「備陽史探訪:174号」より
田口 義之
中世文書、特に東京大学史料編纂所が出した『大日本古文書』に収録されたものは、一字一句間違いないものとして、論文や著作などで引用されることが多い。
今回、偽文書として紹介するのは、備後の中世史を研究する場合、金科玉条の如く扱われる『山内首藤家文書』(「大日本古文書」所収)の中に収められた数通の文書である。
山内首藤氏は南北朝時代以来、地毘庄本郷(庄原市本郷)の甲山城を本拠に備後有数の国人領主に成長した中世武士団である。山内氏は、関が原合戦で本領を失った後も長州藩士として存続し、五百余通に及ぶ家伝の文書を現代まで伝えた。これが『山内首藤家文書』文書である(現在原本は山口県立文書館に寄託されている)。
偽文書と疑われるのは、七一号・七二号の「氏名未詳下文」及び七三号の氏名未詳の「判物」である。何れも応永元年(一三九四)の年号を持ち、内容は「備後国恵蘇郡内上村、同国奴賀東西、出雲国横田庄、伯耆国内伊賀村、備中国井原庄」を山内通忠に与えるという、極めて格式の高い文書である。
問題は、これらの文書群に書かれている「奴賀東西」以下の所領が他の「山内首藤家文書」に一切現れないことである。これらの文書がもし本物ならば、記載された所領諸職は山内氏の「本領」となり、たとえ「不知行」であったとしても、正当な「知行」を主張できる「公験」としての効力を有していた。よって、もし正文書ならそこに書かれた所領所職がその後の譲状に記載されないはずはないのである。
しかも、その年号が正しいとすると、それらの文書群が出されたのは、室町幕府将軍の権威が最高潮に達した時期である。従三位以上の官職を帯びたものにしか出せない(通常は幕府将軍である)「下文」を、「氏名未詳」の人物が出せるはずがない。この文書が正文とすると、花押を据えた人物の素性を先ず問題としなければならない。
考えられるのは、これら一連の文書は山内氏が「訴訟」に際して、特定の人物に対抗して作成した偽文書ではないか、ということである。時期は恐らく戦国期、相手は山内氏と境目の所領を争った久代宮氏である。奴賀東西(庄原市西部)は久代宮氏の本領である。備中井原庄以下の所領も久代宮氏の所領であった傍証がある(1)。この時期ならば将軍権力も衰退し、氏名未詳下文も威力を持ったであろう。そして、今日でもこれらの文書を証拠として、山内氏が奴賀東西以下を領有したとする論者が後を絶たない(2)。中世文書でも、史料は先ず疑ってかかるのが正しい扱い法である。
(1)拙稿「備後宮氏と井原地方」『史談いばら』第十七号
(2)『東城町史』通史編Ⅲ古代中世など
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田口 義之 中世文書、特に東京大学史料編纂所が出した『大日本古文書』に収録されたものは、一字一句間違いないものとして、論文や著作などで引用されることが多い。 今回、偽文書として紹介するのは、備後の中世史を研究する場合、金科玉条の如く扱われる『山内首藤家文書』(「大日本古文書」所収)の中に収められた数通の文書である。 山内首藤氏は南北朝時代以来、地毘庄本郷(庄原市本郷)の甲山城を本拠に備後有数の国人領主に成長した中世武士団である。山内氏は、関が原合戦で本領を失った後も長州藩士として存続し、五百余通に及ぶ家伝の文書を現代まで伝えた。これが『山内首藤家文書』文書である(現在原本は山口県立文書館に寄託されている)。 偽文書と疑われるのは、七一号・七二号の「氏名未詳下文」及び七三号の氏名未詳の「判物」である。何れも応永元年(一三九四)の年号を持ち、内容は「備後国恵蘇郡内上村、同国奴賀東西、出雲国横田庄、伯耆国内伊賀村、備中国井原庄」を山内通忠に与えるという、極めて格式の高い文書である。 問題は、これらの文書群に書かれている「奴賀東西」以下の所領が他の「山内首藤家文書」に一切現れないことである。これらの文書がもし本物ならば、記載された所領諸職は山内氏の「本領」となり、たとえ「不知行」であったとしても、正当な「知行」を主張できる「公験」としての効力を有していた。よって、もし正文書ならそこに書かれた所領所職がその後の譲状に記載されないはずはないのである。 しかも、その年号が正しいとすると、それらの文書群が出されたのは、室町幕府将軍の権威が最高潮に達した時期である。従三位以上の官職を帯びたものにしか出せない(通常は幕府将軍である)「下文」を、「氏名未詳」の人物が出せるはずがない。この文書が正文とすると、花押を据えた人物の素性を先ず問題としなければならない。 考えられるのは、これら一連の文書は山内氏が「訴訟」に際して、特定の人物に対抗して作成した偽文書ではないか、ということである。時期は恐らく戦国期、相手は山内氏と境目の所領を争った久代宮氏である。奴賀東西(庄原市西部)は久代宮氏の本領である。備中井原庄以下の所領も久代宮氏の所領であった傍証がある(1)。この時期ならば将軍権力も衰退し、氏名未詳下文も威力を持ったであろう。そして、今日でもこれらの文書を証拠として、山内氏が奴賀東西以下を領有したとする論者が後を絶たない(2)。中世文書でも、史料は先ず疑ってかかるのが正しい扱い法である。 (1)拙稿「備後宮氏と井原地方」『史談いばら』第十七号
(2)『東城町史』通史編Ⅲ古代中世など管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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