「福山・松永・尾道」 地域の災害について(3)

備陽史探訪:193号」より

岡田 宏一郎

「「福山・松永・尾道」 地域の災害について(2)」から続く

ところで「本郷川のことを『東川』と通称したらしく、いま「あづま橋」(国道に架かる橋は「末広橋」である)が旧街道にかかっているがこのことから来ているのかもしれない。
福山市史 近世資料編1 政治・経済」の中に幕末の水害の被害が具体的に書かれた資料が掲載されているから紹介する。

「大水害被災状況届書」(天保十一年 下宮家文書)には

天保十一子六月五日壱丈五尺七寸出水ニ付損所書付、御代官手代橘高音蔵ヨリ為見候ニ付置也
(省略しながら部分的に掲載)
田畑水入高弐万八千七拾石
田畑砂入幷石交羽原押入
往還幷間道損三千八百五拾六ヶ所
切池幷潰池共百拾五ヶ所
山崩八千弐百五拾六ヶ所
砂留損七百七拾ヶ所
石垣損六百五拾七ヶ所
水刎損弐百弐ヶ所
橋落幷損共九百八拾八ヶ所
神社流幷崩共九ヶ所
辻堂幷庵流崩共拾五ヶ所
流家四百拾弐ヶ所
崩家四百四拾四家
水入家幷損家共三千百弐拾八軒
水車流幷崩共拾六ヶ所
塩浜損拾九浜
水死人六拾三人

など甚大な被害を出している。

壱丈五尺七寸の水かさは約四・七メートルで前代未聞の大水である。雨量の多寡に関わらず鉄砲水による被害が出ており、樹木の伐採による山林が荒廃していることが分かる。

さらにこの「付ヶ紙」には次のように具体的に報告されている。

本文ヶ条之外、小建物流失作道或は小橋谷筋損倒木等 委敷義は相知不申候 右は去ル五日出水之節村々損所大旨寄高ニ御座候、尤其砌乍大雨前廉より数日降続之事ニも無御座候処、此度ハ格別之高水ニて全雨天のみ之洪水とハ不被存候処、其後村々より追々申出候山崩岸欠津堤押切又ハ大木根付之儘押倒し、其外大小とも池損所々之砂留押潰、田畑へ土砂ハ勿論大石迄押入候ヶ数多御座候趣ニてハ絶て山分より湧出候水強ク谷々より流出之義夥敷ニ付、俄ニ水勢烈敷相成損所多く御座候義と奉存候 六月

とある。
 『續 神辺風土記』(菅波堅次遺稿集)にある「神辺附近大洪水被災につき回顧談」(天保十一年「菅波信道一代記 前編巻之五」)には

大水大変之事 一、時は天保十一年、六月五日の大洪水ハ前代未聞なり、皆水なれぬ事故に、只よそ事と思ふ間に、水は俄に押来たりうろたへさわぐ其頃ハ、午の刻をも少し過、庭中水の干落しハ、翌日卯辰の其央、我座に水の打乗るハ、酒店にてハ弐尺程台所にハ尺余り、仏間・玄関・上の間ハ、打寄波の敷居越、畳ハ都て浮上り、諸道具・たんす・蒲団迄皆悉く水に入、穀類勿論蔵の内・・・・

と家屋に押し寄せる被害がよくわかる。
 また「備南地方洪水被災状況につき回顧談」(天保十一年 菅波家文書「菅波信道一代記前編巻之終り」)にもある。

備後大水一乱之事 一、時は天保十一年、子之歳六月五日なり、備後大水大変は前代未聞の事なりし、其前五月廿日過、一日二日三日は、空うらうらと薄雲、山鳴地鳴波音、夕日の影も紅之、薄黒かりし悪色、皆人々の怪しめり、四日五日は雨となり、又降る事の弥励し、六七日は雨之止、空に黒雲・・・・・(中略)猶又近村両御領、平野・本湯野無残、秋丸辺に至迄、皆々人家に水の入、中条・箱田無残、三谷筋より水出て田畑不残川となり尚々人死又多し・・・・・降雨繁く音高く、数百之村里海となり・・・・(中略)・・・・

数千人之人家打ち続き流れ流れて其中に、叫し人之声ばかり、猶又水におぼれし人,死骸は数多牛馬とも、皆打連てながれ行、横尾・片山・中津原、水之瀬早く打続、数多人家流失、屋根を破りて顔を出し助け助けと泣叫ひ、詮方なさに今更に、憐や下もへ流行、猶又横尾之鶴ヶ橋、数百之人家流れ寄り、橋諸共に押流し、水呑之沖へぞ出にけり、・・・・

とこのようにひどい状況が回顧談として書かれている。

さらに「山手村大水被災状況届」(嘉永三年 三谷家文書「御用状願書控帳」)に次のようなことがあるので部分的に紹介する。

乍恐以書付御達奉申上候御事
一、俄谷川筋御趣法砂留メ水受け杭羽原ニて仕立之分、長三間半計相損申候
一、右池(俄池)下砂留メ壱ヶ所半落ニ相成申候
一、居釣川筋道石垣八ヶ所相損申候 一、右川筋砂留メ五ヶ所落損申候 (以下略)
 右は去ル二日大水ニ付損シ所前書之通ニ御座候、依右乍恐以書付此段御達奉申上候、以上
   戌六月     
      山手村与頭
         太三郎
      同  安右衛門
      同  孫 七
      同  亀 冶
      同村庄屋
         儀三郎
    五日兵三郎より上ル
 御代官様

と多くの具体的な被害個所を書きつけて届を出している。

また宝暦七年の大風雨について『川南村菅波家日記抄』(濱本鶴賓氏抄写( )は同氏註)にも記録が載っているので紹介する。

宝暦七年七月廿六日、大風雨ニ而古今珍敷事也、御領布中、倒(レ)家、瓦三千七百軒余、御城之鯱ヲ吹落シ、雨戸壱枚ハ山手村三宝寺へ吹落シ、一枚ハ三(山)波村迄、吹散(ラ)し申候、川北明神ノ鳥居ヲ吹倒シ折り候、当村(川南村)ニ而テモ、家、長屋類ノ廿四五軒程、吹倒シ大寺(王子)観音堂之大松ヲ吹倒シ、地蔵堂ヲ吹倒シ申候。中津原藪端堤、切レ申候。当時、水溢レ稲作余程痛ミ候

とある。だが「三波村」とは尾道の山波村ならば距離的にあまりにも遠すぎてこれはおかしい。「三波村」とは『佐波村』ではないかと思われる。また御城とは福山城のことで、城の鯱が落ちたことは初めて資料で知った。この鯱については『備後府中・浦上家譜』にも次のような記載がある。

同年(宝暦七年)七月廿六日、大風雨にて、諸方御痛み(損害)、福山城天主(天守閣)之しゃちほこ(鯱)落申候由、其外いたみおびたゞし。此返(府中、市村)家を吹倒し、大木を吹折り、瓦屋根にても瓦を吹ちらし、すさまじき大風、前代未聞と古老の人も申候。父石(村)中須(村)等、別していたみし候よし・・・・

とある。

さらに広島藩でも大被害が出ているので紹介する。

世羅郡誌』には

同七年七月二十六日大風、民家、樹木等多く傾倒損害甚し。

とある。

広島市史』にも

七月廿十六日、大風雨、洪水、高潮、広島藩ノ田畠損毛五万二千七百七拾余、流失倒壊家屋二万七千百拾八戸、死亡者九拾一人

とあり広範囲にわたり大風雨による被害が出ていたことが分る。

 最後に尾道地域ではどうであろうか。これについて尾道市史の中には記載がない。そこで『続・備後叢書(下)塵塚』を見ると、享和二年(1802)の大水害についての記述があったので少し長くなりますが転載します。

享和壬戌の五月十三日入梅、夫れより前かた雨降候所、十一二日頃より不斷降、尤其間に一日晴、或は曇等事ありしか、何分けしからぬ降にて、廿五六日より一向昼夜雨止事なし、廿七に至、尾崎小兵衛家へ浄土寺の藪崩れかかり家を圧ひしける、浄土寺隠居の上の山、ここかしこ崩るゝ、持善院庫裏へ、是も上之藪崩かかり微塵に成、本堂ゆかむ、西国寺鐘楼の下、土地ひゞき見え、鐘を卸して楼へ綱などかけ、つゞをして置、又同寺の藪ぼうじの方へ凡百間余流れ出る、慶徳庵、福原庵の上へ堀より崩れかかる、宝土寺鋳鐘も心元なし、塗壁落かゝ、彼辺下に居住の者皆立退く、福善寺経蔵辺破れる、帯屋平三郎の宅の下より水吹上る。すべて胡小路家々の下より水道の水吹上げ、帯平家ねぢれる、胡小路にて水深サ腰まで、炭屋新蔵より西、小物屋惣右衛門まで、何れも床かきり塗屋小路より七歳の小児流平野屋孫右衛門、門口にて助かる、我隠居(鳴子庵)は廿七日夜八ッ時より床かぎり、大手崩れ門傾く、庭中田泥五寸通り、廿八日朝さし当り下駄なし、掾(縁)の下に有し梅干の瓶流るゝ、手習子水何れもなし、山手屋冶右衛門妻お鳥、瑞枝其夜逗留、けしからぬ雨(雷か)雷、さてさて凄き事也、廿七日の昼時分より手前大手切れ水出しなり、中衆与七大に働く、土俵杯持運び、海徳寺橋の上にて与七吐血して頓死す、不便千万、浄土寺新開地に成、肥後字茶義など、仕出しの納屋流るゝ、栗原辺にて三軒屋眼医孝敬裏座敷流れ、塔の岩にて留る、按摩徳兵衛倅九歳流死、此度尾道之水之事、前代未聞なり、廿八日ぼうじ井池切るとて心ならず、大雨中お鳥、瑞枝を八兵衛方へ遺す、我庵へとちからも往来ならず、□□近き頃、沢屋へかよ人しらぬ通ひ路ありしにて、廿七日の夜も大安心、隣家同志ハ忍び門は有べきものなり、竹原にて流死二十人ばかり有、三成村庄屋政右衛門宅五六尺にて、土蔵流るゝ

と尾道でも大被害が出ている。災害が少ないと云われる備後地域であるが江戸期から最近まで多くの洪水による災害が起こっているのである。機会があれば「地震災害」についても紹介したいと思っている。

引用及び参考文献・図書

  • 「沼隈郡誌」
  • 「三原志稿」
  • 「芦田川改修史(建設省中国地方建設局 福山事務所)」
  • 「松永町誌」
  • 「松永本郷町誌」
  • 「福山市史(近世資料編1 政治・経済)」
  • 「続 神辺風土記(菅波堅次遺稿集)」
  • 「芸備地方史研究301・302号」(芸備地方史研究会)
  • 「神辺風土記・続神辺風土記より」(備南地方洪水被災状況につき回顧談、山手村大水被害状況届、川南村菅波家日記抄、備後府中浦上家譜)
  • 「世羅郡誌」
  • 「広島市史」
  • 「続 備後叢書(塵塚)」
https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/00f0e70d5af2e1793496f40db7607936.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/00f0e70d5af2e1793496f40db7607936-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:193号」より 岡田 宏一郎 「「福山・松永・尾道」 地域の災害について(2)」から続く ところで「本郷川のことを『東川』と通称したらしく、いま「あづま橋」(国道に架かる橋は「末広橋」である)が旧街道にかかっているがこのことから来ているのかもしれない。 「福山市史 近世資料編1 政治・経済」の中に幕末の水害の被害が具体的に書かれた資料が掲載されているから紹介する。 「大水害被災状況届書」(天保十一年 下宮家文書)には 天保十一子六月五日壱丈五尺七寸出水ニ付損所書付、御代官手代橘高音蔵ヨリ為見候ニ付置也 (省略しながら部分的に掲載) 田畑水入高弐万八千七拾石 田畑砂入幷石交羽原押入 往還幷間道損三千八百五拾六ヶ所 切池幷潰池共百拾五ヶ所 山崩八千弐百五拾六ヶ所 砂留損七百七拾ヶ所 石垣損六百五拾七ヶ所 水刎損弐百弐ヶ所 橋落幷損共九百八拾八ヶ所 神社流幷崩共九ヶ所 辻堂幷庵流崩共拾五ヶ所 流家四百拾弐ヶ所 崩家四百四拾四家 水入家幷損家共三千百弐拾八軒 水車流幷崩共拾六ヶ所 塩浜損拾九浜 水死人六拾三人 など甚大な被害を出している。 壱丈五尺七寸の水かさは約四・七メートルで前代未聞の大水である。雨量の多寡に関わらず鉄砲水による被害が出ており、樹木の伐採による山林が荒廃していることが分かる。 さらにこの「付ヶ紙」には次のように具体的に報告されている。 本文ヶ条之外、小建物流失作道或は小橋谷筋損倒木等 委敷義は相知不申候 右は去ル五日出水之節村々損所大旨寄高ニ御座候、尤其砌乍大雨前廉より数日降続之事ニも無御座候処、此度ハ格別之高水ニて全雨天のみ之洪水とハ不被存候処、其後村々より追々申出候山崩岸欠津堤押切又ハ大木根付之儘押倒し、其外大小とも池損所々之砂留押潰、田畑へ土砂ハ勿論大石迄押入候ヶ数多御座候趣ニてハ絶て山分より湧出候水強ク谷々より流出之義夥敷ニ付、俄ニ水勢烈敷相成損所多く御座候義と奉存候 六月 とある。  『續 神辺風土記』(菅波堅次遺稿集)にある「神辺附近大洪水被災につき回顧談」(天保十一年「菅波信道一代記 前編巻之五」)には 大水大変之事 一、時は天保十一年、六月五日の大洪水ハ前代未聞なり、皆水なれぬ事故に、只よそ事と思ふ間に、水は俄に押来たりうろたへさわぐ其頃ハ、午の刻をも少し過、庭中水の干落しハ、翌日卯辰の其央、我座に水の打乗るハ、酒店にてハ弐尺程台所にハ尺余り、仏間・玄関・上の間ハ、打寄波の敷居越、畳ハ都て浮上り、諸道具・たんす・蒲団迄皆悉く水に入、穀類勿論蔵の内・・・・ と家屋に押し寄せる被害がよくわかる。  また「備南地方洪水被災状況につき回顧談」(天保十一年 菅波家文書「菅波信道一代記前編巻之終り」)にもある。 備後大水一乱之事 一、時は天保十一年、子之歳六月五日なり、備後大水大変は前代未聞の事なりし、其前五月廿日過、一日二日三日は、空うらうらと薄雲、山鳴地鳴波音、夕日の影も紅之、薄黒かりし悪色、皆人々の怪しめり、四日五日は雨となり、又降る事の弥励し、六七日は雨之止、空に黒雲・・・・・(中略)猶又近村両御領、平野・本湯野無残、秋丸辺に至迄、皆々人家に水の入、中条・箱田無残、三谷筋より水出て田畑不残川となり尚々人死又多し・・・・・降雨繁く音高く、数百之村里海となり・・・・(中略)・・・・ 数千人之人家打ち続き流れ流れて其中に、叫し人之声ばかり、猶又水におぼれし人,死骸は数多牛馬とも、皆打連てながれ行、横尾・片山・中津原、水之瀬早く打続、数多人家流失、屋根を破りて顔を出し助け助けと泣叫ひ、詮方なさに今更に、憐や下もへ流行、猶又横尾之鶴ヶ橋、数百之人家流れ寄り、橋諸共に押流し、水呑之沖へぞ出にけり、・・・・ とこのようにひどい状況が回顧談として書かれている。 さらに「山手村大水被災状況届」(嘉永三年 三谷家文書「御用状願書控帳」)に次のようなことがあるので部分的に紹介する。 乍恐以書付御達奉申上候御事 一、俄谷川筋御趣法砂留メ水受け杭羽原ニて仕立之分、長三間半計相損申候 一、右池(俄池)下砂留メ壱ヶ所半落ニ相成申候 一、居釣川筋道石垣八ヶ所相損申候 一、右川筋砂留メ五ヶ所落損申候 (以下略)  右は去ル二日大水ニ付損シ所前書之通ニ御座候、依右乍恐以書付此段御達奉申上候、以上    戌六月            山手村与頭          太三郎       同  安右衛門       同  孫 七       同  亀 冶       同村庄屋          儀三郎     五日兵三郎より上ル  御代官様 と多くの具体的な被害個所を書きつけて届を出している。 また宝暦七年の大風雨について『川南村菅波家日記抄』(濱本鶴賓氏抄写( )は同氏註)にも記録が載っているので紹介する。 宝暦七年七月廿六日、大風雨ニ而古今珍敷事也、御領布中、倒(レ)家、瓦三千七百軒余、御城之鯱ヲ吹落シ、雨戸壱枚ハ山手村三宝寺へ吹落シ、一枚ハ三(山)波村迄、吹散(ラ)し申候、川北明神ノ鳥居ヲ吹倒シ折り候、当村(川南村)ニ而テモ、家、長屋類ノ廿四五軒程、吹倒シ大寺(王子)観音堂之大松ヲ吹倒シ、地蔵堂ヲ吹倒シ申候。中津原藪端堤、切レ申候。当時、水溢レ稲作余程痛ミ候 とある。だが「三波村」とは尾道の山波村ならば距離的にあまりにも遠すぎてこれはおかしい。「三波村」とは『佐波村』ではないかと思われる。また御城とは福山城のことで、城の鯱が落ちたことは初めて資料で知った。この鯱については『備後府中・浦上家譜』にも次のような記載がある。 同年(宝暦七年)七月廿六日、大風雨にて、諸方御痛み(損害)、福山城天主(天守閣)之しゃちほこ(鯱)落申候由、其外いたみおびたゞし。此返(府中、市村)家を吹倒し、大木を吹折り、瓦屋根にても瓦を吹ちらし、すさまじき大風、前代未聞と古老の人も申候。父石(村)中須(村)等、別していたみし候よし・・・・ とある。 さらに広島藩でも大被害が出ているので紹介する。 『世羅郡誌』には 同七年七月二十六日大風、民家、樹木等多く傾倒損害甚し。 とある。 『広島市史』にも 七月廿十六日、大風雨、洪水、高潮、広島藩ノ田畠損毛五万二千七百七拾余、流失倒壊家屋二万七千百拾八戸、死亡者九拾一人 とあり広範囲にわたり大風雨による被害が出ていたことが分る。  最後に尾道地域ではどうであろうか。これについて尾道市史の中には記載がない。そこで『続・備後叢書(下)塵塚』を見ると、享和二年(1802)の大水害についての記述があったので少し長くなりますが転載します。 享和壬戌の五月十三日入梅、夫れより前かた雨降候所、十一二日頃より不斷降、尤其間に一日晴、或は曇等事ありしか、何分けしからぬ降にて、廿五六日より一向昼夜雨止事なし、廿七に至、尾崎小兵衛家へ浄土寺の藪崩れかかり家を圧ひしける、浄土寺隠居の上の山、ここかしこ崩るゝ、持善院庫裏へ、是も上之藪崩かかり微塵に成、本堂ゆかむ、西国寺鐘楼の下、土地ひゞき見え、鐘を卸して楼へ綱などかけ、つゞをして置、又同寺の藪ぼうじの方へ凡百間余流れ出る、慶徳庵、福原庵の上へ堀より崩れかかる、宝土寺鋳鐘も心元なし、塗壁落かゝ、彼辺下に居住の者皆立退く、福善寺経蔵辺破れる、帯屋平三郎の宅の下より水吹上る。すべて胡小路家々の下より水道の水吹上げ、帯平家ねぢれる、胡小路にて水深サ腰まで、炭屋新蔵より西、小物屋惣右衛門まで、何れも床かきり塗屋小路より七歳の小児流平野屋孫右衛門、門口にて助かる、我隠居(鳴子庵)は廿七日夜八ッ時より床かぎり、大手崩れ門傾く、庭中田泥五寸通り、廿八日朝さし当り下駄なし、掾(縁)の下に有し梅干の瓶流るゝ、手習子水何れもなし、山手屋冶右衛門妻お鳥、瑞枝其夜逗留、けしからぬ雨(雷か)雷、さてさて凄き事也、廿七日の昼時分より手前大手切れ水出しなり、中衆与七大に働く、土俵杯持運び、海徳寺橋の上にて与七吐血して頓死す、不便千万、浄土寺新開地に成、肥後字茶義など、仕出しの納屋流るゝ、栗原辺にて三軒屋眼医孝敬裏座敷流れ、塔の岩にて留る、按摩徳兵衛倅九歳流死、此度尾道之水之事、前代未聞なり、廿八日ぼうじ井池切るとて心ならず、大雨中お鳥、瑞枝を八兵衛方へ遺す、我庵へとちからも往来ならず、□□近き頃、沢屋へかよ人しらぬ通ひ路ありしにて、廿七日の夜も大安心、隣家同志ハ忍び門は有べきものなり、竹原にて流死二十人ばかり有、三成村庄屋政右衛門宅五六尺にて、土蔵流るゝ と尾道でも大被害が出ている。災害が少ないと云われる備後地域であるが江戸期から最近まで多くの洪水による災害が起こっているのである。機会があれば「地震災害」についても紹介したいと思っている。 引用及び参考文献・図書 「沼隈郡誌」 「三原志稿」 「芦田川改修史(建設省中国地方建設局 福山事務所)」 「松永町誌」 「松永本郷町誌」 「福山市史(近世資料編1 政治・経済)」 「続 神辺風土記(菅波堅次遺稿集)」 「芸備地方史研究301・302号」(芸備地方史研究会) 「神辺風土記・続神辺風土記より」(備南地方洪水被災状況につき回顧談、山手村大水被害状況届、川南村菅波家日記抄、備後府中浦上家譜) 「世羅郡誌」 「広島市史」 「続 備後叢書(塵塚)」備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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