蔵王はね踊り勇壮愉絶に踊りゆく(福山市蔵王町)
「備陽史探訪:68号」より
柿本 光明
郷土芸能「はね踊り」
風の鳴る夏の日に、白地の浴衣に鉢巻・襷(たすき)・黒の手甲(てっこう)に脚絆(きゃはん)をつけ、草履を穿(うが)った「鬼」と称する歌い手若干名と、同じ衣裳の「鉦(かね)」「小太鼓」「大太鼓」の三種の楽器の楽の奏に合わせて踊りながら畦道(あぜみち)を行く。
田植えが終わって田の草をとる時が来ても雨が降らなかったら、科学が幼稚であった時だから雨を乞う呪術が盛んにおこなわれた。備後福山藩領では、古来よりこういうときに「はねおどり」を踊った。
管茶山の『備後福山領風俗記』には、
村の雨乞いは、龍王社の前で行なった。竹竿や木綿布や神をつけて幟のごとく立てて踊ったが、雨乞を始めた時も雨の降った時の行事も同様である
と記している。
伝承によれば、元和五年(一六一九)水野勝成が福山藩主として入部した際、この踊りを賞して、領内各村に楽器を与えて奨励したといわれる。おそらくそれ以前は農村の虫送り、雨乞いなどの民俗的な行事であったであろう。
「はねおどり」という踊りは四人が一組である。
大胴は直径二尺(四斗樽)の大太鼓(大胴)を白布で縛ってからだの左側に吊るし持ち、長さ約一尺の桐のバチ一本で打つ。入鼓は直径一尺五寸の小大鼓で、白布でからだの前面に吊るし、約一尺三寸の桐バチニ本で打つ。鉦は直径八寸の円形で、左手に吊るし、右手に持った丁字形の撞木(しゅもく)で打つ。三種の楽器をもって一組とし、鬼が団扇と色紙を飾りつけた棒を持って先頭に立ち、この楽器の楽に合わせながら数組が一団となる。
鬼は名の通りに鬼面をかぶり、紅しぼりの襦袢(じゅばん)(シャツ)をきて、黒い股引きをはき、脇差(小刀)を差し、四人の女竹に赤青の紙を巻いたのと、団扇に色紙をつけてひらめかしたのを持って音頭をとった。
演目は「早打ち」「道行き」「せぐり」「鬼の口上」「宮巡り」「鬼おどりうち」「参詣度」「はね歌おどり」「中おどり」「はねこみ」「打合せ」で、全員楽器を打ち鳴らし、はね、舞い、おどる豪快な踊りである。
「道行き」は、神社の境内に行くまでの奏であり、「宮巡り」は全員が一列縦隊となって神殿を廻るときの奏、この行事の中で心ともいわれるのは「はね歌おどり」「中おどり」「はねこみ」である。
なお、管茶山の絵には、団扇の代りに扇を、四斗樽の代りに太鼓を持ったのが画いてあるが、いずれも小さな竹皮笠を正面から紐が見えないようにかぶっている。
団扇を持つ男が、団扇一を差し上げて「えいえい、おう」と音頭をとると、鉦・太鼓など持つ男が「さんまいどう」と応える。それから太鼓・鉦の拍子を合わせて、四回から五回はねまわる。神前に出たら「せぐり」「宮巡り」「さんまいど」の踊りがあって「口上」がある。
目出度やな
地から生えて空からも降る
地から生えて舞いの空降る
国の世栄 空からも降る
こちの世栄り こちの世栄りやの
奈良から生えて書付をする
奈良から建てて書付をする
シャンシャン(かねの音)コッココッコ(太鼓の音)シャン・コッコ。時には音頭とりに続いて一同も歌う。
(音頭)あら目出度や地からも湧いて
(一同)空からも降る
(音頭)地から湧いて空からも降る
(一同)五穀も稔る
(音頭)五穀稔りて豊かな御代や
(一同)これも世盛り
蔵王はね踊り
蔵王の町で継承され、蔵王で踊られている「蔵王はね踊り」は古い歴史を持っていることは間違いない。明治三年に造り替えられたといわれる諌鼓の文字や、加茂町広瀬に存在する文献には、明治の中頃、すたれかかった芋原地区の「はね踊り」を蔵王町に習いにゆき復活させた、と記載された資料があるという。
蔵王はね踊りも、当時は雨乞や田んぼの虫追いなどで、打ち鳴らされたものであったが、いつとはなしに鉦と太鼓が組み合わされ、踊りとして完成させ、神社の祭典などで、五穀豊穣を祈る神祇となったと伝えられている。
蔵王はね踊りには、四つの節があり、「せぐり」といわれる踊りを主体として、御輿の途御につけ「道行き」踊り、神社の周りを回る「宮巡り」、そして締めくくりとして踊られる「打ち込み」踊りとなっている。
時には急に、時にはゆるやかに、あるいはバチを空に飛ばして宙にうけ、あるときは身体を施転屈曲して跳ね上がり、調律は硬軟よろしく回りながら踊る。
音頭とりは「団扇」を持って、電光石火のごとき早業で目にもとまらぬ激して跳躍を続ける。
汗流は滝のごとく、勇壮愉絶な踊りがつづく。また「せぐり」と「打ち込み」踊りには、「中唄」がはいり、国と家庭の繁栄を祈る唄としてはね踊りのリズムに合わせて唄われている。十月十九日の秋の前夜祭から二十日(現在は十月の第二日曜日)の本祭には、町内をはね踊りがかけめぐる。
涼やかな秋の朝に、昨日まで聞こえていた蔵王(弥陀)八幡神社の笛や太鼓の音、それに蔵王青壮年による豪壮な、はね踊りの鉦や太鼓の音も、今はこともなく静かに……雲は流され、美しく晴れた空は青く澄んで、白い雲が流れ、その空は高く遠く思われる。
(原文より一部改変)
https://bingo-history.net/archives/13609https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/cropped-mark.pnghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/cropped-mark-150x100.png近世近代史「備陽史探訪:68号」より 柿本 光明 郷土芸能「はね踊り」 風の鳴る夏の日に、白地の浴衣に鉢巻・襷(たすき)・黒の手甲(てっこう)に脚絆(きゃはん)をつけ、草履を穿(うが)った「鬼」と称する歌い手若干名と、同じ衣裳の「鉦(かね)」「小太鼓」「大太鼓」の三種の楽器の楽の奏に合わせて踊りながら畦道(あぜみち)を行く。 田植えが終わって田の草をとる時が来ても雨が降らなかったら、科学が幼稚であった時だから雨を乞う呪術が盛んにおこなわれた。備後福山藩領では、古来よりこういうときに「はねおどり」を踊った。 管茶山の『備後福山領風俗記』には、 村の雨乞いは、龍王社の前で行なった。竹竿や木綿布や神をつけて幟のごとく立てて踊ったが、雨乞を始めた時も雨の降った時の行事も同様である と記している。 伝承によれば、元和五年(一六一九)水野勝成が福山藩主として入部した際、この踊りを賞して、領内各村に楽器を与えて奨励したといわれる。おそらくそれ以前は農村の虫送り、雨乞いなどの民俗的な行事であったであろう。 「はねおどり」という踊りは四人が一組である。 大胴は直径二尺(四斗樽)の大太鼓(大胴)を白布で縛ってからだの左側に吊るし持ち、長さ約一尺の桐のバチ一本で打つ。入鼓は直径一尺五寸の小大鼓で、白布でからだの前面に吊るし、約一尺三寸の桐バチニ本で打つ。鉦は直径八寸の円形で、左手に吊るし、右手に持った丁字形の撞木(しゅもく)で打つ。三種の楽器をもって一組とし、鬼が団扇と色紙を飾りつけた棒を持って先頭に立ち、この楽器の楽に合わせながら数組が一団となる。 鬼は名の通りに鬼面をかぶり、紅しぼりの襦袢(じゅばん)(シャツ)をきて、黒い股引きをはき、脇差(小刀)を差し、四人の女竹に赤青の紙を巻いたのと、団扇に色紙をつけてひらめかしたのを持って音頭をとった。 演目は「早打ち」「道行き」「せぐり」「鬼の口上」「宮巡り」「鬼おどりうち」「参詣度」「はね歌おどり」「中おどり」「はねこみ」「打合せ」で、全員楽器を打ち鳴らし、はね、舞い、おどる豪快な踊りである。 「道行き」は、神社の境内に行くまでの奏であり、「宮巡り」は全員が一列縦隊となって神殿を廻るときの奏、この行事の中で心ともいわれるのは「はね歌おどり」「中おどり」「はねこみ」である。 なお、管茶山の絵には、団扇の代りに扇を、四斗樽の代りに太鼓を持ったのが画いてあるが、いずれも小さな竹皮笠を正面から紐が見えないようにかぶっている。 団扇を持つ男が、団扇一を差し上げて「えいえい、おう」と音頭をとると、鉦・太鼓など持つ男が「さんまいどう」と応える。それから太鼓・鉦の拍子を合わせて、四回から五回はねまわる。神前に出たら「せぐり」「宮巡り」「さんまいど」の踊りがあって「口上」がある。 目出度やな 地から生えて空からも降る 地から生えて舞いの空降る 国の世栄 空からも降る こちの世栄り こちの世栄りやの 奈良から生えて書付をする 奈良から建てて書付をする シャンシャン(かねの音)コッココッコ(太鼓の音)シャン・コッコ。時には音頭とりに続いて一同も歌う。 (音頭)あら目出度や地からも湧いて (一同)空からも降る (音頭)地から湧いて空からも降る (一同)五穀も稔る (音頭)五穀稔りて豊かな御代や (一同)これも世盛り 蔵王はね踊り 蔵王の町で継承され、蔵王で踊られている「蔵王はね踊り」は古い歴史を持っていることは間違いない。明治三年に造り替えられたといわれる諌鼓の文字や、加茂町広瀬に存在する文献には、明治の中頃、すたれかかった芋原地区の「はね踊り」を蔵王町に習いにゆき復活させた、と記載された資料があるという。 蔵王はね踊りも、当時は雨乞や田んぼの虫追いなどで、打ち鳴らされたものであったが、いつとはなしに鉦と太鼓が組み合わされ、踊りとして完成させ、神社の祭典などで、五穀豊穣を祈る神祇となったと伝えられている。 蔵王はね踊りには、四つの節があり、「せぐり」といわれる踊りを主体として、御輿の途御につけ「道行き」踊り、神社の周りを回る「宮巡り」、そして締めくくりとして踊られる「打ち込み」踊りとなっている。 時には急に、時にはゆるやかに、あるいはバチを空に飛ばして宙にうけ、あるときは身体を施転屈曲して跳ね上がり、調律は硬軟よろしく回りながら踊る。 音頭とりは「団扇」を持って、電光石火のごとき早業で目にもとまらぬ激して跳躍を続ける。 汗流は滝のごとく、勇壮愉絶な踊りがつづく。また「せぐり」と「打ち込み」踊りには、「中唄」がはいり、国と家庭の繁栄を祈る唄としてはね踊りのリズムに合わせて唄われている。十月十九日の秋の前夜祭から二十日(現在は十月の第二日曜日)の本祭には、町内をはね踊りがかけめぐる。 涼やかな秋の朝に、昨日まで聞こえていた蔵王(弥陀)八幡神社の笛や太鼓の音、それに蔵王青壮年による豪壮な、はね踊りの鉦や太鼓の音も、今はこともなく静かに……雲は流され、美しく晴れた空は青く澄んで、白い雲が流れ、その空は高く遠く思われる。 (原文より一部改変)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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