「備陽史探訪:170号」より
木下 和司
明応年間(一四九二~一五〇一)から永正年間(一五〇四~一五二一)にかけて備後関係の史料を調べていると、杉原下総守という人物の名を目にすることがある。しかし、この人物の実名を記載した史料は紹介されておらず、杉原一族の中での位置づけも不明確なままであった。今回、『尊経閣古文書纂』に残る「吉見文書」の中に、杉原下総守の実名が「盛平」であることを示す史料を見付けることが出来た(a)。これにより、従来は不明であった杉原下総守と高須杉原氏の関係を明確化することが出来るようになった。本稿では、杉原下総守を惣領とする家系を「杉原下総守家」と呼び、この家系と高須杉原氏の関係を考えてみたい。
杉原下総守に関係する史料を以下に示す。
- ①明応四年七月廿八日付「足利義材御判御教書写」(b)
- ②(明応五年ヵ)八月十九日付「大和政宗書状写」(c)
- ③(永正三年ヵ)十一月一日付「九郎書状写」(d)
- ④(年欠)八月十七日付「下津屋信秀他廿九名連署書状」(e)
史料④の差出所の一人に「杉原下総守盛平(花押)」とあることから、杉原下総守の実名は、「盛平」と知れる。史料④の発給年次は、明応七年から永正七年の間と推測されている(f)。杉原下総守の実名が「盛平」であることから、従来は下総守と無関係と考えられていた以下の史料が、「下総守家」と関係を持つことになる。
- ⑤「康正二年造内裏段銭并国役引付」(g)
- ⑥『蜷川親元日記』文明十三年三月十七日の条(h)
- ⑦「長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座當時在陣衆着到」(i)
- ⑧(寛正三年)十二月廿四日付「山名是豊書状」(j)
- ⑨文明十二年十一月十四日付「太田垣美作守書状」(k)
本稿では、以上の九点の史料と、他の関連史料を用いて、杉原下総守盛平と高須杉原氏の関係を明らかにしてみたい。
まず、史料⑤によれば、「備後国三原浦高須□分」の段銭を納めているのは、杉原千代松丸である。つまり、備後国三原浦と高須社の支配者は、杉原千代松であったことになる。従来、ここに現れる杉原千代松は、高須杉原氏であると考えられていた。しかし、明応年間から永正年間に現れる杉原下総守の実名が「盛平」であることによって、千代松は高須杉原氏ではなく、「杉原下総守家」に属する人物であると考えられることになる。以下にこのことを論証する。
史料⑥・⑦によって盛平の官途は「太郎左衛門尉」であることが分り、史料①によって明応四年には「下総守」の受領を受けていることが分る。また、史料③には「備後國木梨庄杉原下総守知行分三原之事」とあることから、杉原盛平が「備後国三原浦」の領主であったことが確認される。また、史料②は、杉原氏と同族であった大和政宗が杉原盛平に宛てた書状であるが、「三原」について「御領中事候間」と表現されており、「三原」が盛平の所領であったことが確認される。つまり、康正二(一四五六)年に三原浦と高須社の造内裏段銭を納めた杉原千代松は、高須杉原氏ではなく、「杉原下総守家」に属していたことになる。では、高須杉原氏と「杉原下総守家」の関係は、如何なるものであったのだろうか。その関係を示すのが、史料⑧・⑨である。
史料⑧の発給年次は推定が非常に難しいが、寛正二(一四六一)年か同三年のものと推測される(l)。史料の全文を以下に示す。
●史料③「山名是豊書状」
為千代松殿御名代、従最前被令出陣、極在陣中連々御粉骨、誠異于他覚候、并千代松殿御忠節候、毎々雖致注進候、愚身参洛事候間、弥具可達上聞候、仍其御事直可有御帰国候由承候、心得申候、然ハ千代松殿御事、早速上洛可目出候、恐々謹言、 (山名)
十二月廿四日 是豊 判
(元忠)
高須駿河守殿
【読下し】
千代松殿の御名代として、最前より出陣せしめられ、極めて在陣中、連々御粉骨、誠に他に異なり覚え候、併せて千代松殿の御忠節候、毎々注進致し候と雖も、愚身参洛事候間、いよいよ詳しく上聞に達すべく候、仍って其御事、直ちに御帰国有るべく候由承り候、心得申し候、然らば千代松殿御事、早速に上洛目出かるべく候、恐々謹言、
この書状に現れる千代松は年代から考えて、史料⑤に現れた千代松と同一人物と考えられ、「備後国三原浦」と「高須社」の支配者と推定される。また、この書状は、寛正二年から同四年にかけて行われた河内国嶽山城での合戦に関係して、山名是豊が高須駿河守元忠に宛てたものである。ここでポイントになるのは、高須元忠が、山名是豊から「千代松殿の御名代」と認識されていることである。「御名代」とは下位のものが上位者の代理を務めることであるから、高須元忠は杉原千代松の下位に位置したことになる。杉原千代松は、「杉原下総守家」に属しているから、「高須杉原氏」は「杉原下総守家」の庶家にあたっていたと推測される。
また、この推測を補強するのが、史料⑨である。以下に全文を示す。
●史料⑨「太田垣美作守書状」
(上紙ニ有之)
太田垣美作守
杉原中務丞殿 御宿所
就御身上之儀、此間太郎左衛門尉殿へ申上候儀御心得被分候ハ々無為儀目出候、殊高須三ヶ村事候間、駿河守殿御一期己後者貴所へ可有相談由、如此駿河殿以書状承候間可然候、彼御状肝要儀候間進之候、恐々謹言、
文明十二年
十一月廿四日 (花押)
(盛忠)
杉原中務丞殿
【読下し】
御身上の儀について、此間太郎左衛門尉殿に申上げ候儀、御心得分けられ候ば、無為の儀目出度く候、殊さらに高須三ヶ村事候間、駿河守殿御一期以後は貴所へ相談あるべく由、此如く駿河殿、書状以て承り候間然べく候、彼の御状肝要儀候の間、之を進め候、恐々謹言、
この書状は、備後守護代であった太田垣美作守が高須元忠から盛忠ヘの所領相続について、盛忠に宛てて発給したものである。書状の大意は、元忠の所領である高須三ヶ村を盛忠に譲ることについて、「太郎左衛門尉」に相談して了解を得たというものである。ここに現れる太郎左衛門尉は、高須杉原氏と同族と考えられるから、「杉原太郎左衛門尉」と考えられる。文明十二(一四八〇)年頃、杉原氏で「太郎左衛門尉」の官途を名乗っていたのは、史料⑥に現れる「杉原太郎左衛門尉盛平」であるから、史料⑨は高須三ヶ村の相続について、備後守護代が杉原盛平に相談をして了解を得たことになる。つまり、盛平は高須三ヶ村の相続権に関与できる権利を持っていたことになる。杉原盛平は、「杉原下総守家」の人物であるから、前述のように「高須杉原氏」が「杉原下総守家」の庶家であったことを示す根拠となっている。
もう一つ興味深いことは、史料③に見える「備後國木梨庄杉原下総守知行分三原之事、」という表現である。つまり、杉原盛平の知行している三原浦は、木梨庄に属していたことになる。木梨庄は南北朝期に現れる杉原信平の所領であるから、杉原下総守家は信平の系統に属した家と推測される。萩藩に残る「木梨平左衛門恒通家系図」によれば(m)、信平の子息である光信及び孫にあたる光盛の幼名及び官途は、共に「千代松丸」、「太郎左衛門尉」であることから、「杉原下総守家」が信平の直系であった可能性が考えられる(n)。史料⑥によれば、備後国に於ける杉原氏の所領の返付けを幕府に訴えた代表者が盛平であったことも、「杉原下総守家」が杉原氏の有力な家系であったことを示唆している。
杉原下総守家に関する史料は、永正年間以降になると認められなくなる。永正年間の動乱の中で、「杉原下総守家」は、滅んだものと推測される。「杉原下総守家」の所領については、木梨杉原氏が相続したものと考えられる。その根拠は大永六年霜月朔日付で、木梨陸恒・高恒が高須中務大夫に宛てた書状に、三原の所領の譲与が書かれており、「杉原下総守家」の遺領の相続について、木梨杉原氏と高須杉原氏の間で所領争いがあったものと推測される(o)。
杉原一族の戦国期における動静は、史料の残存が少なく、不明な点が多い。今後、更に詳しい史料調査を行って行きたいと考えている。
【補注】
- (a)羽田 聡氏「足利義材の西国廻りと吉見氏」(『京都国立博物館学叢』25号)
- (b)『小早川家文書之二』
- (c)「壬生家文書」(『県史 古代中世資料編Ⅴ』)
- (d)『小早川家文書之二』
- (e)補注(a)参照
- (f)補注(a)参照
- (g)『群書類従』 巻五百一
- (h)『県史 古代中世資料編Ⅰ』
- (i)『群書類従』 巻五百十一
- (j)『萩藩閥閲録』 巻六十七
- (k)『萩藩閥閲録遺漏』 巻四の二
- (l)応仁・文明の乱の前哨戦となる河内国嶽山城の合戦は、寛正二年二月頃に始まり、寛正四年四月の畠山義就の紀州への撤退で終る。同合戦について山名是豊関係史料は、『毛利家文書』・『小早川家文書」・『益田文書』に多くのこされている。是豊の参戦は寛正二年五月から寛正四年四月であるため、史料⑧の発給年次は、寛正二年か同三年と推測される。
- (m)『尾道市史』
- (n)萩藩に存続した杉原氏の末裔である「木梨平左衛門恒通家系図」・「椙原伊織定良家系図」(『尾道市史』所収)には不審な点が多い。
- (o)『萩藩閥閲録遺漏』 巻四の二
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木下 和司 明応年間(一四九二~一五〇一)から永正年間(一五〇四~一五二一)にかけて備後関係の史料を調べていると、杉原下総守という人物の名を目にすることがある。しかし、この人物の実名を記載した史料は紹介されておらず、杉原一族の中での位置づけも不明確なままであった。今回、『尊経閣古文書纂』に残る「吉見文書」の中に、杉原下総守の実名が「盛平」であることを示す史料を見付けることが出来た(a)。これにより、従来は不明であった杉原下総守と高須杉原氏の関係を明確化することが出来るようになった。本稿では、杉原下総守を惣領とする家系を「杉原下総守家」と呼び、この家系と高須杉原氏の関係を考えてみたい。 杉原下総守に関係する史料を以下に示す。 ①明応四年七月廿八日付「足利義材御判御教書写」(b)
②(明応五年ヵ)八月十九日付「大和政宗書状写」(c)
③(永正三年ヵ)十一月一日付「九郎書状写」(d)
④(年欠)八月十七日付「下津屋信秀他廿九名連署書状」(e) 史料④の差出所の一人に「杉原下総守盛平(花押)」とあることから、杉原下総守の実名は、「盛平」と知れる。史料④の発給年次は、明応七年から永正七年の間と推測されている(f)。杉原下総守の実名が「盛平」であることから、従来は下総守と無関係と考えられていた以下の史料が、「下総守家」と関係を持つことになる。 ⑤「康正二年造内裏段銭并国役引付」(g)
⑥『蜷川親元日記』文明十三年三月十七日の条(h)
⑦「長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座當時在陣衆着到」(i)
⑧(寛正三年)十二月廿四日付「山名是豊書状」(j)
⑨文明十二年十一月十四日付「太田垣美作守書状」(k) 本稿では、以上の九点の史料と、他の関連史料を用いて、杉原下総守盛平と高須杉原氏の関係を明らかにしてみたい。 まず、史料⑤によれば、「備後国三原浦高須□分」の段銭を納めているのは、杉原千代松丸である。つまり、備後国三原浦と高須社の支配者は、杉原千代松であったことになる。従来、ここに現れる杉原千代松は、高須杉原氏であると考えられていた。しかし、明応年間から永正年間に現れる杉原下総守の実名が「盛平」であることによって、千代松は高須杉原氏ではなく、「杉原下総守家」に属する人物であると考えられることになる。以下にこのことを論証する。 史料⑥・⑦によって盛平の官途は「太郎左衛門尉」であることが分り、史料①によって明応四年には「下総守」の受領を受けていることが分る。また、史料③には「備後國木梨庄杉原下総守知行分三原之事」とあることから、杉原盛平が「備後国三原浦」の領主であったことが確認される。また、史料②は、杉原氏と同族であった大和政宗が杉原盛平に宛てた書状であるが、「三原」について「御領中事候間」と表現されており、「三原」が盛平の所領であったことが確認される。つまり、康正二(一四五六)年に三原浦と高須社の造内裏段銭を納めた杉原千代松は、高須杉原氏ではなく、「杉原下総守家」に属していたことになる。では、高須杉原氏と「杉原下総守家」の関係は、如何なるものであったのだろうか。その関係を示すのが、史料⑧・⑨である。 史料⑧の発給年次は推定が非常に難しいが、寛正二(一四六一)年か同三年のものと推測される(l)。史料の全文を以下に示す。 ●史料③「山名是豊書状」
為千代松殿御名代、従最前被令出陣、極在陣中連々御粉骨、誠異于他覚候、并千代松殿御忠節候、毎々雖致注進候、愚身参洛事候間、弥具可達上聞候、仍其御事直可有御帰国候由承候、心得申候、然ハ千代松殿御事、早速上洛可目出候、恐々謹言、 (山名)
十二月廿四日 是豊 判
(元忠)
高須駿河守殿 【読下し】
千代松殿の御名代として、最前より出陣せしめられ、極めて在陣中、連々御粉骨、誠に他に異なり覚え候、併せて千代松殿の御忠節候、毎々注進致し候と雖も、愚身参洛事候間、いよいよ詳しく上聞に達すべく候、仍って其御事、直ちに御帰国有るべく候由承り候、心得申し候、然らば千代松殿御事、早速に上洛目出かるべく候、恐々謹言、 この書状に現れる千代松は年代から考えて、史料⑤に現れた千代松と同一人物と考えられ、「備後国三原浦」と「高須社」の支配者と推定される。また、この書状は、寛正二年から同四年にかけて行われた河内国嶽山城での合戦に関係して、山名是豊が高須駿河守元忠に宛てたものである。ここでポイントになるのは、高須元忠が、山名是豊から「千代松殿の御名代」と認識されていることである。「御名代」とは下位のものが上位者の代理を務めることであるから、高須元忠は杉原千代松の下位に位置したことになる。杉原千代松は、「杉原下総守家」に属しているから、「高須杉原氏」は「杉原下総守家」の庶家にあたっていたと推測される。 また、この推測を補強するのが、史料⑨である。以下に全文を示す。 ●史料⑨「太田垣美作守書状」
(上紙ニ有之)
太田垣美作守
杉原中務丞殿 御宿所
就御身上之儀、此間太郎左衛門尉殿へ申上候儀御心得被分候ハ々無為儀目出候、殊高須三ヶ村事候間、駿河守殿御一期己後者貴所へ可有相談由、如此駿河殿以書状承候間可然候、彼御状肝要儀候間進之候、恐々謹言、
文明十二年
十一月廿四日 (花押)
(盛忠)
杉原中務丞殿 【読下し】
御身上の儀について、此間太郎左衛門尉殿に申上げ候儀、御心得分けられ候ば、無為の儀目出度く候、殊さらに高須三ヶ村事候間、駿河守殿御一期以後は貴所へ相談あるべく由、此如く駿河殿、書状以て承り候間然べく候、彼の御状肝要儀候の間、之を進め候、恐々謹言、 この書状は、備後守護代であった太田垣美作守が高須元忠から盛忠ヘの所領相続について、盛忠に宛てて発給したものである。書状の大意は、元忠の所領である高須三ヶ村を盛忠に譲ることについて、「太郎左衛門尉」に相談して了解を得たというものである。ここに現れる太郎左衛門尉は、高須杉原氏と同族と考えられるから、「杉原太郎左衛門尉」と考えられる。文明十二(一四八〇)年頃、杉原氏で「太郎左衛門尉」の官途を名乗っていたのは、史料⑥に現れる「杉原太郎左衛門尉盛平」であるから、史料⑨は高須三ヶ村の相続について、備後守護代が杉原盛平に相談をして了解を得たことになる。つまり、盛平は高須三ヶ村の相続権に関与できる権利を持っていたことになる。杉原盛平は、「杉原下総守家」の人物であるから、前述のように「高須杉原氏」が「杉原下総守家」の庶家であったことを示す根拠となっている。 もう一つ興味深いことは、史料③に見える「備後國木梨庄杉原下総守知行分三原之事、」という表現である。つまり、杉原盛平の知行している三原浦は、木梨庄に属していたことになる。木梨庄は南北朝期に現れる杉原信平の所領であるから、杉原下総守家は信平の系統に属した家と推測される。萩藩に残る「木梨平左衛門恒通家系図」によれば(m)、信平の子息である光信及び孫にあたる光盛の幼名及び官途は、共に「千代松丸」、「太郎左衛門尉」であることから、「杉原下総守家」が信平の直系であった可能性が考えられる(n)。史料⑥によれば、備後国に於ける杉原氏の所領の返付けを幕府に訴えた代表者が盛平であったことも、「杉原下総守家」が杉原氏の有力な家系であったことを示唆している。 杉原下総守家に関する史料は、永正年間以降になると認められなくなる。永正年間の動乱の中で、「杉原下総守家」は、滅んだものと推測される。「杉原下総守家」の所領については、木梨杉原氏が相続したものと考えられる。その根拠は大永六年霜月朔日付で、木梨陸恒・高恒が高須中務大夫に宛てた書状に、三原の所領の譲与が書かれており、「杉原下総守家」の遺領の相続について、木梨杉原氏と高須杉原氏の間で所領争いがあったものと推測される(o)。 杉原一族の戦国期における動静は、史料の残存が少なく、不明な点が多い。今後、更に詳しい史料調査を行って行きたいと考えている。 【補注】 (a)羽田 聡氏「足利義材の西国廻りと吉見氏」(『京都国立博物館学叢』25号)
(b)『小早川家文書之二』
(c)「壬生家文書」(『県史 古代中世資料編Ⅴ』)
(d)『小早川家文書之二』
(e)補注(a)参照
(f)補注(a)参照
(g)『群書類従』 巻五百一
(h)『県史 古代中世資料編Ⅰ』
(i)『群書類従』 巻五百十一
(j)『萩藩閥閲録』 巻六十七
(k)『萩藩閥閲録遺漏』 巻四の二
(l)応仁・文明の乱の前哨戦となる河内国嶽山城の合戦は、寛正二年二月頃に始まり、寛正四年四月の畠山義就の紀州への撤退で終る。同合戦について山名是豊関係史料は、『毛利家文書』・『小早川家文書」・『益田文書』に多くのこされている。是豊の参戦は寛正二年五月から寛正四年四月であるため、史料⑧の発給年次は、寛正二年か同三年と推測される。
(m)『尾道市史』
(n)萩藩に存続した杉原氏の末裔である「木梨平左衛門恒通家系図」・「椙原伊織定良家系図」(『尾道市史』所収)には不審な点が多い。
(o)『萩藩閥閲録遺漏』 巻四の二管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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