「備陽史探訪:107号」より
小林 定市
福山市民に最もよく知られている、福山城や明王院に草戸千軒は、多くの学者によって研究し尽くされているようでも、まだ解明されていない文化財が残されている。
一、福山藩主の寄付石
草戸山山麓に見られる、秀麗な観音堂と五重塔は六百数十年経た建造物で、堂塔の維持管理と修理費用は膨大な金額を必要としていた。
明王院の山門に登る参道石段下の間魔堂の反対側に、福山藩主阿部正精が修理料を寄付した際の石碑が参拝者によく見えるように建てゝある。寄付石の規模は、棹の高さ百八十cm、横幅三六cm×三六cm、自然石の台石の高さは三五cmあり、堂々とした風格ある石碑の四面に下記の刻字がある。
御寄附
畑地 壹町四反拾五歩
文政元年(一八一八)戊寅九月
御祈願所 明王院御修理料
阿部正精(一七七四~一八二六)は、文化三年に寺社奉行となり十四年に老中、寄付をした文政元年には侍従に昇進している。正精は文化二年(一八〇五)に義倉を設立し『福山志料』を編纂させ、文政元年には『御問状答書』を幕府に提出した好学の大名で地方文化を高揚させた。
明王院修理費用は膨大な額になっていたようで、天保三年(一八三二)の「五重塔修復草稿」によると、「当院境内普請の儀は、文政元年寅年に御修復の御趣法を仰付させられ有難く御請け仕り、年々破損の場所を取繕い罷り在り候ところ、去る子年(文政十一年・一八二八)台風の節塔五重目の屋根破損仕り候」と、藩主阿部家の寄付畑を御趣法と記し、台風で破損した五重塔の最上階の屋根修復を四年後に完成させている。
工事に従事した、大工・左官・手伝い人夫等の延べ総人数は、千八百五十人で銀三貫三百匁を必要とした。総経費は銀約七貫目弱という大金が必要となり、寺側が修理費用として用立てできたのは銀二貫目で、残り銀五貫目が工面できず藩に拝借嘆願書を提出している。
二、明王院境内の石碑
明王院の境内に安置されている中世の墓石群(市重文・七十数基)は、昭和五年の芦田川改修工事中に地底から発見され、後に明王院に移されたもので、その墓石群の中に一基だけ墓石でない年代の異なる角石碑が建っている。石碑の大きさは高さ一一〇cm・横二一cm×二一cmあった。
別当 能島屋文助
明王院現住燈剛代 東屋庄助
奉寄附
畑壹反壹畝壱拾歩 高五斗八升
御大守御武運長久井講中安榮
永代正五九月 護麼共修行
文久二(一八六二)壬成二月建立
世話人 藤中屋勘蔵
講 中 福田屋吉兵衛
住僧燈剛(一八一六~一八七六九・十五)は、備中國稲木村(井原市)の三島家の出身で名を蓮成と称し、明王院の十八世住職として法灯を継承し権僧正に累進している。
現在石碑は参拝者から見えにくい場所に建てられているが、建立当初は多くの人達から見やすい場所に建てられていたはずで、芦田川中州の墓石群の上に建てられていた可能性もある。
三、土木工事で出土した寄付石
草戸町法音寺の少し東南に当る、竃神社と木之山神社の祠が祀られている山麓近くに、広島県が「治山事業山腹土留工事」として、傾斜地の大規模な地滑り対策工事を行なった跡地に古い石碑が新しく建っている。
工事中に土中から出土したのであろうか、工事で盛り土の上に江戸時代末に造られた石碑が建っている。角石碑の大きさは、高さ一〇五cm・横二四cm×二四cmで四面に刻字が見られる。
大黒天趣法畑
壹反式畝拾七歩 高三斗七升七合
文久三年(一八六三)癸亥二月建立
明王院現住燈剛代
趣法畑とは藩主の寄進を意味する用語のようで、石碑が建っている場所近くの一反二畝余りの畑地が、藩主から寄進されたことを記念して造立された石碑と考えられる。
石碑だけが建立されたのでなく、同地の近くに昔年大黒天を祀った小社があった。石碑と社は同時期に造られたらしいが、社は老朽化し何時しか損壊して姿を消したようである。
四、「開運」大黒天陽刻石碑
明王院の観音堂と五重塔の中間奥に、貧民救済の願をこめた燈剛和尚の「開運」大黒天陽刻碑が建っている。正面の上部には日天・月天の陽刻、次に開運の朱文字、大黒天の陽刻、空海の文字と空海らしき花押が見られる。
長文の作者は門田重隣・書は子息の重長である。建立された年は文久四年甲子正月、樟石は高さ一七〇cm・横四〇cm×三九cm、自然石の台石は高さ約七五cm総高二四五cmの立派な石碑である。石碑の研究文は、『文化財ふくやま・第二八号』に発表されているので省略する。
次に、開運大黒天陽刻碑の横ある角石碑について、石碑の大きさは、高さ一一六cm・横二三cm×二三cm、自然石の台石の高さは約四〇cmある。
奉祈念 大黒天
福山城主 壽算無窮
武威四振 衆臣和同
現住燈剛 (建立年不詳)
一天四海 安穏泰平
風雨順時 五穀豊盈
建立年代は不明であるが、大黒天と関連した石碑であることから文久年中(一八八一~一八六三)の頃に造られた石碑と推定する。
燈剛和尚は大黒天に祈念し、阿部家の末永い繁栄と平和に続いて、領内の無事と世の中が治まり五穀が豊かに満ちることを願っていた。
https://bingo-history.net/archives/11555https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2002/06/1d512a710bea35812e8faa5165646262.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2002/06/1d512a710bea35812e8faa5165646262-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:107号」より
小林 定市 福山市民に最もよく知られている、福山城や明王院に草戸千軒は、多くの学者によって研究し尽くされているようでも、まだ解明されていない文化財が残されている。 一、福山藩主の寄付石
草戸山山麓に見られる、秀麗な観音堂と五重塔は六百数十年経た建造物で、堂塔の維持管理と修理費用は膨大な金額を必要としていた。 明王院の山門に登る参道石段下の間魔堂の反対側に、福山藩主阿部正精が修理料を寄付した際の石碑が参拝者によく見えるように建てゝある。寄付石の規模は、棹の高さ百八十cm、横幅三六cm×三六cm、自然石の台石の高さは三五cmあり、堂々とした風格ある石碑の四面に下記の刻字がある。 御寄附
畑地 壹町四反拾五歩
文政元年(一八一八)戊寅九月
御祈願所 明王院御修理料 阿部正精(一七七四~一八二六)は、文化三年に寺社奉行となり十四年に老中、寄付をした文政元年には侍従に昇進している。正精は文化二年(一八〇五)に義倉を設立し『福山志料』を編纂させ、文政元年には『御問状答書』を幕府に提出した好学の大名で地方文化を高揚させた。 明王院修理費用は膨大な額になっていたようで、天保三年(一八三二)の「五重塔修復草稿」によると、「当院境内普請の儀は、文政元年寅年に御修復の御趣法を仰付させられ有難く御請け仕り、年々破損の場所を取繕い罷り在り候ところ、去る子年(文政十一年・一八二八)台風の節塔五重目の屋根破損仕り候」と、藩主阿部家の寄付畑を御趣法と記し、台風で破損した五重塔の最上階の屋根修復を四年後に完成させている。 工事に従事した、大工・左官・手伝い人夫等の延べ総人数は、千八百五十人で銀三貫三百匁を必要とした。総経費は銀約七貫目弱という大金が必要となり、寺側が修理費用として用立てできたのは銀二貫目で、残り銀五貫目が工面できず藩に拝借嘆願書を提出している。 二、明王院境内の石碑
明王院の境内に安置されている中世の墓石群(市重文・七十数基)は、昭和五年の芦田川改修工事中に地底から発見され、後に明王院に移されたもので、その墓石群の中に一基だけ墓石でない年代の異なる角石碑が建っている。石碑の大きさは高さ一一〇cm・横二一cm×二一cmあった。 別当 能島屋文助
明王院現住燈剛代 東屋庄助
奉寄附
畑壹反壹畝壱拾歩 高五斗八升
御大守御武運長久井講中安榮
永代正五九月 護麼共修行
文久二(一八六二)壬成二月建立
世話人 藤中屋勘蔵
講 中 福田屋吉兵衛 住僧燈剛(一八一六~一八七六九・十五)は、備中國稲木村(井原市)の三島家の出身で名を蓮成と称し、明王院の十八世住職として法灯を継承し権僧正に累進している。 現在石碑は参拝者から見えにくい場所に建てられているが、建立当初は多くの人達から見やすい場所に建てられていたはずで、芦田川中州の墓石群の上に建てられていた可能性もある。 三、土木工事で出土した寄付石
草戸町法音寺の少し東南に当る、竃神社と木之山神社の祠が祀られている山麓近くに、広島県が「治山事業山腹土留工事」として、傾斜地の大規模な地滑り対策工事を行なった跡地に古い石碑が新しく建っている。 工事中に土中から出土したのであろうか、工事で盛り土の上に江戸時代末に造られた石碑が建っている。角石碑の大きさは、高さ一〇五cm・横二四cm×二四cmで四面に刻字が見られる。 大黒天趣法畑
壹反式畝拾七歩 高三斗七升七合
文久三年(一八六三)癸亥二月建立
明王院現住燈剛代 趣法畑とは藩主の寄進を意味する用語のようで、石碑が建っている場所近くの一反二畝余りの畑地が、藩主から寄進されたことを記念して造立された石碑と考えられる。 石碑だけが建立されたのでなく、同地の近くに昔年大黒天を祀った小社があった。石碑と社は同時期に造られたらしいが、社は老朽化し何時しか損壊して姿を消したようである。 四、「開運」大黒天陽刻石碑
明王院の観音堂と五重塔の中間奥に、貧民救済の願をこめた燈剛和尚の「開運」大黒天陽刻碑が建っている。正面の上部には日天・月天の陽刻、次に開運の朱文字、大黒天の陽刻、空海の文字と空海らしき花押が見られる。 長文の作者は門田重隣・書は子息の重長である。建立された年は文久四年甲子正月、樟石は高さ一七〇cm・横四〇cm×三九cm、自然石の台石は高さ約七五cm総高二四五cmの立派な石碑である。石碑の研究文は、『文化財ふくやま・第二八号』に発表されているので省略する。 次に、開運大黒天陽刻碑の横ある角石碑について、石碑の大きさは、高さ一一六cm・横二三cm×二三cm、自然石の台石の高さは約四〇cmある。 奉祈念 大黒天
福山城主 壽算無窮
武威四振 衆臣和同
現住燈剛 (建立年不詳)
一天四海 安穏泰平
風雨順時 五穀豊盈 建立年代は不明であるが、大黒天と関連した石碑であることから文久年中(一八八一~一八六三)の頃に造られた石碑と推定する。 燈剛和尚は大黒天に祈念し、阿部家の末永い繁栄と平和に続いて、領内の無事と世の中が治まり五穀が豊かに満ちることを願っていた。 管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。
近世福山の歴史を学ぶ