「備陽史探訪:188号」より
瀬良 泰三
消えた旧山陽道を探る(2)
前報①で水野勝成が芦田川を改修し郷分土手を築いてそこが街道として使われる前は、その西の山際の道が当初の旧山陽道であると思われることを述べたがそこで話せていなかったことがある。山手銀山城の城下町の惣構え(城下町を守る防御施設)のことである。(銀山城から旗谷の大手道を下った三宝寺のある周辺が当時の城下町であり中枢部であったと考えられる。)
同じく前報①でその道は「大渡りから西に行き三宝寺参道に突き当たるまでは、ほぼ山際堆積地の高くなった部分を通っているが、一部低地を通っている部分もあり、そこはよく見ると山際堆積地が人為的に削られたように見える場所である」ということを述べた。
そこではこれの意味することを述べなかったが、これは銀山城城下町の防御のための掘割ではなかったかと考えられるのである。
図1は城下町周辺の標高分布地図②であるが、これを見るとこの城下町は、背後を銀山城から連なる山の尾根で囲み、それ以外の前面は全て当時この前面を流れていた芦田川とそれに連なる低湿地で囲まれる地勢となっていることがわかる。現在受ける印象の田園からなだらかに続く一集落と違い、当時は正に周囲と隔絶された場所であり要害の地であることがわかる。つまりこれがこの城下町を守る惣構えであった。
山上に銀山城があると言っても通常は城の防御要員を除く城主をはじめとする家臣や兵たちは大手である旗谷を降りたこの三宝寺周辺の館に住居していたはずであり、ここの防御も欠くべからざるものであった。当時は少しでも油断すると神辺城が藤井皓玄に乗っ取られたように常在戦場の状態であったのである。
しかし当時旧山陽道(当時正式にそう定義されていたのではないと思われるが、神辺から今津に至る往還が存在していたことは、前報からも確実である。)はこの城下町を通過しており、城下町防御のためには何らかの出入の規制処置が必要であった。詳しく見てみよう。布地図をよく見ると、 山手作られた小さな扇状地の東西に山際堆積地を山際まで人為的に削り取ったような地形がみられる。そしてその北には2ヶ所道が低湿地に降りている場所がある。
これを当時の状況で推定してみると、図1の右の模式図に示したように、当時は山壁と山麓堆積地を削り取った後に作った沼地のような低湿地ないし深田とにはさまれた道であった。(現在低地に道が下りているようなところは沼地の中に道を一本盛り上げた土橋のような状況であったのかもしれない。)
此の街道に沿って西から見ていくと、赤坂の方から東に津之郷を通ってほぼ一直線にきた街道は小田川扇状地を過ぎたところで低湿地となるため山際の方に迂回を余儀なくされる。そして「山手の峠」と言われる小高い丘を越えざるを得ない地形となっている。
地形を見てみるとこの小田川扇状地と、三宝寺のある扇状地の間は低地で分割されているが、元々は山際堆積地で繋がっていたように見える。
そしてこの低地と山際の線は、通常流れにより浸食されてできる滑らかな曲線ではなく、矩形に近い人為的に作られた形状である。※1
つまりここを削り道を山際一本に制約することにより防御の要としたのであろう。そしてこの道がまず通るところがこの「山手の峠」と呼ばれる小高くなった場所であり、その南側に現在荒神社が建っている。ここは現在埋もれてしまって表示の杭しか見えないが、三角点(四等)がある場所である。三角点があるということは、この場所はこの周囲から最も見通せる、また周囲を見通せる場所であるということであり、城下町西を警戒するに最適な場所でもある。つまりこの峠道を拒すると共に周囲も監視できる重要な場所ではなかったかと考えられる。
その為、周りを堀割り城下町に入る道をこの峠道に限定するようにしたのであろう。
そしてそこを通り過ぎるとさらに山壁と沼地との間の一本道を通らざるを得ないようにするといった二重の防御処置がとられている。
それでは東を見てみるとどうだろう。前述のように山際の微高地(山際堆積地)を削り道を山際に限定した場所、及び低地を通した場所は三ヶ所認められ、設置されている場所もこの城下町及び草木・境の両集落の出入口にあたるところに存在する。
そしてその場所は全て山体がぎりぎりまで張り出している場所であり、要害の地といえる。
これら西と東の要害に番所・関門を置くことによりこの城下町の中枢を防御するとともに、街道を行き来する人を管理し、さらには通行税も取っていたかもしれない。
図2では現在の地圏上に当時の芦田川や、街道との位置関係を書き加えたが、これを見ると現在の高台の一集落が要害の地に一変することがわかる。草木・境の集落の前後にも掘割があることを考えると、ここにも家臣=足軽=農民が居住していたとも思われる。※2
この境集落と草木集落の中間あたりの街道沿いに宮入道光音の墓といわれるものがある。正にこの隘路の両掘割のど真ん中であり、もし本当にここで討ち取られたのであれば、毛利との戦いで志川滝山城落城後ここまで逃げてきたが、前に銀山城、後ろはこの掘割という所に追い詰められ正に雪隠詰みの形で討ち取られたのであろう。※3
銀山城については文字資料はほとんどと言っても良いくらい現存していないが、このように地形から見ていくと現在と全く異なる当時の状況を想像でき、当時どのように考えてこの地に城下が造られたのかがわかってくるようである。
- ※1
- 沼隈郡志③に「濱矢場 字小田にあり。昔銀山城主杉原盛重此處に矢場を設けたる所と傳ふ」とありこの丘の西に浜矢場と呼ばれる場所があった。このあたりが水辺であったことを示しているようである。
- ※2
- この両掘割は中間の尾根上に存在する青ケ城④に関係する施設の可能性もあるが不明である。
- ※3
- 備陽六郡志⑤ではここで討ち死にしたとは聞かずとして疑問を呈しているが、こういう言い伝えがあるということは、光音では無いにしても何らかの類似の事件が有ったのであろう。
参考文献・注釈
https://bingo-history.net/archives/24079https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/021.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/021-150x150.jpg管理人中世史「備陽史探訪:188号」より
瀬良 泰三
消えた旧山陽道を探る(2)
前報①で水野勝成が芦田川を改修し郷分土手を築いてそこが街道として使われる前は、その西の山際の道が当初の旧山陽道であると思われることを述べたがそこで話せていなかったことがある。山手銀山城の城下町の惣構え(城下町を守る防御施設)のことである。(銀山城から旗谷の大手道を下った三宝寺のある周辺が当時の城下町であり中枢部であったと考えられる。) 同じく前報①でその道は「大渡りから西に行き三宝寺参道に突き当たるまでは、ほぼ山際堆積地の高くなった部分を通っているが、一部低地を通っている部分もあり、そこはよく見ると山際堆積地が人為的に削られたように見える場所である」ということを述べた。 そこではこれの意味することを述べなかったが、これは銀山城城下町の防御のための掘割ではなかったかと考えられるのである。 図1は城下町周辺の標高分布地図②であるが、これを見るとこの城下町は、背後を銀山城から連なる山の尾根で囲み、それ以外の前面は全て当時この前面を流れていた芦田川とそれに連なる低湿地で囲まれる地勢となっていることがわかる。現在受ける印象の田園からなだらかに続く一集落と違い、当時は正に周囲と隔絶された場所であり要害の地であることがわかる。つまりこれがこの城下町を守る惣構えであった。 山上に銀山城があると言っても通常は城の防御要員を除く城主をはじめとする家臣や兵たちは大手である旗谷を降りたこの三宝寺周辺の館に住居していたはずであり、ここの防御も欠くべからざるものであった。当時は少しでも油断すると神辺城が藤井皓玄に乗っ取られたように常在戦場の状態であったのである。 しかし当時旧山陽道(当時正式にそう定義されていたのではないと思われるが、神辺から今津に至る往還が存在していたことは、前報からも確実である。)はこの城下町を通過しており、城下町防御のためには何らかの出入の規制処置が必要であった。詳しく見てみよう。布地図をよく見ると、 山手作られた小さな扇状地の東西に山際堆積地を山際まで人為的に削り取ったような地形がみられる。そしてその北には2ヶ所道が低湿地に降りている場所がある。 これを当時の状況で推定してみると、図1の右の模式図に示したように、当時は山壁と山麓堆積地を削り取った後に作った沼地のような低湿地ないし深田とにはさまれた道であった。(現在低地に道が下りているようなところは沼地の中に道を一本盛り上げた土橋のような状況であったのかもしれない。) 此の街道に沿って西から見ていくと、赤坂の方から東に津之郷を通ってほぼ一直線にきた街道は小田川扇状地を過ぎたところで低湿地となるため山際の方に迂回を余儀なくされる。そして「山手の峠」と言われる小高い丘を越えざるを得ない地形となっている。 地形を見てみるとこの小田川扇状地と、三宝寺のある扇状地の間は低地で分割されているが、元々は山際堆積地で繋がっていたように見える。 そしてこの低地と山際の線は、通常流れにより浸食されてできる滑らかな曲線ではなく、矩形に近い人為的に作られた形状である。※1 つまりここを削り道を山際一本に制約することにより防御の要としたのであろう。そしてこの道がまず通るところがこの「山手の峠」と呼ばれる小高くなった場所であり、その南側に現在荒神社が建っている。ここは現在埋もれてしまって表示の杭しか見えないが、三角点(四等)がある場所である。三角点があるということは、この場所はこの周囲から最も見通せる、また周囲を見通せる場所であるということであり、城下町西を警戒するに最適な場所でもある。つまりこの峠道を拒すると共に周囲も監視できる重要な場所ではなかったかと考えられる。 その為、周りを堀割り城下町に入る道をこの峠道に限定するようにしたのであろう。 そしてそこを通り過ぎるとさらに山壁と沼地との間の一本道を通らざるを得ないようにするといった二重の防御処置がとられている。 それでは東を見てみるとどうだろう。前述のように山際の微高地(山際堆積地)を削り道を山際に限定した場所、及び低地を通した場所は三ヶ所認められ、設置されている場所もこの城下町及び草木・境の両集落の出入口にあたるところに存在する。 そしてその場所は全て山体がぎりぎりまで張り出している場所であり、要害の地といえる。 これら西と東の要害に番所・関門を置くことによりこの城下町の中枢を防御するとともに、街道を行き来する人を管理し、さらには通行税も取っていたかもしれない。 図2では現在の地圏上に当時の芦田川や、街道との位置関係を書き加えたが、これを見ると現在の高台の一集落が要害の地に一変することがわかる。草木・境の集落の前後にも掘割があることを考えると、ここにも家臣=足軽=農民が居住していたとも思われる。※2 この境集落と草木集落の中間あたりの街道沿いに宮入道光音の墓といわれるものがある。正にこの隘路の両掘割のど真ん中であり、もし本当にここで討ち取られたのであれば、毛利との戦いで志川滝山城落城後ここまで逃げてきたが、前に銀山城、後ろはこの掘割という所に追い詰められ正に雪隠詰みの形で討ち取られたのであろう。※3 銀山城については文字資料はほとんどと言っても良いくらい現存していないが、このように地形から見ていくと現在と全く異なる当時の状況を想像でき、当時どのように考えてこの地に城下が造られたのかがわかってくるようである。 ※1
沼隈郡志③に「濱矢場 字小田にあり。昔銀山城主杉原盛重此處に矢場を設けたる所と傳ふ」とありこの丘の西に浜矢場と呼ばれる場所があった。このあたりが水辺であったことを示しているようである。
※2
この両掘割は中間の尾根上に存在する青ケ城④に関係する施設の可能性もあるが不明である。
※3
備陽六郡志⑤ではここで討ち死にしたとは聞かずとして疑問を呈しているが、こういう言い伝えがあるということは、光音では無いにしても何らかの類似の事件が有ったのであろう。 参考文献・注釈 ①瀬良泰三:備陽史探訪,187(2015),P4
②標高分布地図:国土地理院・色別標高図を加工
③沼隈郡志(1923),P700
④田口義之:備陽史探訪,176(2014),P1
⑤備陽六郡志:備後叢書,2(1928),P288管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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