随筆に見る明治期の松永の風物(福原麟太郎の随筆から)

備陽史探訪:179号」より

岡田 宏一郎

福原麟太郎郷里の家
福原麟太郎郷里の家
   
小説や随筆などを読んでいると福山・尾道など備後南部の郷土のことが描かれている風物に目が止まる。こうした記述のところに関心があるから丁寧に読みかえしている。

旧松永市は福山市に合併されてから町の様子はしだいに変わってきた。

今までは市街地の中心は駅前北側の商店街がメインであったが、現在は中心市街地が駅南の元塩田地域に移って郊外型の店舗や商店が軒を連ねている市街に変貌してしまった。

だが、以前の松永ぶら探訪で歩いた西町界隈は古き昭和戦前の香りが今も残っている。これが戦前の松永・今津の雰囲気であり、松永歩きのぶら探訪に参加された人は思い出されるかと思う。

明治期の松永が次第に町らしくなっていく様子が福原麟太郎先生の随筆の中に描写されているのでその風景に惹かれてしまうのでこの随筆は読むのが楽しいのである。

今回は、文学的で会報には場違いな感じを持たれるかもしれないが、変わりゆく松永の風物を感じとってもらいたい、と思って投稿してみた。

福原麟太郎は福山市名誉市民(当時は松永市名誉市民だった)で松永出身の英文学者であるが、多くの随筆を書いていてその数は一八〇〇編を超えると言われている。

その随筆の中に郷里松永の変わりゆく明治期の風物を懐かしみ風景や祭り、郷里の人物などについて書いている。

松永の過ぎ去った懐かしい風物について随筆の中から一部についてだが紹介して見たい。

まず『松永自慢』の中に

電燈は停車場の南の空き地、高等小学校の東に発電所が出来て、松永の町やら、その近所の村へ、電線を引くのだとは去年の夏休み以来の噂であった。いつか相生の沖へ泳ぎにゆくとて東踏切の所へ立って人を待ってゐたら、口髭を大切そうにしてゐる電気の技師が、ポールやなんか持ってそこいらをはかって、地図へ線を引いてゐるのを見た時、いよいよだなと思ったこともあった。がその電燈よりも先に電話が出来るといふのだから、少なからず驚かされたのも無理はない・・・・・・尤も、三・四年前、郵便局へ一呼出し電話ができてから、なにがしの下駄屋や、呉服屋や尾道福山と用向きの多い商売の人は時折それを利用してゐるのを見かける事もあったが、さて今、その人達の家の正面へ、電話番號七番とか十番とか金文字を入れた電話室が出来たのを見た時、その人達はどんなはなやぎを感ずることであらう。

また『塩と下駄』の中には

私どもが小学校へ行っている頃、松永の町は塩の名産地であった。瀬戸内海に面する備後の国の海岸である。小学校はすぐ塩田につづいて、そこから見渡すかぎり塩田で、その先に白帆が浮かんでいた。 学校のそばの塩田が埋められて土が盛られたのであったろう。そこに塩業調査所が設けられ、気象測候所が附設されて、風の方向に幾らでも向きなおる矢と、ぐるぐる二十日鼠のように廻転する風輪とが屋根の上に立ち、高いポールには毎日、青・白・黄などの旗が上がった。これは藺を乾す人にも便利であった。・・・・この調査所と気象台が設けられたということは、土地の繁栄にとって非常に影響のあることであった。多分、松永はこれとともに町になった。そして調査所の役人達の為に十軒の官舎が板塀を並べて立ち、その官舎に住む人々は実に外来の官員であった。・・・・彼らの所謂官舎なるものは、東京の本省の建築師が設計した。だから畳の大きさが東京流に小さかった。・・・・

とあり

下駄の製造は益々盛んになっていった。昔提灯を吊るした屋形船に乗り込んで神輿の渡御を見に行った水路である塩田の入江には今や下駄の材料となる大きな材木が満ち泛び、昔ながらの塩浜の色い煙に混って高い煙突から黒煙がふき出し、一日数回の時の告げるサイレンは、われらの故郷に住み慣れぬものをして、火事ポンプかと驚かせる。而もその下駄の材料なる材木が、思うも遠き北海道から、はるばると運ばれるのであると聞いては、凡そ松永の発展と変化に目を見張らせないでは措かない。

と懐かしい風景が書かれている。

樽干し場』には、住んでいた町の風景が懐かしく描かれている。

造り酒屋の大きな構えのがあって、国道の角に面して、その帳場やいくつもの酒蔵が並んでいた。その一群の建物は、壁という壁を、みな赤い土で塗ってあったから、これを中心に出来た二十軒ばかりの村落のあざなを赤壁と読んでいた。私は、その赤壁で幼時を過ごした。・・・・酒蔵の国道に面した赤壁に沿うて、幾つも幾つも大きな酒樽が、横に倒されてならぶのである。・・・・酒樽は、しかし、国道にばかりあるのではなかった。酒蔵と国道をへだてた反対の家並の裏に、広い地面が取ってあって、そこが樽干し場と言われていた。そこでは観兵式のように大樽がならんでいて、そこもまた、子供たちの遊び場であったのだが、国道の壁に寄せてならんだ樽の方の記憶が多いのはそちらはあまりに壮大で、都会的であるという感じがあったのであろうか。・・・・冬のそのころになると、子供たちの気づかないうちに、その樽干し場へ、丸太を組みむしろを取りつけた大きな仮小屋が、その広場一ぱいにいつの間にか出来上がった。そして、のぼりが立ち、幕が正面をかくすと、やがてそれが芝居小屋であることが知れた。子供たちは群れ集まり、桟敷の下からくぐっては、中をのぞいた。私の記憶にある最初の芝居だ。

との描写があり、当時は芝居が盛んだった。

汽車通学』では

明治四十年の九月から明治四十五年の三月まで満四年と七ヶ月、汽車通学ということをした。山陽線の松永駅から乗って、上り一と駅の福山駅まで二十一分であった。福山駅で下りて十分くらい歩くとわれわれの学校、福山中学校があった。・・・・

今なら福山駅まで一〇分で着くから、当時の汽車はかなり遅かったことが分かる。

故郷』の中には

丸山鶴吉という人を崇拝したものだ・・・・中学生の私は毎学期、何度も丸山さんに手紙や葉書を出して、近況を言い送ったり煩悶を訴えたりした。そうするときっと返事が来て、その返事の字が立派だったものだから、それをまた私は一所懸命真似たものだ。帰省されると、中学生はついて廻った。丸山さんも我々をよく導いて下さった。

とあるが、丸山鶴吉は松永を代表する人物で大正三年に警視総監その後、宮城県知事になっている。福原麟太郎の父甚之助は若くして松永小学校の校長として地域の教育に貢献し、神村の村長もしている。そうした功績が刻まれた頌徳碑が神村八幡神社にあり、書は丸山鶴吉によるものである。

信号には今も「赤壁」の地名が残っている。
信号には今も「赤壁」の地名が残っている。
赤壁の地名は国道の信号機に名前が残っているだけで、赤壁に残っていた酒蔵も一年ほど前に取り壊されて更地になってしまった。赤壁の生家跡には「福原麟太郎生家跡」と刻まれた記念碑が建立されているだけであるが、その後方の民家の壁は赤く塗られているので過ぎ去った赤壁の残影を感じさせてくれるかもしれない。

「福山市名誉市民、英文学者、福原麟太郎先生生誕の地」と刻まれている碑。
「福山市名誉市民、英文学者、福原麟太郎先生生誕の地」と刻まれている碑。
碑の後方から赤壁酒蔵の蔵の跡地を見る。酒蔵跡は更地となり、前の国道は当時なかった。
碑の後方から赤壁酒蔵の蔵の跡地を見る。酒蔵跡は更地となり、前の国道は当時なかった。
松永図書館には福原麟太郎図書コーナーが設けられているので自由に閲覧できるようになっている。また地元の神村探訪の会では毎年、生家跡の記念碑前で生誕祭を行っている。

【引用・参考図書】

  • 『福原麟太郎随想全集7』
  • 「神村探訪の会発行資料」
  • 「福原林太郎生誕祭資料」

など

【福原麟太郎生家跡】

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/96af303d1d48709c5bdda7dcbbfdda88.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/96af303d1d48709c5bdda7dcbbfdda88-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:179号」より 岡田 宏一郎     小説や随筆などを読んでいると福山・尾道など備後南部の郷土のことが描かれている風物に目が止まる。こうした記述のところに関心があるから丁寧に読みかえしている。 旧松永市は福山市に合併されてから町の様子はしだいに変わってきた。 今までは市街地の中心は駅前北側の商店街がメインであったが、現在は中心市街地が駅南の元塩田地域に移って郊外型の店舗や商店が軒を連ねている市街に変貌してしまった。 だが、以前の松永ぶら探訪で歩いた西町界隈は古き昭和戦前の香りが今も残っている。これが戦前の松永・今津の雰囲気であり、松永歩きのぶら探訪に参加された人は思い出されるかと思う。 明治期の松永が次第に町らしくなっていく様子が福原麟太郎先生の随筆の中に描写されているのでその風景に惹かれてしまうのでこの随筆は読むのが楽しいのである。 今回は、文学的で会報には場違いな感じを持たれるかもしれないが、変わりゆく松永の風物を感じとってもらいたい、と思って投稿してみた。 福原麟太郎は福山市名誉市民(当時は松永市名誉市民だった)で松永出身の英文学者であるが、多くの随筆を書いていてその数は一八〇〇編を超えると言われている。 その随筆の中に郷里松永の変わりゆく明治期の風物を懐かしみ風景や祭り、郷里の人物などについて書いている。 松永の過ぎ去った懐かしい風物について随筆の中から一部についてだが紹介して見たい。 まず『松永自慢』の中に 電燈は停車場の南の空き地、高等小学校の東に発電所が出来て、松永の町やら、その近所の村へ、電線を引くのだとは去年の夏休み以来の噂であった。いつか相生の沖へ泳ぎにゆくとて東踏切の所へ立って人を待ってゐたら、口髭を大切そうにしてゐる電気の技師が、ポールやなんか持ってそこいらをはかって、地図へ線を引いてゐるのを見た時、いよいよだなと思ったこともあった。がその電燈よりも先に電話が出来るといふのだから、少なからず驚かされたのも無理はない・・・・・・尤も、三・四年前、郵便局へ一呼出し電話ができてから、なにがしの下駄屋や、呉服屋や尾道福山と用向きの多い商売の人は時折それを利用してゐるのを見かける事もあったが、さて今、その人達の家の正面へ、電話番號七番とか十番とか金文字を入れた電話室が出来たのを見た時、その人達はどんなはなやぎを感ずることであらう。 また『塩と下駄』の中には 私どもが小学校へ行っている頃、松永の町は塩の名産地であった。瀬戸内海に面する備後の国の海岸である。小学校はすぐ塩田につづいて、そこから見渡すかぎり塩田で、その先に白帆が浮かんでいた。 学校のそばの塩田が埋められて土が盛られたのであったろう。そこに塩業調査所が設けられ、気象測候所が附設されて、風の方向に幾らでも向きなおる矢と、ぐるぐる二十日鼠のように廻転する風輪とが屋根の上に立ち、高いポールには毎日、青・白・黄などの旗が上がった。これは藺を乾す人にも便利であった。・・・・この調査所と気象台が設けられたということは、土地の繁栄にとって非常に影響のあることであった。多分、松永はこれとともに町になった。そして調査所の役人達の為に十軒の官舎が板塀を並べて立ち、その官舎に住む人々は実に外来の官員であった。・・・・彼らの所謂官舎なるものは、東京の本省の建築師が設計した。だから畳の大きさが東京流に小さかった。・・・・ とあり 下駄の製造は益々盛んになっていった。昔提灯を吊るした屋形船に乗り込んで神輿の渡御を見に行った水路である塩田の入江には今や下駄の材料となる大きな材木が満ち泛び、昔ながらの塩浜の色い煙に混って高い煙突から黒煙がふき出し、一日数回の時の告げるサイレンは、われらの故郷に住み慣れぬものをして、火事ポンプかと驚かせる。而もその下駄の材料なる材木が、思うも遠き北海道から、はるばると運ばれるのであると聞いては、凡そ松永の発展と変化に目を見張らせないでは措かない。 と懐かしい風景が書かれている。 『樽干し場』には、住んでいた町の風景が懐かしく描かれている。 造り酒屋の大きな構えのがあって、国道の角に面して、その帳場やいくつもの酒蔵が並んでいた。その一群の建物は、壁という壁を、みな赤い土で塗ってあったから、これを中心に出来た二十軒ばかりの村落のあざなを赤壁と読んでいた。私は、その赤壁で幼時を過ごした。・・・・酒蔵の国道に面した赤壁に沿うて、幾つも幾つも大きな酒樽が、横に倒されてならぶのである。・・・・酒樽は、しかし、国道にばかりあるのではなかった。酒蔵と国道をへだてた反対の家並の裏に、広い地面が取ってあって、そこが樽干し場と言われていた。そこでは観兵式のように大樽がならんでいて、そこもまた、子供たちの遊び場であったのだが、国道の壁に寄せてならんだ樽の方の記憶が多いのはそちらはあまりに壮大で、都会的であるという感じがあったのであろうか。・・・・冬のそのころになると、子供たちの気づかないうちに、その樽干し場へ、丸太を組みむしろを取りつけた大きな仮小屋が、その広場一ぱいにいつの間にか出来上がった。そして、のぼりが立ち、幕が正面をかくすと、やがてそれが芝居小屋であることが知れた。子供たちは群れ集まり、桟敷の下からくぐっては、中をのぞいた。私の記憶にある最初の芝居だ。 との描写があり、当時は芝居が盛んだった。 『汽車通学』では 明治四十年の九月から明治四十五年の三月まで満四年と七ヶ月、汽車通学ということをした。山陽線の松永駅から乗って、上り一と駅の福山駅まで二十一分であった。福山駅で下りて十分くらい歩くとわれわれの学校、福山中学校があった。・・・・ 今なら福山駅まで一〇分で着くから、当時の汽車はかなり遅かったことが分かる。 『故郷』の中には 丸山鶴吉という人を崇拝したものだ・・・・中学生の私は毎学期、何度も丸山さんに手紙や葉書を出して、近況を言い送ったり煩悶を訴えたりした。そうするときっと返事が来て、その返事の字が立派だったものだから、それをまた私は一所懸命真似たものだ。帰省されると、中学生はついて廻った。丸山さんも我々をよく導いて下さった。 とあるが、丸山鶴吉は松永を代表する人物で大正三年に警視総監その後、宮城県知事になっている。福原麟太郎の父甚之助は若くして松永小学校の校長として地域の教育に貢献し、神村の村長もしている。そうした功績が刻まれた頌徳碑が神村八幡神社にあり、書は丸山鶴吉によるものである。 赤壁の地名は国道の信号機に名前が残っているだけで、赤壁に残っていた酒蔵も一年ほど前に取り壊されて更地になってしまった。赤壁の生家跡には「福原麟太郎生家跡」と刻まれた記念碑が建立されているだけであるが、その後方の民家の壁は赤く塗られているので過ぎ去った赤壁の残影を感じさせてくれるかもしれない。 松永図書館には福原麟太郎図書コーナーが設けられているので自由に閲覧できるようになっている。また地元の神村探訪の会では毎年、生家跡の記念碑前で生誕祭を行っている。 【引用・参考図書】 『福原麟太郎随想全集7』 「神村探訪の会発行資料」 「福原林太郎生誕祭資料」 など 【福原麟太郎生家跡】備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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