「備陽史探訪:183号」より
岡田 宏一郎
里道や土手道また農地の間の道を歩いていると自然石に大きく「地神」と刻まれた地神碑を見かける。これにしめ縄が巻かれ紙垂が下がっているのを見かける事があるから気になる風景である。そうした地神碑は広島県東部、中でも福山地域に広く分布している。これに関心を持っていたから、以前「御尋ね申し上げ候」のコーナーにて地神碑について尋ねたのだが、まったく「反応がなかった」。だから地神碑については興味・関心が低い分野なのだろうと思っていた。そこで自分で分かる範囲で調べてみようと思い現在分かっている事について書いてみました。
一番気になっていることだが、なぜ福山地域には地神碑が多く分布しているのか?その理由については分からなかった。松永地域の地神碑については、松永町も今津町でも見かけた事がない。だが『福山市金江町誌』には金江町内の地域にある地神碑について次のように書いてある。
藁江字中開きにあり、御大典記念として建立した。昭和三年十一月
とある。また
字安土の辻堂屋敷内にあり、地神と彫る自然石を祭神とす。地神の字は本郷村・昌源寺の和尚の書といわれている石の高さは約1.5m。お祭りは社日の日に、田中組により、続けられているが、お参りする人は少ない
とある。その他、本谷には二基あり、その一基には「明治四十四年四月吉日 箱田田為十郎の彫がある」浜上にある碑には「大正十四年年八月四日 村上保吉」と刻まれている。近居にある地神碑には「昭和五年に建立」とある。奈良木の碑は「昭和三年十月十七日建立」である。平田には「金刀比羅宮の東に並べ祀られている。碑には大正十二年三月二十六日・平田青年団建之」とある。この地神碑は武甕槌神社境内の広場に僅かに頭だけ出して埋もれていたのを掘出し、祀ったものである。隣接している町内の柳津町や藤江町については調べていないが、金江町の各集落にあるのだから探索すれば確認できると思っている。
神村町には三基の地神碑を確認している。一基は旧山陽道の道沿いの神村二区にあり、五区の団地北側の里道にも一基あり、これには建立年を「明治卅年 五月吉日」と判読した。残る一基は大日堂の敷地内にある。もっと調べればあるかもしれないが現在確認しているのはこの三基である。隣の尾道では地神碑は見かけたことがないし知人に聞いても知らない、見かけないとの答えばかりだった。なぜ尾道地域に地神碑がないのか、その理由がわからないのである。ただ尾道市御調町の『御調町の石造物(1)』の中に1か所だけ「地神社の石塔」について書かれていた。その地神碑には通常刻まれていない建立年が刻まれていて「明治四年三月」とある。尾道の旧市内や向島には地神碑は見かけていないのでこの項目には注目した。
福山地域には地神碑が多く残っていてよく祀られている。その理由として『福山市農協十周年』(昭和50年)の中に次のように書かれている。
父祖伝来の敬神、大地自然の恵みへの感謝はいつの時代でもたいせつであり、特に農耕、養畜に従事する者は、地神社の神意を畏敬したいものである。地神社は八幡社に並んで古くから地方住民に親しみ拝まれ、春秋の社日には隣保の人たちが供えた神酒と手作りの季節料理を飲食し、よもやま話に花を咲かせながら、共存共栄、相互扶助を誓い合ったものである。この趣旨をいつまでも大切に後世に残したいことから、市農協は地域に散在して祭られている地神社の祭祀にお供えとして、昭和四十八年三月、約三百八十万円支出した
とある。昭和48年当時農協地域内には地神碑が329社祀られていたという。福山の新開地域の干拓は江戸期であるから、地神碑や地神信仰もこの時期以降であろうと判断したのだが、どうだろうか?
さて都市化・農地の住宅化が進む中、現在も残っている地神碑は幾つあるだろうか?
地神碑には創建期や由来、建立者の名前が通常はないのだが、沼隈町の地神碑には建立年が刻まれているのが多くある。『沼隈町誌 民俗編』を見ると「沼隈町内には39基の地神さんがある」と書かれているのだが建立年は明治以降である。39基のうち23基の地神碑には建立年が刻まれている。また県内の地神もほとんどこの時期以降であるという。建立者はほとんど氏子であるが沼隈町常石の地神さん(明治24年)にはただ一基だけ「寄付者 沼隈郡横島邑 村上弥之助」の名前が刻まれている。地神に使われている石材については「花崗岩と閃緑岩」がほぼ半数となっている。
沼隈の地神碑の中で建立年が最も古いのは明治24年で、明治41年までに合計14基に建立年が刻まれた地神碑がある。大正期には大正3年・11年・14年と3基あり、昭和の建立年は3年から昭和61年までで6基ある。その他は年代がないためいつの時代のものか不明である。町内の地神39基のうち1基だけが常石の海岸沿いの集落にあるだけで、他は海岸沿い以外の内陸部の集落にあることから地神が農耕とかかわりが深く海とのかかわりが少ないことによるものであろう。地神は集落住民(村人)たちが信仰心で結ばれ、自然の発露で地神碑が集落地に建てられたものであろうと考えている。
こうして祀られている地神碑は自然石であるが、岡山県南部一帯では五角形の石柱が地神碑として多く分布している。この五角形の地神碑の側面には「天照大神・倉稲魂命・埴安媛(姫)命・大己貴命・少彦名命」の五神名が刻まれている。地神碑は村道や耕地の道端にあるだけではない。地蔵尊や辻堂のそばでも見かける事があり、笹竹が立てられしめ縄が巻かれていることから今でもこの地域では人々による地神講によって祀られていること思っている。地神信仰と田の神の信仰は類似点が多くみられると云われる。
因島、向島、岩子島、生口島」あたりに現存する『地祝い』の信仰と、田の神信仰の形は全く同一といっていいほど近似している
と神田三亀男氏は『ふるさと広島の民俗』(広島民俗第三十一号)の中で述べている。また
因島市重井町(現尾道市)や豊田郡瀬戸田町(現尾道市)には地神祭りという信仰行事が毎年一月十一日に行われている。この地方には、碑神は一基もない。祭りも社日でなく、一月十一日と決まっている
また
重井の地神祭りは、農家主体のもの
と書かれている。
『文化財ふくやま 第22号』(地神さまによせて 藤井恒太郎)の中で
地神さんは農耕の神として祀り、小集落の農家ごとに地神講がつくられている。地神講では、春分・秋分の日にもっとも近い戊の日を社日と決めその日を『お社日様』と呼び土地の神、五穀の神を祀り祝う
と書いている。
さらに『沼隈町誌 民俗編』の中にも
この地神さんは土の神とされ、農民を守り、稲の生長を助け、豊かな実りを保証した。人びとは地神さんに手を合わせ、供え物をし、春と秋の二回、彼岸の中日に近い戊の日(社日)に講中の全戸が集まって行った。この祭りの日、人びとは農作業や土いじりを休み、当番は注連縄を張り替えて幟を立て、米や酒などを供えて準備し、神職が祝詞をあげ参拝者が御神酒をいただいて神事を終える。神事が終わると当屋や集会所に集まり、当番が準備した煮しめや豆腐汁などで会食をした。また、講によっては当番が集めた米でにぎり飯を作って地神さんに供え、お参りしてきた子どもにこれを配るところもあった
と書かれている。
また同じようなことを『文化財ふくやま 第21号』(福山の地神まつり 来山米三)の中でも紹介していて、この中の「福山市の地神さん」の表には地域ごとの地神碑の数が掲載されているから興味深い資料だと思っている。
まだまだ分からないことが多くあるからみなさんの指摘や教示をお願いしたいものです。
【引用及び参考文献・資料】
- 「地神信仰あれこれ」神田三亀男 『ふるさと広島の民俗』広島地域文化研究所
- 『福山市農協十周年誌』沼隈町誌民俗編
- 『文化財ふくやま第21号』
- 『文化財ふくやま第22号』
- 『岡山の地神様 五角形の大地の神』吉備人出版
- 『沼隈町の石造物 町誌編さん資料第一集』沼隈町誌編さん委員会
- 『民俗學辞典』民俗学研究所編・『御調町の石造物(1)』
- 『福山市金江町誌』
https://bingo-history.net/archives/18359地神碑について(なぜ福山地域には地神碑が多く分布しているのか)https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2015/04/d95ce7383880bf273c7b426f49d81088.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2015/04/d95ce7383880bf273c7b426f49d81088-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:183号」より
岡田 宏一郎
里道や土手道また農地の間の道を歩いていると自然石に大きく「地神」と刻まれた地神碑を見かける。これにしめ縄が巻かれ紙垂が下がっているのを見かける事があるから気になる風景である。そうした地神碑は広島県東部、中でも福山地域に広く分布している。これに関心を持っていたから、以前「御尋ね申し上げ候」のコーナーにて地神碑について尋ねたのだが、まったく「反応がなかった」。だから地神碑については興味・関心が低い分野なのだろうと思っていた。そこで自分で分かる範囲で調べてみようと思い現在分かっている事について書いてみました。 一番気になっていることだが、なぜ福山地域には地神碑が多く分布しているのか?その理由については分からなかった。松永地域の地神碑については、松永町も今津町でも見かけた事がない。だが『福山市金江町誌』には金江町内の地域にある地神碑について次のように書いてある。
藁江字中開きにあり、御大典記念として建立した。昭和三年十一月
とある。また
字安土の辻堂屋敷内にあり、地神と彫る自然石を祭神とす。地神の字は本郷村・昌源寺の和尚の書といわれている石の高さは約1.5m。お祭りは社日の日に、田中組により、続けられているが、お参りする人は少ない とある。その他、本谷には二基あり、その一基には「明治四十四年四月吉日 箱田田為十郎の彫がある」浜上にある碑には「大正十四年年八月四日 村上保吉」と刻まれている。近居にある地神碑には「昭和五年に建立」とある。奈良木の碑は「昭和三年十月十七日建立」である。平田には「金刀比羅宮の東に並べ祀られている。碑には大正十二年三月二十六日・平田青年団建之」とある。この地神碑は武甕槌神社境内の広場に僅かに頭だけ出して埋もれていたのを掘出し、祀ったものである。隣接している町内の柳津町や藤江町については調べていないが、金江町の各集落にあるのだから探索すれば確認できると思っている。 神村町には三基の地神碑を確認している。一基は旧山陽道の道沿いの神村二区にあり、五区の団地北側の里道にも一基あり、これには建立年を「明治卅年 五月吉日」と判読した。残る一基は大日堂の敷地内にある。もっと調べればあるかもしれないが現在確認しているのはこの三基である。隣の尾道では地神碑は見かけたことがないし知人に聞いても知らない、見かけないとの答えばかりだった。なぜ尾道地域に地神碑がないのか、その理由がわからないのである。ただ尾道市御調町の『御調町の石造物(1)』の中に1か所だけ「地神社の石塔」について書かれていた。その地神碑には通常刻まれていない建立年が刻まれていて「明治四年三月」とある。尾道の旧市内や向島には地神碑は見かけていないのでこの項目には注目した。 福山地域には地神碑が多く残っていてよく祀られている。その理由として『福山市農協十周年』(昭和50年)の中に次のように書かれている。
父祖伝来の敬神、大地自然の恵みへの感謝はいつの時代でもたいせつであり、特に農耕、養畜に従事する者は、地神社の神意を畏敬したいものである。地神社は八幡社に並んで古くから地方住民に親しみ拝まれ、春秋の社日には隣保の人たちが供えた神酒と手作りの季節料理を飲食し、よもやま話に花を咲かせながら、共存共栄、相互扶助を誓い合ったものである。この趣旨をいつまでも大切に後世に残したいことから、市農協は地域に散在して祭られている地神社の祭祀にお供えとして、昭和四十八年三月、約三百八十万円支出した
とある。昭和48年当時農協地域内には地神碑が329社祀られていたという。福山の新開地域の干拓は江戸期であるから、地神碑や地神信仰もこの時期以降であろうと判断したのだが、どうだろうか? さて都市化・農地の住宅化が進む中、現在も残っている地神碑は幾つあるだろうか? 地神碑には創建期や由来、建立者の名前が通常はないのだが、沼隈町の地神碑には建立年が刻まれているのが多くある。『沼隈町誌 民俗編』を見ると「沼隈町内には39基の地神さんがある」と書かれているのだが建立年は明治以降である。39基のうち23基の地神碑には建立年が刻まれている。また県内の地神もほとんどこの時期以降であるという。建立者はほとんど氏子であるが沼隈町常石の地神さん(明治24年)にはただ一基だけ「寄付者 沼隈郡横島邑 村上弥之助」の名前が刻まれている。地神に使われている石材については「花崗岩と閃緑岩」がほぼ半数となっている。 沼隈の地神碑の中で建立年が最も古いのは明治24年で、明治41年までに合計14基に建立年が刻まれた地神碑がある。大正期には大正3年・11年・14年と3基あり、昭和の建立年は3年から昭和61年までで6基ある。その他は年代がないためいつの時代のものか不明である。町内の地神39基のうち1基だけが常石の海岸沿いの集落にあるだけで、他は海岸沿い以外の内陸部の集落にあることから地神が農耕とかかわりが深く海とのかかわりが少ないことによるものであろう。地神は集落住民(村人)たちが信仰心で結ばれ、自然の発露で地神碑が集落地に建てられたものであろうと考えている。 こうして祀られている地神碑は自然石であるが、岡山県南部一帯では五角形の石柱が地神碑として多く分布している。この五角形の地神碑の側面には「天照大神・倉稲魂命・埴安媛(姫)命・大己貴命・少彦名命」の五神名が刻まれている。地神碑は村道や耕地の道端にあるだけではない。地蔵尊や辻堂のそばでも見かける事があり、笹竹が立てられしめ縄が巻かれていることから今でもこの地域では人々による地神講によって祀られていること思っている。地神信仰と田の神の信仰は類似点が多くみられると云われる。
因島、向島、岩子島、生口島」あたりに現存する『地祝い』の信仰と、田の神信仰の形は全く同一といっていいほど近似している
と神田三亀男氏は『ふるさと広島の民俗』(広島民俗第三十一号)の中で述べている。また
因島市重井町(現尾道市)や豊田郡瀬戸田町(現尾道市)には地神祭りという信仰行事が毎年一月十一日に行われている。この地方には、碑神は一基もない。祭りも社日でなく、一月十一日と決まっている
また
重井の地神祭りは、農家主体のもの
と書かれている。 『文化財ふくやま 第22号』(地神さまによせて 藤井恒太郎)の中で
地神さんは農耕の神として祀り、小集落の農家ごとに地神講がつくられている。地神講では、春分・秋分の日にもっとも近い戊の日を社日と決めその日を『お社日様』と呼び土地の神、五穀の神を祀り祝う
と書いている。 さらに『沼隈町誌 民俗編』の中にも
この地神さんは土の神とされ、農民を守り、稲の生長を助け、豊かな実りを保証した。人びとは地神さんに手を合わせ、供え物をし、春と秋の二回、彼岸の中日に近い戊の日(社日)に講中の全戸が集まって行った。この祭りの日、人びとは農作業や土いじりを休み、当番は注連縄を張り替えて幟を立て、米や酒などを供えて準備し、神職が祝詞をあげ参拝者が御神酒をいただいて神事を終える。神事が終わると当屋や集会所に集まり、当番が準備した煮しめや豆腐汁などで会食をした。また、講によっては当番が集めた米でにぎり飯を作って地神さんに供え、お参りしてきた子どもにこれを配るところもあった
と書かれている。 また同じようなことを『文化財ふくやま 第21号』(福山の地神まつり 来山米三)の中でも紹介していて、この中の「福山市の地神さん」の表には地域ごとの地神碑の数が掲載されているから興味深い資料だと思っている。 まだまだ分からないことが多くあるからみなさんの指摘や教示をお願いしたいものです。 【引用及び参考文献・資料】 「地神信仰あれこれ」神田三亀男 『ふるさと広島の民俗』広島地域文化研究所
『福山市農協十周年誌』沼隈町誌民俗編
『文化財ふくやま第21号』
『文化財ふくやま第22号』
『岡山の地神様 五角形の大地の神』吉備人出版
『沼隈町の石造物 町誌編さん資料第一集』沼隈町誌編さん委員会
『民俗學辞典』民俗学研究所編・『御調町の石造物(1)』
『福山市金江町誌』管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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近世福山の歴史を学ぶ