足利義昭と備後(福山動座時代の活動について)

備陽史探訪:168号」より

田口 義之

足利義昭像(京都・等持院)
足利義昭像(京都・等持院)

天正四年(一五七六)二月、室町幕府最後の将軍、足利義昭が備後の鞆の浦に「動座」したのは、毛利氏を動かし、信長討伐の先鋒とするためであった。

だが、毛利氏は容易に動かなかった。当主輝元の祖父元就の遺訓を守って、「天下御競望」即ち、上洛に消極的であったからだ。

義昭が領国の鞆に移座したことは、毛利氏を否応なく信長打倒に立ち上がらせた。義昭を受け入れたことは、反信長の旗幟を鮮明にしたのと同様であり、毛利氏も月余の逡巡の後、義昭の下知を受け入れ、義昭を擁して「上洛戦」に挑むこととなった(1)。

幕府再興を受け入れた毛利氏は、「御所」を造営して義昭の身の回りを整え、幕府再興が単なる名分でないことを世に示そうとした。

毛利氏が義昭のために造営した御所は、今の古城山の西の「公方」にあったとも、古城山にあったともいう(2)。

現在の古城山に残る石垣は、殆どが慶長六年(一六〇一)から一一年(一六〇六)にかけて福島正則が築いた「鞆城」の遺構だが、一部にはそれより古い石垣も確認される。毛利氏が義昭のために造営した御所(鞆城)の遺構と見ていいだろう(3)。

毛利氏は義昭を推戴するや、旗下の国人衆に、義昭の為の奔走するよう命じた(4)。分国の国人衆も喜んでこの要請に応じた。国人衆は幕府が滅ぶとは思ってもみないことで、何れ義昭は上洛し、幕府を再興すると考えていた。義昭に恩を売ることは、再興された幕府内での地位を高めることであり、その絶好の機会と捉えたためである。

実際、国人衆の歓待ぶりは毛利氏の予想をはるかに超えていた。例えば、備後山内氏の場合、名代として同名兵庫助を義昭のもとに派遣し、太刀、馬などを献上した(5)。義昭の幕府に対する国人衆の奉仕は、山内氏だけでなく、安芸の平賀、天野、熊谷、石見の益田、周布、出雲の三沢、宍道氏などが確認され、その他の国人衆もその殆どが義昭の元に使者を派遣したものと考えられる(6)。

こうした国人衆の幕府出仕に対して、義昭も栄誉や官途の授与で応えた。山内首藤氏は「供衆」に任ぜられ(7)、熊谷氏は豊前守に補任された(8)。これらの栄誉は、彼等がかつて望んでも果たせなかったもので、彼等の自尊心を大いに満足させるものであった。

足利義昭御内書(山内首藤家文書)
足利義昭御内書(山内首藤家文書)

また、遠国の諸大名も、鞆の義昭の下に使者を派遣した。越後の上杉、甲斐の武田をはじめそれは九州の島津、四国の河野、長曾我部氏など、ほぼ全国に及んでおり、義昭の「幕府」が名だけでなく、実も備えていたことが分かる(9)。

義昭という人は、ドラマなどではお公家顔をした情けない人物、と描かれることが多い。が、残された史料から見ると、義昭の実像は、そんなものではない。なかなかどうして、現実的な乱世の武将である。

福山とのかかわりで言うと、「料所」の問題がある。料所とは将軍の直轄領の事で、江戸時代の「天領」にあたる。なぜ、このことが問題になるかというと、備後に「動座」した義昭は、毛利氏に料所の進上を強く要求、実現させているからだ。

全く実力を持たなかった義昭は、それを「征夷大将軍」という権威のみで押し通した。

態と染筆候、当所(鞆)にながながと逗留候、余りに窮屈に候、然らば津郷(津之郷)然るべきの由に候の条、彼の地に至り移座したく候、きっと輝元に対し意見加うべし…

(10)

輝元に対し、御座所の儀仰せ出され候条、この節津郷儀、ご進上候様、申し達せらるべきの段、尤も御祝着たるべく候、よって御内書をなされ候、誠に御面目の至り…

(11)

いずれも、将軍たる自分に忠節を尽くし、奉公することは名誉なことで、料所の進上も当然とする高飛車なものだ。受け取った輝元や元春がどんな顔をしたか、困惑の表情が目に浮かぶようである。

義昭は将軍の権威を振りかざすだけでなく、料所の獲得には異常なほど執念を燃やした。義昭が長和(瀬戸町)を料所として要求した際の話である。義昭の使者として輝元の下を訪れた小林家孝は、「この段すます候はば罷り戻らず(要求を受け入れてくれるまでは帰らない)」などと、喧嘩腰で言い張り、遂に「長和三百貫」の進上を認めさせた(12)。

『信長公記』によると、信長は、義昭が蓄財ばかりに熱心な「悪将軍」(13)だと弾劾したとあるが、或いは、それは義昭の一面を正確に言い当てたものであったかもしれない。

津之郷、長和が将軍義昭の「料置であったことは、地元に残された資料からも確認できる。津之郷の田辺寺、和光寺、艮神社は義昭から寺社領の寄進を受けたとされ、長和の福井八幡神社(瀬戸町)も天正年間、義昭が再興し、社領を寄進したと伝える(14)。

この義昭の「料所」は、義昭が帰京した後も維持され、天正十九年(一五九一)の、『毛利家八ヶ国御配置絵図』(15)備後国にも、沼隈郡のところに、「昌山(義昭)様領、千参百五拾石」の文字が黒々と記入されている。

福山市内にあるはずが無いとされ、「誤伝」と切り捨てられる義昭の石塔(熊野町常国寺の裏山などに残っている)も、こうした事実を検証していくと、決して架空のものではない。料所管理のために、備後に在国した義昭の奉公衆(家臣)が、主君の菩提を弔うために建立した可能性もあるのである。

  • (1)『島津家文書』九四号
  • (2)『沼隈郡誌』など
  • (3)鞆町池田一彦氏のご教示
  • (4)『熊谷家文書』一六八・『山内首藤家文書』二四八など
  • (5)『山内首藤家文書』二五三・三一五・四〇〇など
  • (6)『閥閲録』一二一、『熊谷家文書』一五七、『平賀家文書』一五七など
  • (7)『山内首藤家文書』二五六
  • (8)『熊谷家文書』一七五
  • (9)『島津家文書』『上杉家文書』「古今消息集」「香宗我部家伝証文」など
  • (l0)『吉川家文書』五〇一
  • (11)『三浦家文書』一〇七
  • (12)『県史』古代中世資料編V所収譜録二宮太郎右衛門
  • (13)『信長公記』巻六
  • (14)『水野記』十三備後国沼隈郡寺社
  • (15)山口県立文書館蔵
https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/98d8fde72eae3a4ab574764a85ac2e8c.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/98d8fde72eae3a4ab574764a85ac2e8c-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:168号」より 田口 義之 天正四年(一五七六)二月、室町幕府最後の将軍、足利義昭が備後の鞆の浦に「動座」したのは、毛利氏を動かし、信長討伐の先鋒とするためであった。 だが、毛利氏は容易に動かなかった。当主輝元の祖父元就の遺訓を守って、「天下御競望」即ち、上洛に消極的であったからだ。 義昭が領国の鞆に移座したことは、毛利氏を否応なく信長打倒に立ち上がらせた。義昭を受け入れたことは、反信長の旗幟を鮮明にしたのと同様であり、毛利氏も月余の逡巡の後、義昭の下知を受け入れ、義昭を擁して「上洛戦」に挑むこととなった(1)。 幕府再興を受け入れた毛利氏は、「御所」を造営して義昭の身の回りを整え、幕府再興が単なる名分でないことを世に示そうとした。 毛利氏が義昭のために造営した御所は、今の古城山の西の「公方」にあったとも、古城山にあったともいう(2)。 現在の古城山に残る石垣は、殆どが慶長六年(一六〇一)から一一年(一六〇六)にかけて福島正則が築いた「鞆城」の遺構だが、一部にはそれより古い石垣も確認される。毛利氏が義昭のために造営した御所(鞆城)の遺構と見ていいだろう(3)。 毛利氏は義昭を推戴するや、旗下の国人衆に、義昭の為の奔走するよう命じた(4)。分国の国人衆も喜んでこの要請に応じた。国人衆は幕府が滅ぶとは思ってもみないことで、何れ義昭は上洛し、幕府を再興すると考えていた。義昭に恩を売ることは、再興された幕府内での地位を高めることであり、その絶好の機会と捉えたためである。 実際、国人衆の歓待ぶりは毛利氏の予想をはるかに超えていた。例えば、備後山内氏の場合、名代として同名兵庫助を義昭のもとに派遣し、太刀、馬などを献上した(5)。義昭の幕府に対する国人衆の奉仕は、山内氏だけでなく、安芸の平賀、天野、熊谷、石見の益田、周布、出雲の三沢、宍道氏などが確認され、その他の国人衆もその殆どが義昭の元に使者を派遣したものと考えられる(6)。 こうした国人衆の幕府出仕に対して、義昭も栄誉や官途の授与で応えた。山内首藤氏は「供衆」に任ぜられ(7)、熊谷氏は豊前守に補任された(8)。これらの栄誉は、彼等がかつて望んでも果たせなかったもので、彼等の自尊心を大いに満足させるものであった。 また、遠国の諸大名も、鞆の義昭の下に使者を派遣した。越後の上杉、甲斐の武田をはじめそれは九州の島津、四国の河野、長曾我部氏など、ほぼ全国に及んでおり、義昭の「幕府」が名だけでなく、実も備えていたことが分かる(9)。 義昭という人は、ドラマなどではお公家顔をした情けない人物、と描かれることが多い。が、残された史料から見ると、義昭の実像は、そんなものではない。なかなかどうして、現実的な乱世の武将である。 福山とのかかわりで言うと、「料所」の問題がある。料所とは将軍の直轄領の事で、江戸時代の「天領」にあたる。なぜ、このことが問題になるかというと、備後に「動座」した義昭は、毛利氏に料所の進上を強く要求、実現させているからだ。 全く実力を持たなかった義昭は、それを「征夷大将軍」という権威のみで押し通した。 態と染筆候、当所(鞆)にながながと逗留候、余りに窮屈に候、然らば津郷(津之郷)然るべきの由に候の条、彼の地に至り移座したく候、きっと輝元に対し意見加うべし…(10) 輝元に対し、御座所の儀仰せ出され候条、この節津郷儀、ご進上候様、申し達せらるべきの段、尤も御祝着たるべく候、よって御内書をなされ候、誠に御面目の至り…(11) いずれも、将軍たる自分に忠節を尽くし、奉公することは名誉なことで、料所の進上も当然とする高飛車なものだ。受け取った輝元や元春がどんな顔をしたか、困惑の表情が目に浮かぶようである。 義昭は将軍の権威を振りかざすだけでなく、料所の獲得には異常なほど執念を燃やした。義昭が長和(瀬戸町)を料所として要求した際の話である。義昭の使者として輝元の下を訪れた小林家孝は、「この段すます候はば罷り戻らず(要求を受け入れてくれるまでは帰らない)」などと、喧嘩腰で言い張り、遂に「長和三百貫」の進上を認めさせた(12)。 『信長公記』によると、信長は、義昭が蓄財ばかりに熱心な「悪将軍」(13)だと弾劾したとあるが、或いは、それは義昭の一面を正確に言い当てたものであったかもしれない。 津之郷、長和が将軍義昭の「料置であったことは、地元に残された資料からも確認できる。津之郷の田辺寺、和光寺、艮神社は義昭から寺社領の寄進を受けたとされ、長和の福井八幡神社(瀬戸町)も天正年間、義昭が再興し、社領を寄進したと伝える(14)。 この義昭の「料所」は、義昭が帰京した後も維持され、天正十九年(一五九一)の、『毛利家八ヶ国御配置絵図』(15)備後国にも、沼隈郡のところに、「昌山(義昭)様領、千参百五拾石」の文字が黒々と記入されている。 福山市内にあるはずが無いとされ、「誤伝」と切り捨てられる義昭の石塔(熊野町常国寺の裏山などに残っている)も、こうした事実を検証していくと、決して架空のものではない。料所管理のために、備後に在国した義昭の奉公衆(家臣)が、主君の菩提を弔うために建立した可能性もあるのである。 (1)『島津家文書』九四号 (2)『沼隈郡誌』など (3)鞆町池田一彦氏のご教示 (4)『熊谷家文書』一六八・『山内首藤家文書』二四八など (5)『山内首藤家文書』二五三・三一五・四〇〇など (6)『閥閲録』一二一、『熊谷家文書』一五七、『平賀家文書』一五七など (7)『山内首藤家文書』二五六 (8)『熊谷家文書』一七五 (9)『島津家文書』『上杉家文書』「古今消息集」「香宗我部家伝証文」など (l0)『吉川家文書』五〇一 (11)『三浦家文書』一〇七 (12)『県史』古代中世資料編V所収譜録二宮太郎右衛門 (13)『信長公記』巻六 (14)『水野記』十三備後国沼隈郡寺社 (15)山口県立文書館蔵備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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