久代宮氏の出自について(久代宮氏は上野介家か?)

備陽史探訪:68号」より

田口 義之

久代宮景盛の老臣山城守盛勝画像(比婆郡西城町浄久寺蔵)
久代宮景盛の老臣山城守盛勝画像
(比婆郡西城町浄久寺蔵)

戦国時代、現在の比婆郡東半に当たる旧奴可郡一帯を支配した有力豪族に、久代宮氏がいる。

県内有数の中世山城跡、西城大富山城、東城五品岳城の城主としても有名な同氏については、今まで主に『久代記』注(①)を材料にその叙述がなされてきた。同書は江戸初期の成立と言われ、同氏の研究にはなくてはならない文献である。しかし、その内容には問題点も多い。特に、戦国期に活曜した高盛以前の系譜には疑間がある。

『久代記』によると、久代宮氏は元大和国宇陀郡の武士で、初代宮弾正左衛門尉利吉が応永年間(一三九四~一四二八)、備後国奴可都久代(現比婆郡東城町久代)に配流されたことに始まり、以後景英・利成・息成・景行・景友と相続し、七代上総介高盛に至ったとある。ところが、宮氏は、備後生え抜きの国人衆であって、南北朝時代には既に旧奴可郡に勢力を伸ばし、久代には応永以前、宮氏の一族が土着していた形跡もある。つまり、同書によれば、久代宮氏は、同じ宮姓を冒しながらも、備後屈指の大豪族宮氏とは無関係、ということになるのである。

勿論、その可能性がない訳ではない。しかし、『備後古城記』の原本と推定される『水野記』所収の「御領分古城主」を見ても同氏の記載は「宮久代」とあって、他の宮一族の記載となんら変わるところがない。やはり、宮姓を冒すからには同じ一族と考えるのが妥当であろう。

また、高盛以前の六代に関しては、その実在を示す確実な文書・記録は一切残っていない。

『久代記』の高盛以前が信用できないとすれば、その出自を他の宮一族に求める必要がある。私はこれを室町期に幕府奉公衆として活躍した宮氏の一方の主流、「宮上野介家」に求めたい。その理由は、次の通りである。

まず、久代宮氏は戦国期、「源姓」を冒している注(②)が、宮一族の中で「源姓」を称したのは、宮上野介家の一門のみである(注⑨)。

また、戦国中期の天文年間(一五三二~五五)を境にして、旧奴可郡域の支配者は宮下野守家から久代宮氏に変わるが、『大館常興日記』天文十年(一五四一)八月四日の条によれば、それは下野守家の断絶と宮彦次郎によるその遺跡の「切取」という事態を受けてのことであった。そして、大内方として宮下野守家の所領を押領した「宮彦次郎」こそ久代宮氏に外ならない、と考えられるのである。宮彦次郎は室町期に幕府奉公衆に名を連ねた宮氏の一族で、仮名「彦次郎」は宮上野介の一門であることを示している(注④)。

以上のことは、『山内首藤家文書』二一六号山内隆通條書を検討すれば、よりはっきりする。同條書によれば、山内隆通は「宮家并東分小奴可」など久代宮氏の押領した地一切の領有を毛利氏に要求し、元就の承認を得ているが、隆通は久代宮氏の領有する「備中八鳥山之儀現(岡山県阿哲郡哲西町)」は要求しないといっている注(⑤)。これは『平賀家文書』年欠三月二三日付陶興房一書状に言う「備後両宮井并備中衆」が山内直通・大内氏の支援を得て「野部新城・八島両城切捕由」という出来事に対応すると考えられ、山内氏としては自己の承認した所領は要求しないと言うことである。つまり、この「両宮」こそ久代宮氏の先代に当たる訳で、「両宮」を宮上野介家の一門と考えて良い(注⑥)とすれば、前述の仮説が立証されるわけである。

(芸備地方史研究会一九九五年度大会発表要旨を加筆補正)

  • 注①一般本と伊藤本があり、ここでは一般本を採る。
  • 注②比婆郡西城町浄久寺蔵の『宮景盛寿像永(禄十年の銘あり)』によれば、景盛の祖父高盛は本来藤原姓にもかかわらず源姓を称したとあり、景盛の父興盛、その子智盛、一族と推定される親盛・尚盛にその徽証がある。
  • 注③『萩藩閥閲録』巻八十三有地右衛門書出に、宮上野介家の祖兼信の嫡子氏信は尊氏より「氏」字を頂戴し、一代限り「源姓」を称することを許されたとある。また、『応永度大嘗会関係文書』によれば、氏信の次男氏兼は、「源氏兼」として称光天皇の大一嘗会に奉仕している。
  • 注④『文安年中御番帳』(群書類従所収)に「四番宮彦次郎」、『康正二年造内裏段銭并国役引付』(同上)に「二貫文、宮彦次郎殿備後国三箇所段銭」とある。宮上野介と同じく四番衆に属していることと、同家と同じく「次郎」を仮名(満信の子息と推定される上野介教信の仮名は「又次郎」である。『永享九年行幸記』<群書類従所収>)としていることから、極めて近い家筋で、或いは上野介満信の弟である氏兼(『山内首藤家文書』八三号等)が彦次郎家の初祖と考えられる(注⑥参照)。
  • 注⑤「国郡志御用ニ付郡辻差出帳奴可郡」によれば、哲西町野部の四王寺は、天文三年(一五三三)、宮上総介盛親高(盛)同息兵庫助興盛の再興と伝え、また、『備中府志』によると、同地の西山城には天文年間、「久代弾正」が居城したと言う。
  • 注⑥宮上野介家の祖兼信の孫と推定される満信・氏兼(前述)は、各々次郎左衛門尉、次郎右衛門尉を称しており、両人の子孫が備後両宮と呼ばれた宮若狭守・同五二郎(『小早川家証文』二〇二号等)と考えられる注(④点)
https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/1a86d483764dec6e162dcb11ec421109.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/1a86d483764dec6e162dcb11ec421109-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:68号」より 田口 義之 (比婆郡西城町浄久寺蔵) 戦国時代、現在の比婆郡東半に当たる旧奴可郡一帯を支配した有力豪族に、久代宮氏がいる。 県内有数の中世山城跡、西城大富山城、東城五品岳城の城主としても有名な同氏については、今まで主に『久代記』注(①)を材料にその叙述がなされてきた。同書は江戸初期の成立と言われ、同氏の研究にはなくてはならない文献である。しかし、その内容には問題点も多い。特に、戦国期に活曜した高盛以前の系譜には疑間がある。 『久代記』によると、久代宮氏は元大和国宇陀郡の武士で、初代宮弾正左衛門尉利吉が応永年間(一三九四~一四二八)、備後国奴可都久代(現比婆郡東城町久代)に配流されたことに始まり、以後景英・利成・息成・景行・景友と相続し、七代上総介高盛に至ったとある。ところが、宮氏は、備後生え抜きの国人衆であって、南北朝時代には既に旧奴可郡に勢力を伸ばし、久代には応永以前、宮氏の一族が土着していた形跡もある。つまり、同書によれば、久代宮氏は、同じ宮姓を冒しながらも、備後屈指の大豪族宮氏とは無関係、ということになるのである。 勿論、その可能性がない訳ではない。しかし、『備後古城記』の原本と推定される『水野記』所収の「御領分古城主」を見ても同氏の記載は「宮久代」とあって、他の宮一族の記載となんら変わるところがない。やはり、宮姓を冒すからには同じ一族と考えるのが妥当であろう。 また、高盛以前の六代に関しては、その実在を示す確実な文書・記録は一切残っていない。 『久代記』の高盛以前が信用できないとすれば、その出自を他の宮一族に求める必要がある。私はこれを室町期に幕府奉公衆として活躍した宮氏の一方の主流、「宮上野介家」に求めたい。その理由は、次の通りである。 まず、久代宮氏は戦国期、「源姓」を冒している注(②)が、宮一族の中で「源姓」を称したのは、宮上野介家の一門のみである(注⑨)。 また、戦国中期の天文年間(一五三二~五五)を境にして、旧奴可郡域の支配者は宮下野守家から久代宮氏に変わるが、『大館常興日記』天文十年(一五四一)八月四日の条によれば、それは下野守家の断絶と宮彦次郎によるその遺跡の「切取」という事態を受けてのことであった。そして、大内方として宮下野守家の所領を押領した「宮彦次郎」こそ久代宮氏に外ならない、と考えられるのである。宮彦次郎は室町期に幕府奉公衆に名を連ねた宮氏の一族で、仮名「彦次郎」は宮上野介の一門であることを示している(注④)。 以上のことは、『山内首藤家文書』二一六号山内隆通條書を検討すれば、よりはっきりする。同條書によれば、山内隆通は「宮家并東分小奴可」など久代宮氏の押領した地一切の領有を毛利氏に要求し、元就の承認を得ているが、隆通は久代宮氏の領有する「備中八鳥山之儀現(岡山県阿哲郡哲西町)」は要求しないといっている注(⑤)。これは『平賀家文書』年欠三月二三日付陶興房一書状に言う「備後両宮井并備中衆」が山内直通・大内氏の支援を得て「野部新城・八島両城切捕由」という出来事に対応すると考えられ、山内氏としては自己の承認した所領は要求しないと言うことである。つまり、この「両宮」こそ久代宮氏の先代に当たる訳で、「両宮」を宮上野介家の一門と考えて良い(注⑥)とすれば、前述の仮説が立証されるわけである。 (芸備地方史研究会一九九五年度大会発表要旨を加筆補正) 注①一般本と伊藤本があり、ここでは一般本を採る。 注②比婆郡西城町浄久寺蔵の『宮景盛寿像永(禄十年の銘あり)』によれば、景盛の祖父高盛は本来藤原姓にもかかわらず源姓を称したとあり、景盛の父興盛、その子智盛、一族と推定される親盛・尚盛にその徽証がある。 注③『萩藩閥閲録』巻八十三有地右衛門書出に、宮上野介家の祖兼信の嫡子氏信は尊氏より「氏」字を頂戴し、一代限り「源姓」を称することを許されたとある。また、『応永度大嘗会関係文書』によれば、氏信の次男氏兼は、「源氏兼」として称光天皇の大一嘗会に奉仕している。 注④『文安年中御番帳』(群書類従所収)に「四番宮彦次郎」、『康正二年造内裏段銭并国役引付』(同上)に「二貫文、宮彦次郎殿備後国三箇所段銭」とある。宮上野介と同じく四番衆に属していることと、同家と同じく「次郎」を仮名(満信の子息と推定される上野介教信の仮名は「又次郎」である。『永享九年行幸記』<群書類従所収>)としていることから、極めて近い家筋で、或いは上野介満信の弟である氏兼(『山内首藤家文書』八三号等)が彦次郎家の初祖と考えられる(注⑥参照)。 注⑤「国郡志御用ニ付郡辻差出帳奴可郡」によれば、哲西町野部の四王寺は、天文三年(一五三三)、宮上総介盛親高(盛)同息兵庫助興盛の再興と伝え、また、『備中府志』によると、同地の西山城には天文年間、「久代弾正」が居城したと言う。 注⑥宮上野介家の祖兼信の孫と推定される満信・氏兼(前述)は、各々次郎左衛門尉、次郎右衛門尉を称しており、両人の子孫が備後両宮と呼ばれた宮若狭守・同五二郎(『小早川家証文』二〇二号等)と考えられる注(④点)備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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