「備陽史探訪:24号」より
種本 実
とんど(例)
福山とんど祭りとなはにか?
先号で加藤惣一氏より福山の「とんど」の由来等詳細な文章が載りました。私自身はとんど祭りについてあまり記憶がありませんが、古い新聞記事等を参考にして、”とんど祭り”とはどのようなものであったか、何故今では見ることができなくなったか等にについて若干調べてみました。
”とんど祭”は昭和9年4月の春祭に皇太子殿下ご誕生(8年12月23日)を祝って繰り出したのを最後に姿を消していたが、24年4月2日に復活した。前年の8月に、「戦前の活気をとり戻す」意気込みで、13年に中止された「二上り」が復活したのに刺激されたものである。
―中国新聞S51/6/26―
当時の新聞によれば
福山のとんど祭開く
水野公の築城330年を記念して三日~八日間にわたり商工・文化・体育祭と銘打って各種行事が行なわれた。二上り踊り、仮装行列など賑わった。
―朝日新聞24/4/5―
とある。同紙面には、
皇太子さま、御来県第一日 四日午後四時、復興とんど祭ににぎわう福山市内に第一歩
との記事もある。
昭和24年4月に復活した「とんど祭り」はその後45年迄毎年行なわれた。34年には皇太子御成婚を祝福して例年より多彩な催しがあった。例えば―
- 日光博
- 日光東照官の模型化したものを中央公園に移し市民に公開。これはパリの万博にも展示したもので日本でただ一つのものだった。
- 東京大相撲
- パラ公園仮設土俵に横綱栃錦、大関朝汐他200名参加。
- ミス福山コンテスト
- 審査委員長は徳永市長。賞金15000円。
昭和42年は明治百年祭でことのほか盛大なとんど祭りであった。前夜祭は市民会館にて―消防署楽団演奏・紅白芸能合戦・期間中は駅前広場・大通りにて―古式とんど、商店とんど、子供とんど、海上自衛隊音楽隊パレード、海洋少年団結成パレード、はねおどり、鞆の浦盆おどり、水野公遺品展、二上りおどり…最終日には護国神社前でとんど火祭等々。
戦前の「とんど」はかついで練り回したものだったが戦後は山車(だし)といって車が付いた台に「とんど」を置きそれを引き回すというもので「古式とんど」は上に人が乗れるもので当時の徳永市長が歌う「とんど」の音どがスピーカーから大きく流れる中、若手の市職員が市長を振り落とさんばかりに引き回したそうである。他に「おきとんど」といって、高さ8~10メートルの「とんど」が駅前大通りに20基程展示してあった。これは市が建築業者に作らせた「とんど」である。「商店街とんど」は各町内会が桃太郎などをモデルに商店街で作ったものである。
市観光課でいただいた資料によると
最盛期には古式とんどをはじめ商店とんど13基、その他農協の花車等々多数の山車で賑わい集合場所であった現広銀前から船町交差点にかけては山車で埋まった、又市民層にもこの催しを積極的に支持する気運は高く、振舞酒を酒屋に引き取ってもらい町内での打ち上げの経費に充てたというエピソードも残っている。(S35~37年頃)
しかし40年頃になると急速なモータリーゼーションの発達により、これ迄行事の中心広場であった国道2号線は使用不能となるばかりか、市内の各交差点は信号が設置され、市中の練り歩きは困難になってきた。
又、福山市も産業経済面で飛躍的発展段階に入り、社会的人口増等周囲の社会情勢も祭発展と相反する状況となった。(S40~)
とある。
昭和45年には、古式とんど2基、商店街とんど3基、子供とんど2基が繰り出したが以後とんどは中止されたままである。
ところが、本年※5月19日にばら祭の中のパレードとして各商店街で作る「とんど」が復活するそうである。これは「福山小売商業振興協議会」が主催するものでまだ詳しくは決っていないが、伝統ある福山の民俗芸能だけに15年振りの復活を期待したい。
前述したように、「とんど祭り」は昭和24年に福山復興への息吹として復活したが、この年福山は戦災都市に指定され財源確保の為競馬場の設置が認められた。53年には33億円も一般会計へ繰り入れる程の売り上げも今年度は10億円の繰り入れを割りそうな売り上げ減であり社会情勢の変化はここにも押し寄せている。
「とんど饅頭」といえば福山を代表する菓子の一つであり、土産物としても人気があるのでよく知られているようである。パンフレットによれば
今から三百年前福山築城のとき、城下の町で行った左義長のとき、藩主勝成公に献上した鰻頭の美味を、いたく賞揚され、これを「とんど」と名付けられ、藩の御用菓として愛用されました。……
との由来があるそうだ。従って製造販売の虎屋さんの話だと当店も江戸期から続く古い店とのこと。「とんど祭り」の間は直径30センチ位の特大の鰻頭を出して一息で食べたら景品を、といつたことを宣伝を兼ねた催しとして行ったこともあったそうだ。伏見町のように戦後出来た商店街は前述したように、「桃太郎」のようなものを「とんど」のモデルにしたが、古くからの町は伝統ある飾りつけの「とんど」が繰り出しそうだ。
(船町―宝船、魚屋町―鯛 etc)
「とんど祭り」はかつての城下町気質を受け継いだ人々によって15年前まで続けてきたが、当時の市長徳永氏の祭り好きも負うところがあったようだ。現在の市の状態は当時とはすべての面で変りつつあるので、5月に再び復活する「とんど」がこんごも続く可能性は少ない。
「とんど」の真の復活を歴史を愛する人と共に願うものである。
参考資料
- 広報福山
- 中国新聞(51/6/26)
- 朝日新聞(24/4/5)
ご協力いただきました
※昭和60年(1985)
https://bingo-history.net/archives/6880https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/11/1f2a352a6c2f9c46e7ea4269f7d61627.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/11/1f2a352a6c2f9c46e7ea4269f7d61627-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:24号」より
種本 実
とんど(例) 福山とんど祭りとなはにか?
先号で加藤惣一氏より福山の「とんど」の由来等詳細な文章が載りました。私自身はとんど祭りについてあまり記憶がありませんが、古い新聞記事等を参考にして、”とんど祭り”とはどのようなものであったか、何故今では見ることができなくなったか等にについて若干調べてみました。
”とんど祭”は昭和9年4月の春祭に皇太子殿下ご誕生(8年12月23日)を祝って繰り出したのを最後に姿を消していたが、24年4月2日に復活した。前年の8月に、「戦前の活気をとり戻す」意気込みで、13年に中止された「二上り」が復活したのに刺激されたものである。
―中国新聞S51/6/26―
当時の新聞によれば
福山のとんど祭開く
水野公の築城330年を記念して三日~八日間にわたり商工・文化・体育祭と銘打って各種行事が行なわれた。二上り踊り、仮装行列など賑わった。
―朝日新聞24/4/5―
とある。同紙面には、
皇太子さま、御来県第一日 四日午後四時、復興とんど祭ににぎわう福山市内に第一歩
との記事もある。 昭和24年4月に復活した「とんど祭り」はその後45年迄毎年行なわれた。34年には皇太子御成婚を祝福して例年より多彩な催しがあった。例えば― 日光博
日光東照官の模型化したものを中央公園に移し市民に公開。これはパリの万博にも展示したもので日本でただ一つのものだった。
東京大相撲
パラ公園仮設土俵に横綱栃錦、大関朝汐他200名参加。
ミス福山コンテスト
審査委員長は徳永市長。賞金15000円。 昭和42年は明治百年祭でことのほか盛大なとんど祭りであった。前夜祭は市民会館にて―消防署楽団演奏・紅白芸能合戦・期間中は駅前広場・大通りにて―古式とんど、商店とんど、子供とんど、海上自衛隊音楽隊パレード、海洋少年団結成パレード、はねおどり、鞆の浦盆おどり、水野公遺品展、二上りおどり…最終日には護国神社前でとんど火祭等々。 戦前の「とんど」はかついで練り回したものだったが戦後は山車(だし)といって車が付いた台に「とんど」を置きそれを引き回すというもので「古式とんど」は上に人が乗れるもので当時の徳永市長が歌う「とんど」の音どがスピーカーから大きく流れる中、若手の市職員が市長を振り落とさんばかりに引き回したそうである。他に「おきとんど」といって、高さ8~10メートルの「とんど」が駅前大通りに20基程展示してあった。これは市が建築業者に作らせた「とんど」である。「商店街とんど」は各町内会が桃太郎などをモデルに商店街で作ったものである。 市観光課でいただいた資料によると 最盛期には古式とんどをはじめ商店とんど13基、その他農協の花車等々多数の山車で賑わい集合場所であった現広銀前から船町交差点にかけては山車で埋まった、又市民層にもこの催しを積極的に支持する気運は高く、振舞酒を酒屋に引き取ってもらい町内での打ち上げの経費に充てたというエピソードも残っている。(S35~37年頃)
しかし40年頃になると急速なモータリーゼーションの発達により、これ迄行事の中心広場であった国道2号線は使用不能となるばかりか、市内の各交差点は信号が設置され、市中の練り歩きは困難になってきた。
又、福山市も産業経済面で飛躍的発展段階に入り、社会的人口増等周囲の社会情勢も祭発展と相反する状況となった。(S40~)
とある。 昭和45年には、古式とんど2基、商店街とんど3基、子供とんど2基が繰り出したが以後とんどは中止されたままである。 ところが、本年※5月19日にばら祭の中のパレードとして各商店街で作る「とんど」が復活するそうである。これは「福山小売商業振興協議会」が主催するものでまだ詳しくは決っていないが、伝統ある福山の民俗芸能だけに15年振りの復活を期待したい。 前述したように、「とんど祭り」は昭和24年に福山復興への息吹として復活したが、この年福山は戦災都市に指定され財源確保の為競馬場の設置が認められた。53年には33億円も一般会計へ繰り入れる程の売り上げも今年度は10億円の繰り入れを割りそうな売り上げ減であり社会情勢の変化はここにも押し寄せている。 「とんど饅頭」といえば福山を代表する菓子の一つであり、土産物としても人気があるのでよく知られているようである。パンフレットによれば
今から三百年前福山築城のとき、城下の町で行った左義長のとき、藩主勝成公に献上した鰻頭の美味を、いたく賞揚され、これを「とんど」と名付けられ、藩の御用菓として愛用されました。……
との由来があるそうだ。従って製造販売の虎屋さんの話だと当店も江戸期から続く古い店とのこと。「とんど祭り」の間は直径30センチ位の特大の鰻頭を出して一息で食べたら景品を、といつたことを宣伝を兼ねた催しとして行ったこともあったそうだ。伏見町のように戦後出来た商店街は前述したように、「桃太郎」のようなものを「とんど」のモデルにしたが、古くからの町は伝統ある飾りつけの「とんど」が繰り出しそうだ。
(船町―宝船、魚屋町―鯛 etc) 「とんど祭り」はかつての城下町気質を受け継いだ人々によって15年前まで続けてきたが、当時の市長徳永氏の祭り好きも負うところがあったようだ。現在の市の状態は当時とはすべての面で変りつつあるので、5月に再び復活する「とんど」がこんごも続く可能性は少ない。 「とんど」の真の復活を歴史を愛する人と共に願うものである。 参考資料 広報福山
中国新聞(51/6/26)
朝日新聞(24/4/5) ご協力いただきました 福山市観光課
虎屋本店 ※昭和60年(1985)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。
近世福山の歴史を学ぶ