日熊塔(ひぐまとう)(新市町上安井・延文元年の宝篋印塔)
「備陽史探訪:157号」より
杉原 道彦
県道二六号線を北上すると新市町上安井の日熊自然公園の案内標識にしたがい、渡上(わたりあがり)橋を左へ、志和井のバス停の商店裏を右折し五十mほどで右手前方の民家の庭に、日熊の宝篋印塔がある。
塔は、宝篋印陀羅尼経を納めたその名に由来しているが、多くは墓や供養塔として造られた。ここに宝篋印塔一基が残り、道路の拡幅工事にともない民家裏から家の庭に移された。塔の基壇部と笠より上の相輪部はないが、高さ九十㎝ある。隣の金丸厚山の宝篋印塔と同様に、南北朝時代に造立された。基礎部には、「延文元(一三五六)年丙申」「十一月日」「願主」「□(判読不能)阿祢」と銘文が残る。
『備後叢書』品治郡之二上安井村の項に、「宮殿の下屋敷と云うところあり。常村と上安井村の境に日隈(ひぐま)山と云う古城あり。上安井村分を西の丸、常村分を二の丸と云う。この辺の田畑を耕作すれば、鏃(やじり)や鎧の金物を見る。この山のふもと上安井村の安松の田の畦に古き石塔あり。日熊殿と云い、延文元年十一月四日とありその他の文字見えず。瘧(おこり・マラリア性の熱病)や虫歯などに霊験あり香花が絶えず。城山のふもとに首立て場、堀の内の地名あり。」と記している。
冒頭の日熊自然公園は、この城跡のことで塔の後ろの小山がそれである。日隈城は、新市町常と上安井にまたがる独立した丘陵に位置し、比高四十mで曲輪の跡が残る。頂部は、畑や一部は墓地として利用されている。他に五輪塔数基も城跡に残っている。
『芦品郡志』には、日隈若狭守元政、日隈肥後守快眞が居城。快眞は、宮下野守元信の家老にして足利直冬と攻戦の際、雨木助元の間にある軍か端(いくさがはな)で戦死したことが、古城記にも記してある。尾道浄土寺文書に金丸は、暦応二(一三三九)年に足利尊氏から浄土寺に塔婆料所として寄進された。これに対して、ここの常五郎左衛門尉経康が、金丸は自分の領有であると異議を唱えて争いとなったが、その後逃げ去った。
塔と常氏の関係は途切れたが、日熊氏のゆかりの塔であることは、間違いないようである。この辺りは、備後一宮(吉備津神社)に本拠をおいた宮氏の勢力範囲で、周辺の真宮神社は、蘆浦(あすら)庄の品治宿祢(ほんちのすくね)が神社を創建した伝承が残り、備後の二宮であった。真言宗宿院は、備後一宮の祈願所で日隈城主にゆかりの寺である。また、『萩藩閥閲録』第四巻の萩の町人日隈二郎右衛門は、先祖忍斉が毛利輝元の感状を伝え、『毛利氏八箇国御時代分限帳』の日陰(隈の誤り)神兵衛は、長門豊西に四十石の知行を得て備後を離れている。備後の地域には、こうした南北時代から系譜を伝えたゆかりの人びとが、毛利に従い萩に移り、あるいは備後に土着したりして歴史を今日に伝えている。
《参考文献》『新市町史』通史編・資料編Ⅰ・Ⅱ『広島県城館調査報告書』第3集
https://bingo-history.net/archives/542https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/157.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/157-150x150.jpg中世史備陽史探訪,宝篋印塔,論考「備陽史探訪:157号」より 杉原 道彦 県道二六号線を北上すると新市町上安井の日熊自然公園の案内標識にしたがい、渡上(わたりあがり)橋を左へ、志和井のバス停の商店裏を右折し五十mほどで右手前方の民家の庭に、日熊の宝篋印塔がある。 塔は、宝篋印陀羅尼経を納めたその名に由来しているが、多くは墓や供養塔として造られた。ここに宝篋印塔一基が残り、道路の拡幅工事にともない民家裏から家の庭に移された。塔の基壇部と笠より上の相輪部はないが、高さ九十㎝ある。隣の金丸厚山の宝篋印塔と同様に、南北朝時代に造立された。基礎部には、「延文元(一三五六)年丙申」「十一月日」「願主」「□(判読不能)阿祢」と銘文が残る。 『備後叢書』品治郡之二上安井村の項に、「宮殿の下屋敷と云うところあり。常村と上安井村の境に日隈(ひぐま)山と云う古城あり。上安井村分を西の丸、常村分を二の丸と云う。この辺の田畑を耕作すれば、鏃(やじり)や鎧の金物を見る。この山のふもと上安井村の安松の田の畦に古き石塔あり。日熊殿と云い、延文元年十一月四日とありその他の文字見えず。瘧(おこり・マラリア性の熱病)や虫歯などに霊験あり香花が絶えず。城山のふもとに首立て場、堀の内の地名あり。」と記している。 冒頭の日熊自然公園は、この城跡のことで塔の後ろの小山がそれである。日隈城は、新市町常と上安井にまたがる独立した丘陵に位置し、比高四十mで曲輪の跡が残る。頂部は、畑や一部は墓地として利用されている。他に五輪塔数基も城跡に残っている。 『芦品郡志』には、日隈若狭守元政、日隈肥後守快眞が居城。快眞は、宮下野守元信の家老にして足利直冬と攻戦の際、雨木助元の間にある軍か端(いくさがはな)で戦死したことが、古城記にも記してある。尾道浄土寺文書に金丸は、暦応二(一三三九)年に足利尊氏から浄土寺に塔婆料所として寄進された。これに対して、ここの常五郎左衛門尉経康が、金丸は自分の領有であると異議を唱えて争いとなったが、その後逃げ去った。 塔と常氏の関係は途切れたが、日熊氏のゆかりの塔であることは、間違いないようである。この辺りは、備後一宮(吉備津神社)に本拠をおいた宮氏の勢力範囲で、周辺の真宮神社は、蘆浦(あすら)庄の品治宿祢(ほんちのすくね)が神社を創建した伝承が残り、備後の二宮であった。真言宗宿院は、備後一宮の祈願所で日隈城主にゆかりの寺である。また、『萩藩閥閲録』第四巻の萩の町人日隈二郎右衛門は、先祖忍斉が毛利輝元の感状を伝え、『毛利氏八箇国御時代分限帳』の日陰(隈の誤り)神兵衛は、長門豊西に四十石の知行を得て備後を離れている。備後の地域には、こうした南北時代から系譜を伝えたゆかりの人びとが、毛利に従い萩に移り、あるいは備後に土着したりして歴史を今日に伝えている。 《参考文献》『新市町史』通史編・資料編Ⅰ・Ⅱ『広島県城館調査報告書』第3集管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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