営所通りを歩いて

備陽史探訪:179号」より

北川 浩二

営所通りを歩いて
衛戍病院跡(JA福山)に建つ記念碑の前で説明を聞く。

ぶら探訪 その二十一「営所通りを歩く」講師 田口会長、平成二十六年七月五日。午前九時 緑町公園入口付近集合。募集人数三十名に対し参加人数五十八名。近代をテーマにした初のぶら探訪で 参加人数も多く近代に関心を持たれている方が多いのに、驚かされました。 歩兵第四十一聯隊兵営は、大日本帝国終焉の時まで ここの兵営で兵隊を教育・訓練、多くの兵隊を養成、戦地に送り出していきました。その兵隊さん達が地元の歓声に送られ、行進し福山駅に向かったのが「営所通り」といわれていた道です。

今回、講師を務められた田口会長の解説をお聞きしながら、僅かに残された戦争遺構を訪ね、歩兵第四十一聯隊跡から実際に「営所通り」を歩いた。

集合場所の緑町公園は歩兵第四十一聯隊兵営。歩兵第四十一聯隊練兵場は三菱電機となっている。緑町公園内に唯一残る戦争遺構が「将校集会所通用門」煉瓦造りの一対。貴重な遺構です。

歩兵第四十一聯隊と福山、その強い結びつき、現在の企業誘致の形で福山に聯隊を呼び込み、福山の経済を潤わした事を解説された。

又、大正期の軍縮の折、聯隊廃止の俎上が上がったと同時に、経済的パニックが起こり財政破綻の二文字がみえ、当時の阿武信一市長はじめ、市の幹部らが聯隊の福山存続を陳情。何とか存続を取り付け市民は安堵したという。

歩兵第四十一聯隊兵営地整地の折、水はけを考慮してであろうか、僅かにかさ上げされています。その折、基準となったベンチマークが、旧門から営所通り最初の角地に今も残っている。

次に訪ねたのが陸軍病院跡。現在はJA福山。明治四十一年に歩兵第四十一聯隊の衛戍病院として開設。多くの戦傷戦病兵の治療にあたる。昭和十二年福山陸軍病院となるが、昭和二十年八月福山空襲で本館以外は焼失。戦後厚生省管轄となる。現地には、当時の石垣、歩兵第四十一聯隊西門、陸軍病院記念碑、何故か緑町に在るべき歩兵第四十一聯隊跡碑があった。コノ辺りの誤りは何とか成らないものでしょうか。

花園町のバラ公園内に萬宝山碑台石を紹介いただき、参加者でこの台石を囲み日露戦争において萬宝山での歩兵第四十一聯隊による激戦があった事を知る。全滅に近い損害を出しながら、軍旗を守りぬいた、その先輩たちの偉勲を称え、当時の歩兵第四十一聯隊長 樋口季一郎が発起建立したもので、とても大きく、当時の威容を伝えている。出来れば案内板等、欲しいですね。

さらに営所通りを歩き聖園幼稚園に現存する、福山聯隊区司令部門柱前で足を止め、この施設の当時の役割などをお聞きする(福山聯隊区司令部・中国憲兵隊司令部福山憲兵隊)

福山聯隊区司令部は兵士の徴募を実務とし、広島県東部九郡 岡山県西部十一郡を受け持ち、昭和十七年三月に広島聯隊区司令部に移管されるまで徴兵手続きなどを行った。憲兵隊は軍人の非法・違法を検察・糾弾、国内の治安維持を任務とする。昭和になると国家に不都合な思想を取り締まる思想係が設置され、特別高等警察(特高)のはじまりとなる。

なお、この門柱に有った電灯の金属は、他の見本となるように、一番先に金属供出に出された。

最終目的地の護国神社・萬宝山石碑に到着。バラ公園内に萬宝山碑台石に比して余りにも小さい。そのはずです。本来の記念碑は戦後直ぐに
進駐軍に破壊され、現在見ることが出来るのは戦後しばらくして四分の一の大きさで再現されたもの。碑の両脇にある発起人等が刻まれた石版は当時のもので、碑が巨大で呉から重量物の専門家が来福。巨石を据え付けた苦労話が刻まれている。 

今回、福山空襲、戦後の都市開発で残り少なくなった戦争遺構を訪ね歩きました。当事者が高齢になり戦争体験を語り継ぐものが、人から物に替わろうとしています 今は辛うじて人が現物を前にして語り継ぐ事が出来る貴重な時ではなかろうかと感じた ぶら探訪でありました。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/08/3860fa70189d4b084deb1674ca16c7f0.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/08/3860fa70189d4b084deb1674ca16c7f0-150x100.jpg管理人紀行・随筆「備陽史探訪:179号」より 北川 浩二 ぶら探訪 その二十一「営所通りを歩く」講師 田口会長、平成二十六年七月五日。午前九時 緑町公園入口付近集合。募集人数三十名に対し参加人数五十八名。近代をテーマにした初のぶら探訪で 参加人数も多く近代に関心を持たれている方が多いのに、驚かされました。 歩兵第四十一聯隊兵営は、大日本帝国終焉の時まで ここの兵営で兵隊を教育・訓練、多くの兵隊を養成、戦地に送り出していきました。その兵隊さん達が地元の歓声に送られ、行進し福山駅に向かったのが「営所通り」といわれていた道です。 今回、講師を務められた田口会長の解説をお聞きしながら、僅かに残された戦争遺構を訪ね、歩兵第四十一聯隊跡から実際に「営所通り」を歩いた。 集合場所の緑町公園は歩兵第四十一聯隊兵営。歩兵第四十一聯隊練兵場は三菱電機となっている。緑町公園内に唯一残る戦争遺構が「将校集会所通用門」煉瓦造りの一対。貴重な遺構です。 歩兵第四十一聯隊と福山、その強い結びつき、現在の企業誘致の形で福山に聯隊を呼び込み、福山の経済を潤わした事を解説された。 又、大正期の軍縮の折、聯隊廃止の俎上が上がったと同時に、経済的パニックが起こり財政破綻の二文字がみえ、当時の阿武信一市長はじめ、市の幹部らが聯隊の福山存続を陳情。何とか存続を取り付け市民は安堵したという。 歩兵第四十一聯隊兵営地整地の折、水はけを考慮してであろうか、僅かにかさ上げされています。その折、基準となったベンチマークが、旧門から営所通り最初の角地に今も残っている。 次に訪ねたのが陸軍病院跡。現在はJA福山。明治四十一年に歩兵第四十一聯隊の衛戍病院として開設。多くの戦傷戦病兵の治療にあたる。昭和十二年福山陸軍病院となるが、昭和二十年八月福山空襲で本館以外は焼失。戦後厚生省管轄となる。現地には、当時の石垣、歩兵第四十一聯隊西門、陸軍病院記念碑、何故か緑町に在るべき歩兵第四十一聯隊跡碑があった。コノ辺りの誤りは何とか成らないものでしょうか。 花園町のバラ公園内に萬宝山碑台石を紹介いただき、参加者でこの台石を囲み日露戦争において萬宝山での歩兵第四十一聯隊による激戦があった事を知る。全滅に近い損害を出しながら、軍旗を守りぬいた、その先輩たちの偉勲を称え、当時の歩兵第四十一聯隊長 樋口季一郎が発起建立したもので、とても大きく、当時の威容を伝えている。出来れば案内板等、欲しいですね。 さらに営所通りを歩き聖園幼稚園に現存する、福山聯隊区司令部門柱前で足を止め、この施設の当時の役割などをお聞きする(福山聯隊区司令部・中国憲兵隊司令部福山憲兵隊) 福山聯隊区司令部は兵士の徴募を実務とし、広島県東部九郡 岡山県西部十一郡を受け持ち、昭和十七年三月に広島聯隊区司令部に移管されるまで徴兵手続きなどを行った。憲兵隊は軍人の非法・違法を検察・糾弾、国内の治安維持を任務とする。昭和になると国家に不都合な思想を取り締まる思想係が設置され、特別高等警察(特高)のはじまりとなる。 なお、この門柱に有った電灯の金属は、他の見本となるように、一番先に金属供出に出された。 最終目的地の護国神社・萬宝山石碑に到着。バラ公園内に萬宝山碑台石に比して余りにも小さい。そのはずです。本来の記念碑は戦後直ぐに 進駐軍に破壊され、現在見ることが出来るのは戦後しばらくして四分の一の大きさで再現されたもの。碑の両脇にある発起人等が刻まれた石版は当時のもので、碑が巨大で呉から重量物の専門家が来福。巨石を据え付けた苦労話が刻まれている。  今回、福山空襲、戦後の都市開発で残り少なくなった戦争遺構を訪ね歩きました。当事者が高齢になり戦争体験を語り継ぐものが、人から物に替わろうとしています 今は辛うじて人が現物を前にして語り継ぐ事が出来る貴重な時ではなかろうかと感じた ぶら探訪でありました。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い