宮三河守家について(特異な宮上野介家の庶子家)

備陽史探訪:183号」より

木下 和司

宮氏には惣領と考えられる宮下野守家、有力庶子である宮上野介家の他にも、多くの庶子家があったと考えられている。今回は、宮氏の研究であまり触れられたことのない宮三河守家について考えてみたい。三河守家とは家系の極官として、受領・三河守を称する家系のことを意味している(①)。宮三河守家は、奉公衆・四番に属した宮上野介家の庶子家であるが、少し特異な家系のように思われる。

宮三河守家で最初に史料上で確認できる人物は、盛廣である。応永十九(一四一二)年、足利義満の石清水八幡宮参詣の衛府侍として宮次郎左衛門尉満信と共に、宮式部丞盛廣として現れる。満信は応永六年に丹波で討死した宮氏信の嫡子であり(②)、この時、宮上野介家の惣領である。盛廣は実名の上の字に「盛」を戴くことから、宮下野守家の庶子家と考えられがちであるが、これは誤りである。盛廣が宮上野家の庶子家と考えられる根拠は、後述する。

宮盛廣は、「花営三代記」応永廿八年十一月十三日の条に宮下野守満重、宮上野介満信と共に宮三河守として現れる。この史料では三河守の実名は書かれていない。しかし、永享二(一四三〇)年七月廿五日、足利義教大将拝賀の儀に供奉した帯刀に宮三河守盛廣と見えて(③)、三河守の実名が盛廣であることが分る。この時の衛府侍は宮備中守氏兼、宮下野守元盛である。また、文安年間(一四四四~九)の成立と考えられる「文安年中御番帳」には、四番衆に宮三河入道と見えて、盛廣が出家したことが分る(④)。これにより盛廣の家系は、宮上野介家の庶子家と考えられる。また、「文安年中御番帳」と同時期ものもとされる『蜷川家文書』所収の「番衆交名」(以下、「蜷川番帳」と称す)には、四番衆に盛廣と共に、宮式部少輔(丞)と見えて、盛廣の子息と考えられる(⑤)。

「蜷川番帳」に現れる宮式部丞は、長禄二(一四五八)年七月廿五日の足利義政の内大臣拝賀の儀に衛府侍・宮式部丞豊盛と見えて、実名が豊盛と知れる。また、「康正二(一四五六)年造内裏段銭并国役引付」に備後国段銭として五貫文を納めている宮式部丞は豊盛を指している。

応仁・文明の乱期の宮三河守家の動向は不明であるが、長禄年間になると豊盛の子孫と思われる人物が史料上に現れて来る。長享元(一四八七)年「常徳院御動座當時在陣衆着到」及び明応元(一四九二)年頃の成立と考えられる「東山殿時代大名外様附」に現れる宮弥太郎が豊盛の子孫と考えられる。理由は、明応七年以降の発給と推測される「下津屋信秀他廿九名連署書状」(⑥)に、四番衆として宮弥太郎貞盛と見えて、「盛」を通字とする宮三河守家の惣領と考えられるからである。

宮氏の惣領である下野守家、それに次ぐ有力庶子家・上野介家は、満盛、教元、政盛、満信、教信、政信のように足利将軍家の偏諱を受けて名乗りとしている。これに対して、上野介家の庶子家である三河守家は、豊盛、貞盛のように室町幕府の有力な守護家や奉行衆の家系から偏諱を受けたと推測される。豊盛は備後守護・山名持豊(宗全)から偏諱を受け、貞盛は幕府政所執事・伊勢貞宗の偏諱を受けたと推測される。同時代に現れる宮備中守、即ち宮氏兼の子孫は伊勢貞誠の鞍作りの弟子となっている(⑦)。また、宮上野介家惣領として宮政信の跡を相続した宮貞兼は、政所執事として権勢をふるった伊勢貞親の偏諱を受けたと推測される(⑧)。このように、宮上野介家は幕府の権威を安定的に利用するため、将軍家だけでなく、幕府を支えた有力な家系への目配りも怠りなかったことが分る。

以上から宮三河守家は、宮上野介家の有力な庶子家であり、仮名として「○太郎」(○には弥、又等の字が入る)、官途として「式部丞」、受領として「三河守」を称する家系であったことが分る。

この家系の所領については、「康正二年造内裏段銭并国役引付」に「備後国段銭」とあるだけで、具体的な地名は不明である。宮上野介家は、安那郡中条の遍照寺山城を本拠としていることから、備後中部から南部に所領を持っていたのではと推測される。ここで、一つヒントになるのが、豊盛に偏諱を与えた備後守護山名氏との関係である。山名氏の備後に於ける所領を示す史料が『建内記』嘉吉元(一四四一)年十二月廿五日の条に残されている。それによれば、備後府中の国衙領は山名氏惣領家の所領であり、安那郡の国衙領は山名氏の庶子家・石見守護家の所領であったことが分る。府中・安那郡の国衙領支配を通じて、山名氏と宮上野介家の関係が形成されたと推測される。この関係は、永正(一五〇四~二一)年間以降になるとさらに顕著になり、山名氏が宮上野介家を備後南部における軍事指揮官として活用し、「宮上州・杉原又太郎方被仰合、急度一途候様御武略可為本望候、」という表現を用いた書状が山名氏から発給されるようになる(⑨)。

宮三河守家の家系を考えることで、戦国期に於ける宮上野介の動向を考えてきた。宮氏には宮氏兼の系統である備中守家、将軍家走衆として現れる遠江守家等、多くの庶子家が存在する。機会をみて室町期の宮氏の系譜を体系的に捉えてみたいと考えている。

【補注】
①室町時代中期以降、有力な武士の家系に於いては、惣領の仮名、官途、受領が固定化する傾向が顕著となる。宮上野介家は、仮名として「○次郎」(○には弥、又等の字が入る)、官途として「次郎左衛門尉」、惣領職相続前の嫡子は受領「若狭守」を名乗り、惣領職相続後に極官である「上野介」を名乗っている。
②「東寺光明講過去帳」(『群書類従 第三十三輯下』所収)に「宮下野入道」とあるのは、「宮上野入道」の誤りである。
③大日本史料総合データベース・長禄二年七月廿五日の項。「報恩院文書」参照。(大日本史料未刊行分)
④『群書類従 第二十九輯』所収
⑤盛廣と豊盛は、同じ奉公衆四番に属し、実名に「盛」の字を用い、同じ官途・式部丞を名乗っている。
⑥羽田聡「足利義材の西国廻りと吉見氏」(『学叢』25号所収、京都国立博物館 )。この書状は明応の政変の際、足利義材に供奉して都落ちした奉公衆四番の連署書状であり、宮上野介家、四番衆杉原氏の興味深い実名が確認できる貴重な史料である。
⑦『続群書類従 第二十四輯上』所収
⑧従来は「常徳院御動座當時在陣衆着到」(『群書類従 第二十九輯』所収)の記述を根拠として「宮若狭守宗兼」とされてきたが、補注⑥の書状に「宮若狭守貞兼」と署名しており、貞兼が正しい。
⑨(永正四年カ)十一月三日付け平賀弘保宛「太田垣胤朝書状」(『平賀家文書』一五四号)

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/b18d207667c58972385a60afa14c1db4.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/b18d207667c58972385a60afa14c1db4-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:183号」より 木下 和司 宮氏には惣領と考えられる宮下野守家、有力庶子である宮上野介家の他にも、多くの庶子家があったと考えられている。今回は、宮氏の研究であまり触れられたことのない宮三河守家について考えてみたい。三河守家とは家系の極官として、受領・三河守を称する家系のことを意味している(①)。宮三河守家は、奉公衆・四番に属した宮上野介家の庶子家であるが、少し特異な家系のように思われる。 宮三河守家で最初に史料上で確認できる人物は、盛廣である。応永十九(一四一二)年、足利義満の石清水八幡宮参詣の衛府侍として宮次郎左衛門尉満信と共に、宮式部丞盛廣として現れる。満信は応永六年に丹波で討死した宮氏信の嫡子であり(②)、この時、宮上野介家の惣領である。盛廣は実名の上の字に「盛」を戴くことから、宮下野守家の庶子家と考えられがちであるが、これは誤りである。盛廣が宮上野家の庶子家と考えられる根拠は、後述する。 宮盛廣は、「花営三代記」応永廿八年十一月十三日の条に宮下野守満重、宮上野介満信と共に宮三河守として現れる。この史料では三河守の実名は書かれていない。しかし、永享二(一四三〇)年七月廿五日、足利義教大将拝賀の儀に供奉した帯刀に宮三河守盛廣と見えて(③)、三河守の実名が盛廣であることが分る。この時の衛府侍は宮備中守氏兼、宮下野守元盛である。また、文安年間(一四四四~九)の成立と考えられる「文安年中御番帳」には、四番衆に宮三河入道と見えて、盛廣が出家したことが分る(④)。これにより盛廣の家系は、宮上野介家の庶子家と考えられる。また、「文安年中御番帳」と同時期ものもとされる『蜷川家文書』所収の「番衆交名」(以下、「蜷川番帳」と称す)には、四番衆に盛廣と共に、宮式部少輔(丞)と見えて、盛廣の子息と考えられる(⑤)。 「蜷川番帳」に現れる宮式部丞は、長禄二(一四五八)年七月廿五日の足利義政の内大臣拝賀の儀に衛府侍・宮式部丞豊盛と見えて、実名が豊盛と知れる。また、「康正二(一四五六)年造内裏段銭并国役引付」に備後国段銭として五貫文を納めている宮式部丞は豊盛を指している。 応仁・文明の乱期の宮三河守家の動向は不明であるが、長禄年間になると豊盛の子孫と思われる人物が史料上に現れて来る。長享元(一四八七)年「常徳院御動座當時在陣衆着到」及び明応元(一四九二)年頃の成立と考えられる「東山殿時代大名外様附」に現れる宮弥太郎が豊盛の子孫と考えられる。理由は、明応七年以降の発給と推測される「下津屋信秀他廿九名連署書状」(⑥)に、四番衆として宮弥太郎貞盛と見えて、「盛」を通字とする宮三河守家の惣領と考えられるからである。 宮氏の惣領である下野守家、それに次ぐ有力庶子家・上野介家は、満盛、教元、政盛、満信、教信、政信のように足利将軍家の偏諱を受けて名乗りとしている。これに対して、上野介家の庶子家である三河守家は、豊盛、貞盛のように室町幕府の有力な守護家や奉行衆の家系から偏諱を受けたと推測される。豊盛は備後守護・山名持豊(宗全)から偏諱を受け、貞盛は幕府政所執事・伊勢貞宗の偏諱を受けたと推測される。同時代に現れる宮備中守、即ち宮氏兼の子孫は伊勢貞誠の鞍作りの弟子となっている(⑦)。また、宮上野介家惣領として宮政信の跡を相続した宮貞兼は、政所執事として権勢をふるった伊勢貞親の偏諱を受けたと推測される(⑧)。このように、宮上野介家は幕府の権威を安定的に利用するため、将軍家だけでなく、幕府を支えた有力な家系への目配りも怠りなかったことが分る。 以上から宮三河守家は、宮上野介家の有力な庶子家であり、仮名として「○太郎」(○には弥、又等の字が入る)、官途として「式部丞」、受領として「三河守」を称する家系であったことが分る。 この家系の所領については、「康正二年造内裏段銭并国役引付」に「備後国段銭」とあるだけで、具体的な地名は不明である。宮上野介家は、安那郡中条の遍照寺山城を本拠としていることから、備後中部から南部に所領を持っていたのではと推測される。ここで、一つヒントになるのが、豊盛に偏諱を与えた備後守護山名氏との関係である。山名氏の備後に於ける所領を示す史料が『建内記』嘉吉元(一四四一)年十二月廿五日の条に残されている。それによれば、備後府中の国衙領は山名氏惣領家の所領であり、安那郡の国衙領は山名氏の庶子家・石見守護家の所領であったことが分る。府中・安那郡の国衙領支配を通じて、山名氏と宮上野介家の関係が形成されたと推測される。この関係は、永正(一五〇四~二一)年間以降になるとさらに顕著になり、山名氏が宮上野介家を備後南部における軍事指揮官として活用し、「宮上州・杉原又太郎方被仰合、急度一途候様御武略可為本望候、」という表現を用いた書状が山名氏から発給されるようになる(⑨)。 宮三河守家の家系を考えることで、戦国期に於ける宮上野介の動向を考えてきた。宮氏には宮氏兼の系統である備中守家、将軍家走衆として現れる遠江守家等、多くの庶子家が存在する。機会をみて室町期の宮氏の系譜を体系的に捉えてみたいと考えている。 【補注】 ①室町時代中期以降、有力な武士の家系に於いては、惣領の仮名、官途、受領が固定化する傾向が顕著となる。宮上野介家は、仮名として「○次郎」(○には弥、又等の字が入る)、官途として「次郎左衛門尉」、惣領職相続前の嫡子は受領「若狭守」を名乗り、惣領職相続後に極官である「上野介」を名乗っている。 ②「東寺光明講過去帳」(『群書類従 第三十三輯下』所収)に「宮下野入道」とあるのは、「宮上野入道」の誤りである。 ③大日本史料総合データベース・長禄二年七月廿五日の項。「報恩院文書」参照。(大日本史料未刊行分) ④『群書類従 第二十九輯』所収 ⑤盛廣と豊盛は、同じ奉公衆四番に属し、実名に「盛」の字を用い、同じ官途・式部丞を名乗っている。 ⑥羽田聡「足利義材の西国廻りと吉見氏」(『学叢』25号所収、京都国立博物館 )。この書状は明応の政変の際、足利義材に供奉して都落ちした奉公衆四番の連署書状であり、宮上野介家、四番衆杉原氏の興味深い実名が確認できる貴重な史料である。 ⑦『続群書類従 第二十四輯上』所収 ⑧従来は「常徳院御動座當時在陣衆着到」(『群書類従 第二十九輯』所収)の記述を根拠として「宮若狭守宗兼」とされてきたが、補注⑥の書状に「宮若狭守貞兼」と署名しており、貞兼が正しい。 ⑨(永正四年カ)十一月三日付け平賀弘保宛「太田垣胤朝書状」(『平賀家文書』一五四号)備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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