備後国藁江港の所在地

備陽史探訪:179号」より

矢田 貞美


藁江港の具体的な所在地を特定できる史料は見当たらないが、旧藁江村の地名、地形および井戸水に関する古伝などから藁江の大字「船津」がこれに該当するものとして推定される(1、2)。しかし、これよりも若干南西に位置する別地との説(3)もみられるので、改めて概略を紹介し、諸兄のご批判を仰ぎたい。
 

一 藁江庄の庄域と庄名

庄域

藁江庄の庄域は、金江八幡神社の祭祀圏から福山市金江町金見・藁江、同市藤江町、尾道市浦崎町、福山市内常石村付近まで含まれる広大な庄園であったと考えられている。

即ち、実蔵坊(福山市金江町)の住所引継書によると(1)、二宮 野島厳島神社、三宮 浜上大将神社、遷宮所 内常石村八幡神社とあり、更に金江八幡神社が一番祭(旧八月十四日)の太鼓を打たなければ、内常石村八幡神社の祭りは開始できなかった。そこで、金江八幡神社の太鼓が鳴ったら内常石村の同神社にその旨伝令されていたと伝承されており、藁江庄には内常石村付近まで含まれていたと考えられている。

庄名

藁江庄の庄名は、承安元年(一一七一)十二月十二日付けで下された官宣旨案(4)に初見され、以降、養和元年(一一八一)十二月二日の後白河院下文案(5)、建久元年(一一九〇)十二月日の御白河院庁下文案(4)、天福元年五月日備後国藁江庄訴事「寛喜二年(一二三〇)五月日の石清水八幡宮寺所司等申状案」(4)、養和元年(一一八一)十二月二日御白河院麾下文案(6)、文安元年(一四四四)三月二三日付の藁江庄大貳請文(5)、文安三年(一四四五)正月廿六日付の藁江庄社家分鹽濱帳(石清水文書二六三)などに、「備後国神村庄」とともに、または単独で「備後国藁江庄」として記されている。
 以上の諸書状によると、藁江庄は神村庄(御調郡御調町に比定される)とともに山城石清水八幡宮寺宝塔院領であったことが分かる。

二 藁江港は山名国料船専用

備後の草津港

福山市の芦田川に架かる神島橋から芦田川西の土手の県道を鞆方面に少し進んだところにある中洲から土手西側の明王院までの一帯を草津、草土、草出、草出津などと呼称し、「港」ないし「港町」を想起させる地名が存在した。この草津は、常福寺(現、明王院)の門前町とも港町とも推定され、後配地の長和庄の年貢積出しや生活・商業物資の積出・積降し港として草津港が存在したと推定されている(7)。しかし、文安年代には芦田川上流からの土砂の流入で遠浅となり、草津港には大型船の着岸が困難であったと推察される。

藁江港の利用実態

遣唐船の笑雲入唐記(宝徳三年(一四五一))によると、尾道港から備後の赤銅を、また、遣明船の戌子入明記「応仁二年(一四六八)頃」によると、尾道港から銅十駄(一駄は丗六貫)を輸出している。当時、備南には沼隈郡新庄本郷村の他、同郡赤坂村長者原・勝負の各銅山が開発されていたものと推定される(赤坂村誌8)。

文安二年(一四四五)から三年(一四四六)に亘る「兵庫北関入船納帳」記載の船籍地名と延べ入港艘数をみると、備後では尾道六十一艘、藁江五十四艘、三庄(因島)五十三艘、田島十九艘、鞆十七艘、三原三艘とあり、文安年代の草津港(草戸に比定される(9、10))は既に水深が浅く大型船の入港は困難で、松永湾の藁江港は数百石の大型船の入港が可能なためか尾道港に次いで栄えており、また藁江籍の八艘は悉く国料または山名殿国料と記されており、藁江港は備後の国料船専用の港湾と推定されている(11)。

国料船とは三冠四職家守護の在京用途に宛てられる船のことで免税特権があり、備後の場合、守護所神辺城に近い草津港ではなく、藁江港から積出されたと推定されている(11)。とすれば、国内外向けとして、新庄本郷の赤銅や銅の積出しには尾道港の他、藁江港も利用されたものと推察される。 

藁江港は、遺芳(松永)湾の奥に位置するため潮流は緩く、船津の岬の北側は小さな半島状であるから、三方向からの北風・東風・南風を防げる良港であったが故に、備後の国料船専用の港湾として機能していたものと推察される(11)。
  

三 藁江港

藁江港

藁江港には瀬戸内を航行する船が瀬戸内随一の良質な船津の井戸水を求めて入港しており、その井戸は船津団地の北側にあった(12)。船津は往古には、浜上宇根から天津沖に突き出た小さな半島状の岬(長さ約四〇〇×幅約一五〇×標高二十六㍍)であったと推定される(以降、船津の岬と称する)。船津公園の石碑によると、この船津の丘陵は昭和四十二年から昭和五十年頃、松永湾を埋立てて、船津の西方に位置する柳津町の木工団地を造成するため削土され、現在ではほぼ平地となっている。

なお、国語辞典によると、岬とは海に突き出た陸地の先端部で、半島に比べて小さく、硬い岩石の部分が浸食され残った山地の場合が多い。 船津の豊富で良質な井戸水:この船津の岬には地下に水道があり、良質な水が水田脇の小池(二間四方)にコンコンと湧き出ており、現在も民家の一部ではこの良質で豊富な井戸水が利用されている。地元の古老によると、船津の岬は削平されるまで旧海岸沿いに相当数の個人や共同の井戸があったと伝え、共同井戸が四本現存する。また、現在でも各戸には井戸がほぼあることは、井戸水が豊富で良質なためであろう。この地下の水道の水源は船津の岬の東方にある「本谷」の山々の降水と推察される。

船津の北側四、五百㍍のところにある金江小学校運動場南の水田より、時折、砥石が出土するが、この砥石は船津の水を求めて入港した船が方向を誤って浜上の湾奥へ入り込み、座礁難破した当時の船の積荷と伝える(12)。

四 藁江港の所在地の比定

藁江港の所在地は比定されていないが、物資の集散、水や船荷の積込作業の利便性と作業員の確保の難易性などを考慮すると、下記に示すように船津の岬辺りが有力で、次に柳津辺りもその候補地と推察される(地図参照)。    

なお、「船津」には港湾、「ふなつき」の語意があり、藁江港は金江町の字「船津」またはその近傍にあったものと考えられる。

船津岬の先端説

福山市金江町字船津の「船津の岬」は現在でも良質な地下水が豊富で、この井戸水を求めて大型船が入港していたので物資の有力な積出港であったと考えられる。なかでも船津岬の先端は、守護所神辺を中心とした物資の集散に若干の問題があることを勘案しても、岩礁地なので大型船の係留施設、並びに着岸に必要な港湾の建設が比較的容易であり、この岬の先端辺りは湾の奥より水深が一般に深い。水と物資の積込みが同時に可能なので港湾としての利便性が高く、積載により喫水の低下に耐えられる水深の確保は容易であったものと、下記より推察される。

江戸時代、金江村の海岸には郷蔵が築造され、上納米を郷蔵前から船積輸送していたので比較的大きな船の入港着岸が可能であったと思われる。即ち、郷蔵は、藁江村には平田才ヶ内の弁天さんの境内および平田クラブの屋敷辺りに、また金見村には浜上の常夜灯辺りにあったと伝承される。

藁江の湾岸は、後背地の開発に伴って土砂が流入し急速に遠浅になったが、山名氏の国料船の専用港であった文安年代(一四四四から一四四八)には大型船が比較的容易に入港できたものと推察される。

柳津の湾岸説

物資の集散の便を考えると、藁江港は市場組の地名が残っており、当時、藁江庄に隣接し、松永湾岸の市街地の中心地であったと推定される柳津西の貴船荒神社から王子神社辺りの湾岸も候補地として浮上する。前記の難破船は柳津辺りに所在した藁江港から出航し上方を目指したが、方向を誤り座礁したと見ることもできる。この辺りは小さな新川と少し離れた羽原川以外には河川はなく、往古には人口が少ないため宅地、耕地および山林伐採なども少なかったと考えられるので土砂の流入も少ないから水深は深かったと思われる。

また、昭和初期まで柳津港は水深が深く松永湾唯一の良港として貨物船が出入りしていたことから(13)、往古には大型船の入港が可能であったと推定される。しかも、この地は新庄および府中方面へ、また藁江峠を越えて備後草津、赤坂および神辺方面への陸路の要衝の地でもある。

ところが、柳津辺りには大型船のための大量の良質な飲料水の確保は困難であったと考えられるから大型船に対応できる港湾の建設には不向きと思われる。

今津説

藁江庄の船津(港湾)は、石清水八幡宮の分霊社・神村八幡神社が鎮座している辺りの今津に比定されるとの説もあるが(10)、今津は藁江庄から離れており、藁江港と呼ぶには無理があること、本郷川及び藤井川上流からの土砂の流入で水深が浅く、大型船の入港は不可能であったものと推察される。

しかも、「今津」は新しい津(港)との語意を持ち、従来の津「津之郷」に対する呼称であり(14)、従来の津之郷、深津、奈良津および草津などに対して、新に「今津」と命名されたものと推察される。

織機城跡の東方の入江説

船津岬からも近い織機城跡(福山市藤江町)の東に位置する、北から南に入り込んだ入江が「中世の藁江港」との説もある(3)。しかし、「関銭」を徴収する役目が機織城にあったとすれば、その関係の軍船の繋留港には最適の位置にあるが、水源に関する伝承や、それらしき伝承および史料が見当たらないので、その可能性は低いものと思われる。

以上より、藁江港は金江町字船津の岬辺りに比定されることになる。

【引用文献】

  1. 福山市金江町誌、一〇五、一九九二.
  2. 矢田貞美:新庄本郷城主の古志清左衛門に関する疑問、文化財ふくやま第43号、六~十五、二〇〇八.
  3. 田口義之:びんご古城散策 織機城と工藤氏
  4. 広島県史 古代中世資料編Ⅴ(県外文書編)六五八~九五六、一九八〇.
  5. 広島県史 古代中世資料編Ⅴ(県外文書編)九五〇~九五六、一九八〇.
  6. 竹内理三編:平安遺文 古文書編第八巻、三〇五二~三〇五三、一九七五.
  7. 鈴木康之:「草戸千軒をめぐる流通と交流」『中世瀬戸内の流通と交流』一一九~一五七、塙書房、二〇〇五.
  8. 川上順一:赤坂村史、赤坂村史編纂委員会、三十、一九六七.
  9. 竹内理三:角川日本地理名大辞典 三十四広島県、三一二~三一三、角川書店、一九八七.
  10. 志田原重人:荘園制と草戸千軒―草戸千軒解明の一視点(二)―、草戸千軒五十五号、一~五、一九七八.
  11. 今谷明:「瀬戸内制海権の推移と入船納帳」『林屋辰三郎編:兵庫北関入舩納帳С』二七二~三〇二、中央公論美術出版社、一九八一.
  12. 福山市金江町誌、一〇七~一〇八、一九九二.
  13. 柳津村誌、四~五、一九九二.
  14. 沼隈郡誌、四七九、一九二三.
https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/cropped-mark.pnghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/cropped-mark-150x100.png管理人中世史「備陽史探訪:179号」より 矢田 貞美 藁江港の具体的な所在地を特定できる史料は見当たらないが、旧藁江村の地名、地形および井戸水に関する古伝などから藁江の大字「船津」がこれに該当するものとして推定される(1、2)。しかし、これよりも若干南西に位置する別地との説(3)もみられるので、改めて概略を紹介し、諸兄のご批判を仰ぎたい。   一 藁江庄の庄域と庄名 庄域 藁江庄の庄域は、金江八幡神社の祭祀圏から福山市金江町金見・藁江、同市藤江町、尾道市浦崎町、福山市内常石村付近まで含まれる広大な庄園であったと考えられている。 即ち、実蔵坊(福山市金江町)の住所引継書によると(1)、二宮 野島厳島神社、三宮 浜上大将神社、遷宮所 内常石村八幡神社とあり、更に金江八幡神社が一番祭(旧八月十四日)の太鼓を打たなければ、内常石村八幡神社の祭りは開始できなかった。そこで、金江八幡神社の太鼓が鳴ったら内常石村の同神社にその旨伝令されていたと伝承されており、藁江庄には内常石村付近まで含まれていたと考えられている。 庄名 藁江庄の庄名は、承安元年(一一七一)十二月十二日付けで下された官宣旨案(4)に初見され、以降、養和元年(一一八一)十二月二日の後白河院下文案(5)、建久元年(一一九〇)十二月日の御白河院庁下文案(4)、天福元年五月日備後国藁江庄訴事「寛喜二年(一二三〇)五月日の石清水八幡宮寺所司等申状案」(4)、養和元年(一一八一)十二月二日御白河院麾下文案(6)、文安元年(一四四四)三月二三日付の藁江庄大貳請文(5)、文安三年(一四四五)正月廿六日付の藁江庄社家分鹽濱帳(石清水文書二六三)などに、「備後国神村庄」とともに、または単独で「備後国藁江庄」として記されている。  以上の諸書状によると、藁江庄は神村庄(御調郡御調町に比定される)とともに山城石清水八幡宮寺宝塔院領であったことが分かる。 二 藁江港は山名国料船専用 備後の草津港 福山市の芦田川に架かる神島橋から芦田川西の土手の県道を鞆方面に少し進んだところにある中洲から土手西側の明王院までの一帯を草津、草土、草出、草出津などと呼称し、「港」ないし「港町」を想起させる地名が存在した。この草津は、常福寺(現、明王院)の門前町とも港町とも推定され、後配地の長和庄の年貢積出しや生活・商業物資の積出・積降し港として草津港が存在したと推定されている(7)。しかし、文安年代には芦田川上流からの土砂の流入で遠浅となり、草津港には大型船の着岸が困難であったと推察される。 藁江港の利用実態 遣唐船の笑雲入唐記(宝徳三年(一四五一))によると、尾道港から備後の赤銅を、また、遣明船の戌子入明記「応仁二年(一四六八)頃」によると、尾道港から銅十駄(一駄は丗六貫)を輸出している。当時、備南には沼隈郡新庄本郷村の他、同郡赤坂村長者原・勝負の各銅山が開発されていたものと推定される(赤坂村誌8)。 文安二年(一四四五)から三年(一四四六)に亘る「兵庫北関入船納帳」記載の船籍地名と延べ入港艘数をみると、備後では尾道六十一艘、藁江五十四艘、三庄(因島)五十三艘、田島十九艘、鞆十七艘、三原三艘とあり、文安年代の草津港(草戸に比定される(9、10))は既に水深が浅く大型船の入港は困難で、松永湾の藁江港は数百石の大型船の入港が可能なためか尾道港に次いで栄えており、また藁江籍の八艘は悉く国料または山名殿国料と記されており、藁江港は備後の国料船専用の港湾と推定されている(11)。 国料船とは三冠四職家守護の在京用途に宛てられる船のことで免税特権があり、備後の場合、守護所神辺城に近い草津港ではなく、藁江港から積出されたと推定されている(11)。とすれば、国内外向けとして、新庄本郷の赤銅や銅の積出しには尾道港の他、藁江港も利用されたものと推察される。  藁江港は、遺芳(松永)湾の奥に位置するため潮流は緩く、船津の岬の北側は小さな半島状であるから、三方向からの北風・東風・南風を防げる良港であったが故に、備後の国料船専用の港湾として機能していたものと推察される(11)。    三 藁江港 藁江港 藁江港には瀬戸内を航行する船が瀬戸内随一の良質な船津の井戸水を求めて入港しており、その井戸は船津団地の北側にあった(12)。船津は往古には、浜上宇根から天津沖に突き出た小さな半島状の岬(長さ約四〇〇×幅約一五〇×標高二十六㍍)であったと推定される(以降、船津の岬と称する)。船津公園の石碑によると、この船津の丘陵は昭和四十二年から昭和五十年頃、松永湾を埋立てて、船津の西方に位置する柳津町の木工団地を造成するため削土され、現在ではほぼ平地となっている。 なお、国語辞典によると、岬とは海に突き出た陸地の先端部で、半島に比べて小さく、硬い岩石の部分が浸食され残った山地の場合が多い。 船津の豊富で良質な井戸水:この船津の岬には地下に水道があり、良質な水が水田脇の小池(二間四方)にコンコンと湧き出ており、現在も民家の一部ではこの良質で豊富な井戸水が利用されている。地元の古老によると、船津の岬は削平されるまで旧海岸沿いに相当数の個人や共同の井戸があったと伝え、共同井戸が四本現存する。また、現在でも各戸には井戸がほぼあることは、井戸水が豊富で良質なためであろう。この地下の水道の水源は船津の岬の東方にある「本谷」の山々の降水と推察される。 船津の北側四、五百㍍のところにある金江小学校運動場南の水田より、時折、砥石が出土するが、この砥石は船津の水を求めて入港した船が方向を誤って浜上の湾奥へ入り込み、座礁難破した当時の船の積荷と伝える(12)。 四 藁江港の所在地の比定 藁江港の所在地は比定されていないが、物資の集散、水や船荷の積込作業の利便性と作業員の確保の難易性などを考慮すると、下記に示すように船津の岬辺りが有力で、次に柳津辺りもその候補地と推察される(地図参照)。     なお、「船津」には港湾、「ふなつき」の語意があり、藁江港は金江町の字「船津」またはその近傍にあったものと考えられる。 船津岬の先端説 福山市金江町字船津の「船津の岬」は現在でも良質な地下水が豊富で、この井戸水を求めて大型船が入港していたので物資の有力な積出港であったと考えられる。なかでも船津岬の先端は、守護所神辺を中心とした物資の集散に若干の問題があることを勘案しても、岩礁地なので大型船の係留施設、並びに着岸に必要な港湾の建設が比較的容易であり、この岬の先端辺りは湾の奥より水深が一般に深い。水と物資の積込みが同時に可能なので港湾としての利便性が高く、積載により喫水の低下に耐えられる水深の確保は容易であったものと、下記より推察される。 江戸時代、金江村の海岸には郷蔵が築造され、上納米を郷蔵前から船積輸送していたので比較的大きな船の入港着岸が可能であったと思われる。即ち、郷蔵は、藁江村には平田才ヶ内の弁天さんの境内および平田クラブの屋敷辺りに、また金見村には浜上の常夜灯辺りにあったと伝承される。 藁江の湾岸は、後背地の開発に伴って土砂が流入し急速に遠浅になったが、山名氏の国料船の専用港であった文安年代(一四四四から一四四八)には大型船が比較的容易に入港できたものと推察される。 柳津の湾岸説 物資の集散の便を考えると、藁江港は市場組の地名が残っており、当時、藁江庄に隣接し、松永湾岸の市街地の中心地であったと推定される柳津西の貴船荒神社から王子神社辺りの湾岸も候補地として浮上する。前記の難破船は柳津辺りに所在した藁江港から出航し上方を目指したが、方向を誤り座礁したと見ることもできる。この辺りは小さな新川と少し離れた羽原川以外には河川はなく、往古には人口が少ないため宅地、耕地および山林伐採なども少なかったと考えられるので土砂の流入も少ないから水深は深かったと思われる。 また、昭和初期まで柳津港は水深が深く松永湾唯一の良港として貨物船が出入りしていたことから(13)、往古には大型船の入港が可能であったと推定される。しかも、この地は新庄および府中方面へ、また藁江峠を越えて備後草津、赤坂および神辺方面への陸路の要衝の地でもある。 ところが、柳津辺りには大型船のための大量の良質な飲料水の確保は困難であったと考えられるから大型船に対応できる港湾の建設には不向きと思われる。 今津説 藁江庄の船津(港湾)は、石清水八幡宮の分霊社・神村八幡神社が鎮座している辺りの今津に比定されるとの説もあるが(10)、今津は藁江庄から離れており、藁江港と呼ぶには無理があること、本郷川及び藤井川上流からの土砂の流入で水深が浅く、大型船の入港は不可能であったものと推察される。 しかも、「今津」は新しい津(港)との語意を持ち、従来の津「津之郷」に対する呼称であり(14)、従来の津之郷、深津、奈良津および草津などに対して、新に「今津」と命名されたものと推察される。 織機城跡の東方の入江説 船津岬からも近い織機城跡(福山市藤江町)の東に位置する、北から南に入り込んだ入江が「中世の藁江港」との説もある(3)。しかし、「関銭」を徴収する役目が機織城にあったとすれば、その関係の軍船の繋留港には最適の位置にあるが、水源に関する伝承や、それらしき伝承および史料が見当たらないので、その可能性は低いものと思われる。 以上より、藁江港は金江町字船津の岬辺りに比定されることになる。 【引用文献】 福山市金江町誌、一〇五、一九九二. 矢田貞美:新庄本郷城主の古志清左衛門に関する疑問、文化財ふくやま第43号、六~十五、二〇〇八. 田口義之:びんご古城散策 織機城と工藤氏、 広島県史 古代中世資料編Ⅴ(県外文書編)六五八~九五六、一九八〇. 広島県史 古代中世資料編Ⅴ(県外文書編)九五〇~九五六、一九八〇. 竹内理三編:平安遺文 古文書編第八巻、三〇五二~三〇五三、一九七五. 鈴木康之:「草戸千軒をめぐる流通と交流」『中世瀬戸内の流通と交流』一一九~一五七、塙書房、二〇〇五. 川上順一:赤坂村史、赤坂村史編纂委員会、三十、一九六七. 竹内理三:角川日本地理名大辞典 三十四広島県、三一二~三一三、角川書店、一九八七. 志田原重人:荘園制と草戸千軒―草戸千軒解明の一視点(二)―、草戸千軒五十五号、一~五、一九七八. 今谷明:「瀬戸内制海権の推移と入船納帳」『林屋辰三郎編:兵庫北関入舩納帳С』二七二~三〇二、中央公論美術出版社、一九八一. 福山市金江町誌、一〇七~一〇八、一九九二. 柳津村誌、四~五、一九九二. 沼隈郡誌、四七九、一九二三.備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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