「備陽史探訪:177号」より
木下 和司
備後の名族である宮氏には、下野守家と上野介家という二つの有力な家系があったことは良く知られている。両家は、室町幕府からほぼ独立した家系として扱われているが、下野守家が惣領家、上野介家が有力庶子家と考えられる。宮氏は幕府奉公衆であったために、「室町幕府御番帳」と呼ばれる史料に、多くの人名が残されていて、下野守家、上野介家共に、多くの庶子家を持っていたことが分る。本稿では、これまであまり注目されてこなかった宮下野守家、宮上野介家の庶子家について整理してみたい。
まず、宮下野守家の庶子家について考えてみたい。下野守家は、南北朝時代に南朝方としての活躍が見られる宮盛重の子孫であり、恐らく宮氏の惣領家であった家系である。宮下野守家の有力庶子家として史料上で確認されるのは、受領名として遠江守を極官とする宮遠江守家である。永享九(一四三七)年の後花園天皇の室町第行幸に関する記録に、帯刀・宮下野守元盛ともに、布衣として現れる宮又五郎盛長がこの家系に属している(①)。盛長は、永享十年、足利義教の石清水八幡宮参詣に帯刀として供奉しており、この時には五郎左衛門尉盛長と名乗っている(②)。盛長の活動は、康正二(一四五六)年頃まで確認される(③)。
盛長に続いて、この家系で史料上に現れるのは、長享元(一四八七)年の足利義尚の近江出陣に参陣した宮五郎左衛門尉盛秀である(④)。延徳二(一四九〇)年になると足利義材の供奉をした走衆に宮遠江守盛秀が認められ、盛秀が遠江守に任官していたことが分る。これにより、この家系の極官が受領・遠江守であったことが確認される。盛秀に続いて確認される人物は、明応四(一四九五)年に、幕府御料所志摩利庄の押領者として現れる宮遠江又五郎である(⑤)。以上から、この家系は仮名として○五郎、官途として五郎左衛門尉、受領として遠江守を名乗ったと推測される。
次に下野守家の庶子家と考えられるのは、仮名として○三郎、官途として中務丞を名乗る家系である。この家系で最初に史料上に現れるのは、永和元(一三七五)年、足利義満の石清水八幡宮参詣に供奉した近習として宮三郎が認められる(⑥)。次に、この宮三郎の後継者と考えられるのが、応永三十(一四二三)年に足利義持に太刀を進上した奉公衆の一人として現れる宮三郎である(⑦)。更に享徳元(一四五二)年の御的始めの射手として現れる宮下野三郎が、この系統の人物と考えられる(⑧)。宮三郎は翌年の御的始めの射手も務めており、この時には中務丞の官途を帯びている(⑨)。宮中務丞の活躍は寛正六(一四六六)年頃まで確認される(⑩)。次に、この家系に属する人物で史料上に確認されるのは、文明七(一四七五)年、沼田小早川氏の居城・高山城の開城に際して同族。宮若狭守政信と共に、備後国衆を代表して開城の交渉を主導した宮五三郎盛忠である。文明三、四年頃、山名是豊の猛攻を受けて宮下野守教元を初めとした一族の有力者が柏村で切腹したために(⑪)、下野守家の一族で生き残った盛忠が下野守家を代表したと推測される。残念ながらこの家系に属する人物の実名は、盛忠以外には確認されない。
以上をまとめると、宮下野守家には、遠江守を極官とする有力な庶子家と官途として中務丞を名乗る庶子家があったことが分る。
宮上野介家の庶子家としては、宮備中守家と宮三河守家の二つの家系が確認される。宮備中守家は、宮下野守兼信の孫。次郎左衛門尉氏兼から始まる家系である。氏兼は、兄にあたる次郎左衛門尉満信とは別家を立ており、応永十五年、満信が氏兼の所領を押領していると訴えている(⑫)。兄・満信は応永二十六年に受領。上野介に任官する。これに対して氏兼は応永三十年に受領・備中守に任官している(⑬)。この家系に関しては、官途として次郎右衛門尉を名乗ることから、仮名として○次郎を名乗ったと推測される。すると「康正二年造内裏段銭并国役引付」に認められる宮彦次郎が備中守家に属した人物と推測される。寛正二(一四六二)年の御的始め射手として現れる宮備中守は、宮彦次郎の父と推測される。明応七(一四九八)年から永正七(一五一〇)年頃のものと推測される「下津屋信秀他廿九名連署書状」に現れる宮彦次郎親孝もこの家系に属している(⑭)。また、永正十二年、足利義材の条御所移徒に供奉した宮備中守もこの家系に属したと推測される(⑮)。天文十年、宮下野守家の断絶を幕府に報告して、その跡職を相続しようとしたのは宮彦次郎であり、備中守家が下野守家を相続しようとしたものと推測される。
宮三河守家は、仮名として○太郎を名乗り、官途として式部丞を、受領として三河守を名乗ったと推測される。三河守家で最初に史料上に現れるのは、宮式部丞盛広である。盛広は応永十九年の足利義満の八幡宮参詣に衛府侍として供奉している。盛広は、応永廿六年には、太郎右衛門尉に任官している(⑯)。盛広の官途名から考えて、この家系の仮名は○太郎であったと推測される。更に、永享二年の足利義教の大将拝賀の儀に帯刀として供奉していて、この時に三河守に任官している(⑰)。盛広の活躍は文安年間(一四四四~九)頃まで確認される。盛広の後継者は、文安年中の奉公衆の全貌を示している「蜷川番帳」の奉公衆四番に宮三河入道盛広と共に現れる宮式部少輔である(⑱)。宮式部少輔の活躍は、寛正年間(一四六〇~六)頃に成立したと推測される「久下番帳」でも確認される。
次に、長享元(一四八七)年の足利義尚の近江出陣に参陣した奉公衆四番・宮弥太郎も仮名から考えてこの家系に属したと考えられる。前述の「下津屋信秀他十九名連署書状」によれば、弥太郎の実名は貞盛と知れる。三河守家の通字が「盛」であることにより、下野守家の庶子家とみられがちであるが、三河守家は奉公衆四番に属していることから上野介家の有力庶子家と推測される。
以上、南北朝から戦国期までの宮下野守家と宮上野介家の庶子家に関して、一次史料をベースとして述べてきた。しかしながら、以上に述べてきた家系の他に、宮下野守家の庶子家としては、宮高氏、宮高尾氏代が認められ、宮上野介家の庶子家としては宮豊松氏が認められる(⑲)。また、戦国時代の後半に台頭してくる久代宮氏や有地宮氏、宮法成寺氏、については、その系譜を明確にする史料に欠けており、今後の研究課題としたい。
【補注】
- ①永享九年十月廿一日行幸記 (『群書類従』四〇)
- ②八幡社参記 永享十年八月十五日 (『続群書類従』二七)
- ③「康正二年造内裏段銭并国役引付」 (『群書類従』五〇一)
- ④「常徳院御動座當時在陣衆着到」 (『群書類従』五一一)
- ⑤明応四年十二月廿九日付け「室町幕府奉行人連署奉書」 (前田家所蔵文書)
- ⑥『花営三代記』永和元年三月廿七日 (『群書類従』四五九)
- ⑦花営三代記』応永三十年四月十七日 (『群書類従』四五九)
- ③「御的日記」享徳元年正月十七日 (『続群書類従』六六七)
- ⑨「御的日記」享徳二年正月十七日 (『続群書類従』六六七)
- ⑩小早川備後守・宮中務丞宛「伊勢貞親奉書写」 (『小早川家文書』)
- ⑪「渡辺氏先祖覚書」 (『山城志』第七集)
- ⑫応永十五年十月十三日付「足利義持御教書」 (『山内家文書』)
- ⑬「御的日記」応永三十年正月十七日 (『続群書類従』六六七)
- ⑭羽田 聡氏「足利義材の西国廻りと吉見氏」 (『京都国立博物館学叢』25号、2003年)
- ⑮永正十二年十二月二日付「足利義植三条御所移徒次第」 (『益田家文書』)
- ⑯「入道少納言良賢真人記」応永廿六年八月十五日の条 (『石清水八幡宮叢書』)
- ⑰東大史料編纂所データベース
- ⑱『山内家文書』一七七号 『長福寺文書の研究』一〇九九号、及び一一〇三号
- ⑲「田総時里目安状案」(『田総家文書』)
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木下 和司 備後の名族である宮氏には、下野守家と上野介家という二つの有力な家系があったことは良く知られている。両家は、室町幕府からほぼ独立した家系として扱われているが、下野守家が惣領家、上野介家が有力庶子家と考えられる。宮氏は幕府奉公衆であったために、「室町幕府御番帳」と呼ばれる史料に、多くの人名が残されていて、下野守家、上野介家共に、多くの庶子家を持っていたことが分る。本稿では、これまであまり注目されてこなかった宮下野守家、宮上野介家の庶子家について整理してみたい。 まず、宮下野守家の庶子家について考えてみたい。下野守家は、南北朝時代に南朝方としての活躍が見られる宮盛重の子孫であり、恐らく宮氏の惣領家であった家系である。宮下野守家の有力庶子家として史料上で確認されるのは、受領名として遠江守を極官とする宮遠江守家である。永享九(一四三七)年の後花園天皇の室町第行幸に関する記録に、帯刀・宮下野守元盛ともに、布衣として現れる宮又五郎盛長がこの家系に属している(①)。盛長は、永享十年、足利義教の石清水八幡宮参詣に帯刀として供奉しており、この時には五郎左衛門尉盛長と名乗っている(②)。盛長の活動は、康正二(一四五六)年頃まで確認される(③)。 盛長に続いて、この家系で史料上に現れるのは、長享元(一四八七)年の足利義尚の近江出陣に参陣した宮五郎左衛門尉盛秀である(④)。延徳二(一四九〇)年になると足利義材の供奉をした走衆に宮遠江守盛秀が認められ、盛秀が遠江守に任官していたことが分る。これにより、この家系の極官が受領・遠江守であったことが確認される。盛秀に続いて確認される人物は、明応四(一四九五)年に、幕府御料所志摩利庄の押領者として現れる宮遠江又五郎である(⑤)。以上から、この家系は仮名として○五郎、官途として五郎左衛門尉、受領として遠江守を名乗ったと推測される。 次に下野守家の庶子家と考えられるのは、仮名として○三郎、官途として中務丞を名乗る家系である。この家系で最初に史料上に現れるのは、永和元(一三七五)年、足利義満の石清水八幡宮参詣に供奉した近習として宮三郎が認められる(⑥)。次に、この宮三郎の後継者と考えられるのが、応永三十(一四二三)年に足利義持に太刀を進上した奉公衆の一人として現れる宮三郎である(⑦)。更に享徳元(一四五二)年の御的始めの射手として現れる宮下野三郎が、この系統の人物と考えられる(⑧)。宮三郎は翌年の御的始めの射手も務めており、この時には中務丞の官途を帯びている(⑨)。宮中務丞の活躍は寛正六(一四六六)年頃まで確認される(⑩)。次に、この家系に属する人物で史料上に確認されるのは、文明七(一四七五)年、沼田小早川氏の居城・高山城の開城に際して同族。宮若狭守政信と共に、備後国衆を代表して開城の交渉を主導した宮五三郎盛忠である。文明三、四年頃、山名是豊の猛攻を受けて宮下野守教元を初めとした一族の有力者が柏村で切腹したために(⑪)、下野守家の一族で生き残った盛忠が下野守家を代表したと推測される。残念ながらこの家系に属する人物の実名は、盛忠以外には確認されない。 以上をまとめると、宮下野守家には、遠江守を極官とする有力な庶子家と官途として中務丞を名乗る庶子家があったことが分る。 宮上野介家の庶子家としては、宮備中守家と宮三河守家の二つの家系が確認される。宮備中守家は、宮下野守兼信の孫。次郎左衛門尉氏兼から始まる家系である。氏兼は、兄にあたる次郎左衛門尉満信とは別家を立ており、応永十五年、満信が氏兼の所領を押領していると訴えている(⑫)。兄・満信は応永二十六年に受領。上野介に任官する。これに対して氏兼は応永三十年に受領・備中守に任官している(⑬)。この家系に関しては、官途として次郎右衛門尉を名乗ることから、仮名として○次郎を名乗ったと推測される。すると「康正二年造内裏段銭并国役引付」に認められる宮彦次郎が備中守家に属した人物と推測される。寛正二(一四六二)年の御的始め射手として現れる宮備中守は、宮彦次郎の父と推測される。明応七(一四九八)年から永正七(一五一〇)年頃のものと推測される「下津屋信秀他廿九名連署書状」に現れる宮彦次郎親孝もこの家系に属している(⑭)。また、永正十二年、足利義材の条御所移徒に供奉した宮備中守もこの家系に属したと推測される(⑮)。天文十年、宮下野守家の断絶を幕府に報告して、その跡職を相続しようとしたのは宮彦次郎であり、備中守家が下野守家を相続しようとしたものと推測される。 宮三河守家は、仮名として○太郎を名乗り、官途として式部丞を、受領として三河守を名乗ったと推測される。三河守家で最初に史料上に現れるのは、宮式部丞盛広である。盛広は応永十九年の足利義満の八幡宮参詣に衛府侍として供奉している。盛広は、応永廿六年には、太郎右衛門尉に任官している(⑯)。盛広の官途名から考えて、この家系の仮名は○太郎であったと推測される。更に、永享二年の足利義教の大将拝賀の儀に帯刀として供奉していて、この時に三河守に任官している(⑰)。盛広の活躍は文安年間(一四四四~九)頃まで確認される。盛広の後継者は、文安年中の奉公衆の全貌を示している「蜷川番帳」の奉公衆四番に宮三河入道盛広と共に現れる宮式部少輔である(⑱)。宮式部少輔の活躍は、寛正年間(一四六〇~六)頃に成立したと推測される「久下番帳」でも確認される。 次に、長享元(一四八七)年の足利義尚の近江出陣に参陣した奉公衆四番・宮弥太郎も仮名から考えてこの家系に属したと考えられる。前述の「下津屋信秀他十九名連署書状」によれば、弥太郎の実名は貞盛と知れる。三河守家の通字が「盛」であることにより、下野守家の庶子家とみられがちであるが、三河守家は奉公衆四番に属していることから上野介家の有力庶子家と推測される。 以上、南北朝から戦国期までの宮下野守家と宮上野介家の庶子家に関して、一次史料をベースとして述べてきた。しかしながら、以上に述べてきた家系の他に、宮下野守家の庶子家としては、宮高氏、宮高尾氏代が認められ、宮上野介家の庶子家としては宮豊松氏が認められる(⑲)。また、戦国時代の後半に台頭してくる久代宮氏や有地宮氏、宮法成寺氏、については、その系譜を明確にする史料に欠けており、今後の研究課題としたい。 【補注】 ①永享九年十月廿一日行幸記 (『群書類従』四〇)
②八幡社参記 永享十年八月十五日 (『続群書類従』二七)
③「康正二年造内裏段銭并国役引付」 (『群書類従』五〇一)
④「常徳院御動座當時在陣衆着到」 (『群書類従』五一一)
⑤明応四年十二月廿九日付け「室町幕府奉行人連署奉書」 (前田家所蔵文書)
⑥『花営三代記』永和元年三月廿七日 (『群書類従』四五九)
⑦花営三代記』応永三十年四月十七日 (『群書類従』四五九)
③「御的日記」享徳元年正月十七日 (『続群書類従』六六七)
⑨「御的日記」享徳二年正月十七日 (『続群書類従』六六七)
⑩小早川備後守・宮中務丞宛「伊勢貞親奉書写」 (『小早川家文書』)
⑪「渡辺氏先祖覚書」 (『山城志』第七集)
⑫応永十五年十月十三日付「足利義持御教書」 (『山内家文書』)
⑬「御的日記」応永三十年正月十七日 (『続群書類従』六六七)
⑭羽田 聡氏「足利義材の西国廻りと吉見氏」 (『京都国立博物館学叢』25号、2003年)
⑮永正十二年十二月二日付「足利義植三条御所移徒次第」 (『益田家文書』)
⑯「入道少納言良賢真人記」応永廿六年八月十五日の条 (『石清水八幡宮叢書』)
⑰東大史料編纂所データベース
⑱『山内家文書』一七七号 『長福寺文書の研究』一〇九九号、及び一一〇三号
⑲「田総時里目安状案」(『田総家文書』)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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