杉原信平嫡流・本郷氏について

備陽史探訪:188号」より

木下 和司

杉原本郷氏の現れる一次史料を尋ねて

歴史に関する研究は、史料探しに始まり史料探しに終る。中世史の研究を始めて、もう二十年以上になるが、いつも新しい史料探している。最近は、新しい地方史関係の資料編が出版されると、図書館で内容をチェックする。時間があれば、東大史料編纂所のデータベースの検索をしている。それでも、面白いと思える史料に出会えることは、年に二、三回もあれば御の字である。 この会報では、ここ数年で出会った備後関係の面白い史料の話をしてみたい。

まず、最初に、二年半ほど前に出会った室町幕府奉公衆・四番関係の史料について述べてみたい。史料の名前は、「下津屋信秀他廿九名連署書状」()である。 『尊経閣古文書纂』に含まれる「吉見家文書」所収の古文書である。明応の政変で没落した前将軍足利義材に付き従った奉公衆・四番の武士達廿九人の連署書状である。 奉公衆・四番には備後の武士として、宮上野介家と信平系杉原氏が属しており、連署者の中に宮・杉原を名乗る武士達が多数確認される。以下にその姓名を挙げる。

【宮上野介家】
宮又三郎真信  宮小次郎実信
宮若狭守貞兼  宮弥太郎貞盛
宮彦次郎親孝
【信平系杉原氏】
杉原因幡入道善賢
杉原下総守盛平 杉原美濃守盛重
杉原与四郎忠平 杉原平次郎忠良
杉原次郎光盛

一般に、中世史料では武士の仮名や官途のみが記載され、実名が記載されている史料は非常に稀である、このため、戦国期に奉公衆四番に属した備後の武士達の実名を知ることができる貴重な史料である。例えば、宮実信の仮名は「小次郎」と推定されていたが、それを裏付けたのはこの史料が初めてである()。

筆者は長年、杉原氏の研究をしているが、この史料から杉原下総守の実名が「盛平」であることを確認して、昨年の『山城志 第二十三集』所収の「杉原信平の嫡流に関する一考察」に杉原盛平が杉原信平の嫡流であることを論証した。信平の嫡流は、備後国本郷庄を本領として「杉原流本郷氏」を称したと考えられるが()、『広島県史』・『福山市史』でも「杉原流本郷氏」に関しての記述は無く、信平の嫡流は「杉原流木梨氏」とされている。 これは戦国期の前半に「杉原流本郷氏」が滅んでしまい、その史料が散逸してしまったためと考えられる。 更に、『萩藩閥閲録』巻五十三「木梨右衛門八」書出しには、「杉原伯書守光平より拾壹代孫蔵人太夫道恒」以前の系譜は不明としており、木梨氏が信平の嫡流を名乗っている訳ではない。

筆者は、『山城志 第二十三集』に於いて、信平が仮名として「彦太郎」を名乗り()、官途として「太郎左衛門尉」を名乗っている()ことを手掛かりとして、応仁・文明の乱期に官途「太郎左衛門尉」を名乗った盛平が信平の嫡流であることを論証した。この時、『小早川家文書』所収の文明十九(一四八七)年八月二日付け「継目安堵御判禮銭以下支配状写」()に現れる「杉原本郷殿」を盛平に比定して、杉原盛平を信平の嫡流で、「本郷氏」を名乗っていたと推定した。盛平が「杉原流本郷氏」を称していたことを示す決定的な史料の欠如が、筆者の『山城志 第二十三集』の論考に於ける最大の欠点であることは認識していたが、この時点では決定的な確証を得られなかったので、推定ということで論考を纏めた。

ここ数ケ月、戦国期の山名氏の系譜を纏めてみようと思い、戦国期の備後関係の史料を調査・整理していた。この過程で、杉原盛平に関する興味深い史料を見つけた。 以下に、史料の一部を引用する。

●史料一、『後法興院記』延徳三(一四九一)年八月廿七日の条(

八月廿七日、是日、武家出陣、相伴実門井右府、蜜々見物、大概記之、先奉行衆
松田封馬守 同主計允 同彦五郎(中略)、
警護 大和守同三郎、
   同三重右京亮同佐渡三郎 杉原七郎
   同本郷太郎左衛門
(後略)、

この史料は、悲運に倒れた前将軍足利義尚の意思を継いだ新将軍足利義材が六角征伐に出陣した時の軍勢を示している。この史料と足利義尚の六角征伐に関する着到と比較するために、『群書類従』所収の着到の抜粋を以下に挙げる。

●史料二、「長享元(一四八七)年九月十二日常徳院殿様江州動座当時在陣衆着到」(

四番衆(抜粋)
畠山中務少輔政近。大和守政宗。平。大和龜法師。杉原太郎左衛門尉盛平。同三郎左衛門尉盛重。 同彦六。
大和佐渡守邦永。 大和兵庫介元継。
大和三重右京亮。
東山殿様祇候人数(抜粋)
大舘刑部大輔政重。杉原七郎。

ほぼ同時期のものである史料一と史料二から判断して、史料一に見える杉原本郷太郎左衛門は、史料二に見える杉原太郎左衛門尉盛平と同一人物と考えられる()。 つまり、史料一によって杉原盛平が本郷氏を名乗っていたことが、 一次史料によって証明されたことになる。

歴史を研究する作業は、思考の材料となる一次史料を集めて、そこから新しい仮説を立てることから始まる。次に立てた仮説を証明するために、別の視点から独立した史料を探すことになる。この仮説を立証するための史料探しは、なかなか困難であり、仮説は、確からしい仮説で終わることが多い。 今回の信平嫡流に関する仮説は、幸いにも『後法興院記』という日記の存在で大きな確証を得ることが出来た。 こういう史料の存在を探し出すことが歴史の研究の楽しみだと思っている。

今年も、また、まだ見ぬ面白い史料を探し続けることになるが、今年はどんな史料に出会えるかを楽しみにしている。

【補注】

  • ① 羽田聡氏「足利義材の西国廻りと吉見氏」(『学叢』25 号所収、京都国立博物館2003 年)。羽田氏によれば、この連署状の発給年次は、明応七(一四九八)年~永正七(一五一〇)年の間とされている。
  • ② 宮小次郎の存在は、『伊勢家書』永正六年五月廿一日の条に犬追物の射手として現れるが、その実名は確認されない。また、宮実信の実名は大永四(一五二四)年二月九日付「宮実信知行充行状」令萩藩閥閲録』巻一六八) の発給者として確認される。しかし、その仮名は確認されない。「下津屋信秀他廿九名連署書状」の存在によって初めて実信の仮名が「小次郎」であることが確認された。
  • ③ 「椙原信平禁制状」(「浄土寺文書二〇号」『大日本史料 第六編二十二冊』所収)の付箋に「備後本郷新庄村城主平清盛公八代孫従五位下椙原本郷殿制状」とある。
  • ④ 建武三年五月廿日付け杉原信平宛「足利尊氏袖判下文」(「福山志料所収文書」『県史 資料Ⅴ』所収)
  • ⑤ (年欠)二月四日付け「重能ヵ打渡状写」(『萩藩閥閲録』「巻六七 高須惣左衛門書出」)。
  • ⑥『小早川家文書之二』二二〇号
  • ⑦東大史料編纂所『大日本史料』データベース未刊行分。 延徳三(一四九一)年八月廿七日の条。
  • ⑧『群書類従 第二十九輯』所収
  • ⑨ 足利義材の出陣に関する警護役は四番衆の大和氏と杉原氏によって勤められたと考えられる。大和守は大和政宗、大和三重右京亮は三重行佐、佐渡三郎は、大和佐渡守邦永子息と考えられる。杉原七郎は、一番衆である杉原伊賀守賢盛の嫡孫と考えられる。
https://bingo-history.net/wp-content/uploads/1997/02/eb86400f11101cf7043b8ffd0dec0ba9.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/1997/02/eb86400f11101cf7043b8ffd0dec0ba9-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:188号」より 木下 和司 杉原本郷氏の現れる一次史料を尋ねて 歴史に関する研究は、史料探しに始まり史料探しに終る。中世史の研究を始めて、もう二十年以上になるが、いつも新しい史料探している。最近は、新しい地方史関係の資料編が出版されると、図書館で内容をチェックする。時間があれば、東大史料編纂所のデータベースの検索をしている。それでも、面白いと思える史料に出会えることは、年に二、三回もあれば御の字である。 この会報では、ここ数年で出会った備後関係の面白い史料の話をしてみたい。 まず、最初に、二年半ほど前に出会った室町幕府奉公衆・四番関係の史料について述べてみたい。史料の名前は、「下津屋信秀他廿九名連署書状」(①)である。 『尊経閣古文書纂』に含まれる「吉見家文書」所収の古文書である。明応の政変で没落した前将軍足利義材に付き従った奉公衆・四番の武士達廿九人の連署書状である。 奉公衆・四番には備後の武士として、宮上野介家と信平系杉原氏が属しており、連署者の中に宮・杉原を名乗る武士達が多数確認される。以下にその姓名を挙げる。 【宮上野介家】 宮又三郎真信  宮小次郎実信 宮若狭守貞兼  宮弥太郎貞盛 宮彦次郎親孝 【信平系杉原氏】 杉原因幡入道善賢 杉原下総守盛平 杉原美濃守盛重 杉原与四郎忠平 杉原平次郎忠良 杉原次郎光盛 一般に、中世史料では武士の仮名や官途のみが記載され、実名が記載されている史料は非常に稀である、このため、戦国期に奉公衆四番に属した備後の武士達の実名を知ることができる貴重な史料である。例えば、宮実信の仮名は「小次郎」と推定されていたが、それを裏付けたのはこの史料が初めてである(②)。 筆者は長年、杉原氏の研究をしているが、この史料から杉原下総守の実名が「盛平」であることを確認して、昨年の『山城志 第二十三集』所収の「杉原信平の嫡流に関する一考察」に杉原盛平が杉原信平の嫡流であることを論証した。信平の嫡流は、備後国本郷庄を本領として「杉原流本郷氏」を称したと考えられるが(③)、『広島県史』・『福山市史』でも「杉原流本郷氏」に関しての記述は無く、信平の嫡流は「杉原流木梨氏」とされている。 これは戦国期の前半に「杉原流本郷氏」が滅んでしまい、その史料が散逸してしまったためと考えられる。 更に、『萩藩閥閲録』巻五十三「木梨右衛門八」書出しには、「杉原伯書守光平より拾壹代孫蔵人太夫道恒」以前の系譜は不明としており、木梨氏が信平の嫡流を名乗っている訳ではない。 筆者は、『山城志 第二十三集』に於いて、信平が仮名として「彦太郎」を名乗り(④)、官途として「太郎左衛門尉」を名乗っている(⑤)ことを手掛かりとして、応仁・文明の乱期に官途「太郎左衛門尉」を名乗った盛平が信平の嫡流であることを論証した。この時、『小早川家文書』所収の文明十九(一四八七)年八月二日付け「継目安堵御判禮銭以下支配状写」(⑥)に現れる「杉原本郷殿」を盛平に比定して、杉原盛平を信平の嫡流で、「本郷氏」を名乗っていたと推定した。盛平が「杉原流本郷氏」を称していたことを示す決定的な史料の欠如が、筆者の『山城志 第二十三集』の論考に於ける最大の欠点であることは認識していたが、この時点では決定的な確証を得られなかったので、推定ということで論考を纏めた。 ここ数ケ月、戦国期の山名氏の系譜を纏めてみようと思い、戦国期の備後関係の史料を調査・整理していた。この過程で、杉原盛平に関する興味深い史料を見つけた。 以下に、史料の一部を引用する。 ●史料一、『後法興院記』延徳三(一四九一)年八月廿七日の条(⑦) 八月廿七日、是日、武家出陣、相伴実門井右府、蜜々見物、大概記之、先奉行衆 松田封馬守 同主計允 同彦五郎(中略)、 警護 大和守同三郎、    同三重右京亮同佐渡三郎 杉原七郎    同本郷太郎左衛門 (後略)、 この史料は、悲運に倒れた前将軍足利義尚の意思を継いだ新将軍足利義材が六角征伐に出陣した時の軍勢を示している。この史料と足利義尚の六角征伐に関する着到と比較するために、『群書類従』所収の着到の抜粋を以下に挙げる。 ●史料二、「長享元(一四八七)年九月十二日常徳院殿様江州動座当時在陣衆着到」(⑧) 四番衆(抜粋) 畠山中務少輔政近。大和守政宗。平。大和龜法師。杉原太郎左衛門尉盛平。同三郎左衛門尉盛重。 同彦六。 大和佐渡守邦永。 大和兵庫介元継。 大和三重右京亮。 東山殿様祇候人数(抜粋) 大舘刑部大輔政重。杉原七郎。 ほぼ同時期のものである史料一と史料二から判断して、史料一に見える杉原本郷太郎左衛門は、史料二に見える杉原太郎左衛門尉盛平と同一人物と考えられる(⑨)。 つまり、史料一によって杉原盛平が本郷氏を名乗っていたことが、 一次史料によって証明されたことになる。 歴史を研究する作業は、思考の材料となる一次史料を集めて、そこから新しい仮説を立てることから始まる。次に立てた仮説を証明するために、別の視点から独立した史料を探すことになる。この仮説を立証するための史料探しは、なかなか困難であり、仮説は、確からしい仮説で終わることが多い。 今回の信平嫡流に関する仮説は、幸いにも『後法興院記』という日記の存在で大きな確証を得ることが出来た。 こういう史料の存在を探し出すことが歴史の研究の楽しみだと思っている。 今年も、また、まだ見ぬ面白い史料を探し続けることになるが、今年はどんな史料に出会えるかを楽しみにしている。 【補注】 ① 羽田聡氏「足利義材の西国廻りと吉見氏」(『学叢』25 号所収、京都国立博物館2003 年)。羽田氏によれば、この連署状の発給年次は、明応七(一四九八)年~永正七(一五一〇)年の間とされている。 ② 宮小次郎の存在は、『伊勢家書』永正六年五月廿一日の条に犬追物の射手として現れるが、その実名は確認されない。また、宮実信の実名は大永四(一五二四)年二月九日付「宮実信知行充行状」令萩藩閥閲録』巻一六八) の発給者として確認される。しかし、その仮名は確認されない。「下津屋信秀他廿九名連署書状」の存在によって初めて実信の仮名が「小次郎」であることが確認された。 ③ 「椙原信平禁制状」(「浄土寺文書二〇号」『大日本史料 第六編二十二冊』所収)の付箋に「備後本郷新庄村城主平清盛公八代孫従五位下椙原本郷殿制状」とある。 ④ 建武三年五月廿日付け杉原信平宛「足利尊氏袖判下文」(「福山志料所収文書」『県史 資料Ⅴ』所収) ⑤ (年欠)二月四日付け「重能ヵ打渡状写」(『萩藩閥閲録』「巻六七 高須惣左衛門書出」)。 ⑥『小早川家文書之二』二二〇号 ⑦東大史料編纂所『大日本史料』データベース未刊行分。 延徳三(一四九一)年八月廿七日の条。 ⑧『群書類従 第二十九輯』所収 ⑨ 足利義材の出陣に関する警護役は四番衆の大和氏と杉原氏によって勤められたと考えられる。大和守は大和政宗、大和三重右京亮は三重行佐、佐渡三郎は、大和佐渡守邦永子息と考えられる。杉原七郎は、一番衆である杉原伊賀守賢盛の嫡孫と考えられる。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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