中津藩備後領の義民 村田庄兵衛
「備陽史探訪:179号」より
根岸 尚克
福山藩の一揆は良く知られているが、中津藩備後領でも安永六年(一七七七)死罪を覚悟で年貢の減免を藩に訴えた人物が居た。水野家改易により、十五万石と成っていた所領に松平氏、阿部氏が入り十万石を支配したが、残る五万石は天領となった。ところが、享保二年(一七一七)二万石が豊前中津藩の飛領地となった。
代官所は神石郡小畠村に在った。初代代官は父木野村の庄屋村田知賢で以後村田家が世襲した。これは奥平氏が、遠隔地であるので事情に通じた現地の大庄屋に委ねた為である。
本国からは郡奉行以下の役人が出張って政務を行なった。年貢や運上銀は村田氏の責任で上納し、遠隔地なので年貢米は銀に換え尾道から船で中津迄運んだ。
ところで、中津藩備後領では中津藩領となった享保二年から延享元年(一七四四)迄は天領時代の例に倣って定引(石高から一定額を控除した残高に免(税率)を掛ける)の恩典があったが、延享二年これを廃止した。隣接の天領に見習ったものである。その為、農民は負担に苦しむ事となった。
その上、明和六、七年の凶作で一層困窮し、定引の復活を願ったが入れられず越訴すれば死罪であるので農民は悲嘆にくれるばかりであった。福山藩では明和七年には一揆が起きている。
安永六年(一七七七)三郡の大庄屋・庄屋・年寄等村役人が再び嘆願したがいれられず、遂に意を決した村田庄兵衛は、高蓋村庄屋大崎宅右衛門と相計り、死を決して領民の窮状を陳べ救世済民の哀情を披瀝し定引の復活を訴えた。
藩府では驚き、二人を捕縛する為、藩史を備後に急派、芦品郡金丸の元屋に投宿した。事情を知っていた宿の主人は急を庄兵衛に知らせた。庄兵衛は共に縛に就こうと言う宅右衛門を説得し後事を託し逃げさせ、自らは縛に就き中津に送られ入牢する事三年、その間藩では実情を調査し定引の制を復活した。その額は、三一〇七石七斗四升八合であった。
庄兵衛は減刑され小畠代官所に送還され、天領亀石村との境「八ツ塚」で放逐され、家は闕所(地所財産没収)となった。然し村人達は密かに庄兵衛を迎え、大恩人として尊敬敬愛された(神石郡志)。
村田邸跡は父木野に残っている。
村田邸を訪ねて
村田氏は信州岩村田城に在って武田氏に仕え岩村田村田を姓とした。武田氏が滅亡した後父木野に落ちのびて来て、石屋原城の入江大蔵に仕えたが後帰農したという。
庄兵衛の後の代になり家が絶えて現在は新屋(分家)村田さんが家系をついで居られる。隣接して法雲寺がある。この寺には水野勝成との逸話が伝えられている。
法雲和尚は武田家の一族で、快川の教えを受けた。武田家滅亡時、その一族を匿った快川は信長により山門の上に押し上げられ焼き殺される。その時残した偈(仏教の真理を形で述べたもの)「安禅必ずしも山水を須ひず心頭滅却すれば火も自ら涼し」は良く知られている。時に法雲も師と共に死なんとするも、武田家再興を期する様宥められ、当地に落ちのびる。この時村田庄兵衛の先祖も一緒だったのであろう。そして一寺を建て法雲寺とする。
元和五年水野勝成がこの地を領し、法雲和尚の話を聞き遊猟の折、寺に立ち寄り対面、話は弾み和尚が武田の軍法秘書を所持しているのを知り、固く断わる和尚から暫くの間との約束で持ち帰るが、この書を返さず偽書(写し)を返す。法雲は驚く強く返本を願うと「僧の身であり乍ら軍書を持つとは不審也」として召捕り、笠岡沖の神島に島流しに処した。和尚は憤激し断食、水野家を調伏し還寂された。
その後水野家には不運が続き、改易となり、その跡を継ぐ結城氏にも及ぶ。その為、年忌には弔使を立てて追善供養をされたという。(西備名区巻五十六)
https://bingo-history.net/archives/17739https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/aae6486f233de819d8634b1331782e31.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/aae6486f233de819d8634b1331782e31-150x100.jpg近世近代史「備陽史探訪:179号」より 根岸 尚克 福山藩の一揆は良く知られているが、中津藩備後領でも安永六年(一七七七)死罪を覚悟で年貢の減免を藩に訴えた人物が居た。水野家改易により、十五万石と成っていた所領に松平氏、阿部氏が入り十万石を支配したが、残る五万石は天領となった。ところが、享保二年(一七一七)二万石が豊前中津藩の飛領地となった。 代官所は神石郡小畠村に在った。初代代官は父木野村の庄屋村田知賢で以後村田家が世襲した。これは奥平氏が、遠隔地であるので事情に通じた現地の大庄屋に委ねた為である。 本国からは郡奉行以下の役人が出張って政務を行なった。年貢や運上銀は村田氏の責任で上納し、遠隔地なので年貢米は銀に換え尾道から船で中津迄運んだ。 ところで、中津藩備後領では中津藩領となった享保二年から延享元年(一七四四)迄は天領時代の例に倣って定引(石高から一定額を控除した残高に免(税率)を掛ける)の恩典があったが、延享二年これを廃止した。隣接の天領に見習ったものである。その為、農民は負担に苦しむ事となった。 その上、明和六、七年の凶作で一層困窮し、定引の復活を願ったが入れられず越訴すれば死罪であるので農民は悲嘆にくれるばかりであった。福山藩では明和七年には一揆が起きている。 安永六年(一七七七)三郡の大庄屋・庄屋・年寄等村役人が再び嘆願したがいれられず、遂に意を決した村田庄兵衛は、高蓋村庄屋大崎宅右衛門と相計り、死を決して領民の窮状を陳べ救世済民の哀情を披瀝し定引の復活を訴えた。 藩府では驚き、二人を捕縛する為、藩史を備後に急派、芦品郡金丸の元屋に投宿した。事情を知っていた宿の主人は急を庄兵衛に知らせた。庄兵衛は共に縛に就こうと言う宅右衛門を説得し後事を託し逃げさせ、自らは縛に就き中津に送られ入牢する事三年、その間藩では実情を調査し定引の制を復活した。その額は、三一〇七石七斗四升八合であった。 庄兵衛は減刑され小畠代官所に送還され、天領亀石村との境「八ツ塚」で放逐され、家は闕所(地所財産没収)となった。然し村人達は密かに庄兵衛を迎え、大恩人として尊敬敬愛された(神石郡志)。 村田邸跡は父木野に残っている。 村田邸を訪ねて 村田氏は信州岩村田城に在って武田氏に仕え岩村田村田を姓とした。武田氏が滅亡した後父木野に落ちのびて来て、石屋原城の入江大蔵に仕えたが後帰農したという。 庄兵衛の後の代になり家が絶えて現在は新屋(分家)村田さんが家系をついで居られる。隣接して法雲寺がある。この寺には水野勝成との逸話が伝えられている。 法雲和尚は武田家の一族で、快川の教えを受けた。武田家滅亡時、その一族を匿った快川は信長により山門の上に押し上げられ焼き殺される。その時残した偈(仏教の真理を形で述べたもの)「安禅必ずしも山水を須ひず心頭滅却すれば火も自ら涼し」は良く知られている。時に法雲も師と共に死なんとするも、武田家再興を期する様宥められ、当地に落ちのびる。この時村田庄兵衛の先祖も一緒だったのであろう。そして一寺を建て法雲寺とする。 元和五年水野勝成がこの地を領し、法雲和尚の話を聞き遊猟の折、寺に立ち寄り対面、話は弾み和尚が武田の軍法秘書を所持しているのを知り、固く断わる和尚から暫くの間との約束で持ち帰るが、この書を返さず偽書(写し)を返す。法雲は驚く強く返本を願うと「僧の身であり乍ら軍書を持つとは不審也」として召捕り、笠岡沖の神島に島流しに処した。和尚は憤激し断食、水野家を調伏し還寂された。 その後水野家には不運が続き、改易となり、その跡を継ぐ結城氏にも及ぶ。その為、年忌には弔使を立てて追善供養をされたという。(西備名区巻五十六)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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