原川・沼隈の山南川等の河川が洪水・増水で住宅が浸かり、またのり面の崩れ、土砂崩れなどで道路の通行止めなどの影響により国道が大渋滞し混乱したことが報道されていました。 こうした梅雨による長雨、豪雨が気になり、江戸期から大正・昭和期までの大雨などによる災害について紹介してみたい。   備後南部のこの地域は瀬戸内式気候のため晴天が多く少雨のため「日照りの被害」が多く、そのため「雨乞い神事」が備後南部の神社でも行われているし、また松永の今津町にある高諸神社でも行われていた記録がある。 また奉納されている絵馬の中に「黒馬の絵馬」や「白馬の絵馬」を見かける事がある。松永の神村八幡神社でこうした絵馬見ている。この「白馬の絵馬」は長雨が続くので雨が止み晴天を願った奉納絵馬である。また「黒馬の絵馬」は「日照りが続くので降雨をもたらし農作物への恵みの雨」を願う絵馬である。こうしたことから災害に苦しむ農民などの願いをくみ取ることが出来るのである。 大正十二年に発刊された『沼隈郡誌』や『その他の文献・資料』を見ると水害に関した記述があるから省略しながら引用して報告と紹介をしたい。 沼隈郡誌に出てくる最初の被害について書かれている時代は 元和六年五月二十八日 大雨洪水、蘆田川野上堤防を決壊す、福山築城中。 である。また「三原志稿及び芸藩通志」には 芦田川野上堤防決壊し、福山城築城中、城畳を壊り城下を浸す。 とあり、さらに「元和七年九月明王院本堂再建棟札」には 去る元和六年庚申孟夏天大雨洪水滔々山岸崩仏閣埋土中 とある。これらが古い洪水による被害記録である。  続けて沼隈郡誌には次のような洪水被害が書かれている。 承應元年五月十日 同二年五月廿二日、同三年七月十九日、三ヶ年引續いて大水、沿川被害大。 寛文十三年五月十四日 關西全体に亙つて大洪水、沼隈諸川悉く氾濫、田畑家畜人類の被害莫大、草戸新田全滅す。 元禄十五年七月二十八日 山汐、八月二十九日洪水、米穀の被害甚だしく、米價昂騰し、百姓困憊す。 寶永四年八月十九日、九月十二日、同五年六月二十二日 大洪水、地方民力を損耗す。 正徳二年六月二日、七月二日 洪水 享保六年閏七月十一日大風洪水、同九年八月十四日大水、同十四年九月十四日洪水、被害大。 寳暦十年六月二十日 大水。 文久三年四月朔日、六月二日共に大水。 天明三年六月十七日 大洪水死傷多し。 寛政元年、同年七月二十六日、同七年八月二十八日洪水、人畜死傷あり。 享和二年八月七日 洪水。 文化五年五月廿九日、閏九月廿九日 大水。 文政十年六月十七日 大水。 嘉永五年八月二十三日 大水。 明治四年五月十八日 洪水。 (ここまでが旧暦の月日だと判断した) 「松永町誌」からの記述には 明治十七年八月廿五日 瀬戸内海沿岸一帯に大海嘯起り被害甚大、機織新涯の決壊を始め潮水、砂礫と共に侵入し被蓋反別実に九十四町八反・・・・ とある。 明治二十四年九月十四日 烈風起り松永小学校藁葺校舎一棟倒壊、当分一部生徒を休校させる。 明治二十五年七月二十六日 大水。 大正三年九月十四日 暴風雨に伴い高潮来襲沿岸被害甚大、小学校児童の通学は困難な程であった。 大正四年九月八日 から九日にかけ暴風雨あり、高須新涯は決壊相生島南堤防の一部決潰五ヶ年間免租地となる。松永の浸水家屋百五十戸に達した。 大正十年六月十八日大水、同七月十三日暴風雨、工事中の今津校校舎倒壊。 大正十二年六月十六日 より一ヶ月間に七度の洪水あり稲苗腐敗する所あり被害甚大、雨量は明治十五年の一ヶ年分より多かつたと。 大正十五年五月二十八日 から九日にかけ駅附近及東町浸水(五戸)今津川本郷土手五十間決潰す。 昭和二年八月二十二日 原田村に豪雨あり今津川増水、原田本郷両村の橋梁二十四箇所今津吾妻橋も流失した。 昭和三年八月十九日 豪雨高潮を伴い村上寅吉工場貯木渠の堤防決壊、石井町の住家三十四戸非住家一七戸床上三、四尺、稲田五町歩へも浸水した。 昭和十年六月下旬 より九月中 霖雨あり稲の稔悪く、松永の製塩は二割(約十万円)の減収となった。 昭和十六年十月一日 颱風高潮を伴い松永の浸水十数戸床下七、八寸、塩田二十坪流失す。 昭和十七年八月二十七日 暴風雨に高潮来襲午前〇時相生島北西堤防三十五間、同東南堤防六十間決潰、海水侵入、復旧に六万円を要し七塩戸の被害三十数万円にて一年免租となる。 以上のように沼隈郡や松永地域は何回も洪水に見舞われていることが分かる。なかでも福山では大正年間は八年から十一年にかけて毎年のように水害の被害を受けていてその被害も甚大であった。   沼隈郡誌や松永町誌に書かれていない被害年や大正十二年以降の被害年度については『芦田川改修史』(建設省中国地方建設局 福山工事事務所)に「主要洪水年表」があるので付け加えておく。 貞享四年 三備芸にわたって大洪水 宝永六年 被害甚大なるも程度不詳 明和七年 秋八月 水害によるか、干害によるか不明なるも、農作物の収穫が皆無で飢饉 安永五年 発生月日不明なるも芦田川左支川神谷川筋洪水 天明二年 春夏 春から夏にかけて浮雨。稲苗育たず 寛政二年、三年 八年 九年 と連続してある。 天保十一年 大洪水で芦品郡、沼隈郡地先の堤防決壊。府中、広谷、中津原、郷分、山手、佐波、神島、津之郷の各村浸水。被害甚大。 万延元年 発生月日不詳。万能倉、加茂川堤防決壊。 文久二年、三年 発生月日不詳。二十軒屋土手切り流し。 両度にわたって大洪水被害程度不明。 明治十年 堤防決壊 明治十三年 明治二十八年 明治三十四年 福田村堤防決壊 明治三十六年 新市村堤防決壊 明治三十八年 明治四十三年 駅家村堤防決壊。 大正十二年六月二十一日 洪水。中津原古川堤防及び向羽賀中、羽賀沖堤防決壊、上岩成、下岩成、道上、宣山、山守、二本松、七社、宮の下他下流一帯浸水。 大正十五年五月二十九日 洪水。中津原古川堤防決壊。中津原、森脇村浸水。被害程度不詳。 大正十五年七月七日 洪水。上岩成、下岩成、道上他浸水。 昭和三年八月二十八日 暴風目。河口付近潮害。人家浸水。農作物被害甚大。 昭和六年七月七日 深安郡内で浸水三六二町歩。芦品郡内で浸水田畑三七町歩。石橋流失。 昭和六年十月十三日 暴風雨により沼隈郡、深安郡で浸水延六二〇町歩。中津原村一帯の耕地浸水、減収一割~一・五割。 昭和九年七月二十二日 芦田川の増水で県道が二十五m崩壊し、渡し舟で交通連絡をはかった。 昭和九年九月二十一日 洪水。府中、新市堤防決壊、近田、神辺、千田村冠水。橋梁流失。 昭和十年六月三十日 豪雨。深安郡で浸水約三〇〇町歩。中津原で大渡橋の一部流失。 昭和十年八月二十八日 暴風雨。小田川の堤防堤防流失。 昭和十一年七月二日 神辺平野、千田沼で浸水延一一三町歩。 昭和十二年六月八日 芦品郡で田畑浸水。駅家村で村道破損二十一m。各町村で道路橋の小破損多数。 昭和十六年六月二十八日 豪雨。芦品郡で浸水田一三〇町歩。小橋梁の破損流失交通不能箇所も出た。 昭和十六年十月一日 暴風雨。高潮波浪激烈。護岸洗掘他被害多数 昭和十八年七月二十三日 大洪水。護岸崩壊二十六ヶ所他、世羅郡神田村地先の灌漑用貯水堰堤決壊して附近一帯の家屋浸水、流失、水田冠水、農作物被害甚大。 と昭和の戦前も自然災害が多発し、大きな被害を出しているのに驚かされる。 では戦後はどうか。 「「福山・松永・尾道」 地域の災害について(2)」に続く備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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