竹田川流域を歩いて

備陽史探訪:179号」より

種本 実

連載「川筋を訪ねて」【その八】

もう何年前だったか、秋なのに竹田川の堤に桜が咲いていたのを見て感激したことがあった。以来、竹田川流域の風景は好きな景観の一つとなっていた。

六月のある日、竹田川沿いの田圃に田植えが終わり、昨今では目にすることが少ない、緑一色の広々とした田園風景を横目に眺めながら、下竹田から上竹田を散策した。以下は、地元の方々からいろんな話を聞き、また備陽六郡志や西備名区、福山志料などの記述を参考にして記してみた。

大内の八幡宮

大内の八幡宮
大内の八幡宮

「大内田村集会所」という建物の看板が目に付いた。少し長い名前の村名だと思ったら、「大内(オーチ)」と「田村」という二つの集落の集会所であった。そばのナマコ壁や土塀に囲まれた大きな屋敷は、戦前までは造り酒屋であったといい風格が漂っていた。

傍に神社があり、鳥居に向かう石段にはノミの後もくっきりと残る。新しい鳥居の額束には「八幡宮」と記されている。「広島県神社誌」には「八幡神社」と記述されているのだが、地元では「八幡宮」が正しい名称であると伝わっている。「八幡宮」は「八幡神社」よりは社格が上で、「下竹田八幡神社」や「上竹田八幡神社」は、当地の八幡宮から勧請されたという。建物や境内の広さも大きくはないが、随身門もあり、大内や田村の氏子の崇拝を受けている社である。

鼓谷の墓地

丸に吉の字の家紋上竹田には鼓ケ岡、鼓池、鼓ヶ岡城など「鼓」を冠した地名が多い。竹田川に架かる橋にも「鼓橋」と命名されている。

「鼓」と言えば、この地に地頭として根付いた鼓氏の歴史を思い起こさずにはおられない。鼓谷にある鼓氏の墓地には五輪塔や宝篋印塔、その他多くの墓標が建ち並んでいて、往時の勢力の一端を垣間見る思いである。丸に吉の字の家紋は、「兜をさかさまにした形」のものが由緒あるもので、先祖から伝わる袴にもその家紋が入っていたそうである。

鼓谷の墓地
鼓谷の墓地
「正所」と刻まれた墓標があるが、家号の一つで,他にも「鼓屋」「仁伍」「出井」「泰砂子」などなどある。「正所」は鼓氏が所有していたこの地方から坪生町付近の、当時は「高富荘」という荘園の管理場所である。「仁伍」は隣の坪生町の桒田家にも同じ屋号があるそうだが、上竹田ほか木之庄町や蔵王町にも地名として残っている。「伍」は兵五人を持つ軍事基であり、二組で村境を守っていたと想像できる。

墓所の東には「鼓池」があり、一人で訪ねた時にはあたりには全く人気はなく静まり返っていて、池には周囲の新緑の山がくっきりと浮かんでいた。「明鏡止水」とは邪心のない澄み切った心のありようであるが、光景でいえば、まさにこのような池の面であると思った。

鼓池の湖面は鏡である
鼓池の湖面は鏡である
かつては、池の周囲から集落の付近までは一面田圃であったという。その当時には、池は灌漑用水の供給源であったはずだが、今では役目は殆ど失われているように見えた。城址と同様、鼓氏の幾星霜の歴史を静かに見守っていることだろう。
正所の屋号
正所の屋号

鼓ガ岡の薬師堂

薬師如来
薬師如来
墓所の南の山には鼓ヶ岡城跡があり、登り口に薬師堂がある。備陽六郡志によれば、堂の前身は長福寺という寺であり、本尊の薬師如来は行基の作という。背中に穴があり、体内から櫛三枚、鏡一面、鼓氏の過去帳が一冊出てきたので、鼓一族が一宇を建立したという。

堂の入り口の上に由来が記されている板があり、同様のことが記されている。六郡志によれば、鼓氏は宇多天皇後胤の、佐々木秀義を祖として、後には現在の三次市比叡尾山城を築き、更に後世には当竹田村の地頭職を得て鼓ケ岡城を築き居住した。旗下にあった毛利氏が防長へ逼塞する際に帰農し、福島正則から由緒書きを求められ認めて提出したという。

本尊を入魂したのは南北朝期に高富庄を得た、佐々木秀義十四代目(薬師如来の由来記による)の三吉覚辨と伝わり、彼の後を継いだ秀盛が延文二(一三五七)年に地頭職を得て地名を冠して鼓を号した。

六郡志には、三吉覚辨の具足やさし物は上竹田村の庄屋・丹蔵方に、系図は下竹田村の庄屋・宇兵衛方に各分けて伝わっているとある。現在はどの家であるのか、興味は募るけれども、興味本位に他家の子孫を追うのは憚られる。

薬師如来の背中の蓋の文字から

背中の蓋の内側
背中の蓋の内側
本尊の背中の穴の蓋を、案内していただいた地元の方が外して見せて下さった。

佛師 脇田七郎兵衛
寶永五年
備後安那郡奉再建仕本願三寶荒神宮     上竹田村鼓谷 鼓弥十郎

鼓氏の名前は他に六名連なっている。
本尊の薬師如来が傷んできたので寶永五(一七〇八)年に修理したようである。堂は当初は長福寺であったと六郡志に記してあるが、寺の鰐口を保存している方によれば、鰐口にも寶永五年と刻まれているそうであり、長福寺の開祖の年であろう。六郡志には寶永七年と記されているが、誤りだろうか。

鼓大三氏と鼓家文書

鼓大三氏の墓
鼓大三氏の墓
墓所の一角に鼓大三氏の墓がある。氏は尾道市に生まれたが、縁あって鼓家に入り同家の系図などを綿密に調べ、貴重な文献群を入手していたようである。

昭和五十三年に発刊された「尾道市文化財春秋十四号」には同氏の随筆が載っている。要旨は、

文化財に関心を抱いて五十年経った。家に伝わる古文書を探し求めて、積み立てた大金をはたいてやっと取戻し仏壇に祀った。尾道市役所で偶然に、東大の相田二郎博士に出会って、古文書の文化財指定を申請するように助言を受けた。今では広島県の重要文化財となっている

云々。短い文面ではあるが、文化財の保存運動と、失われていた鼓家の古文書を探し求めた飽くなき執念が読者の琴線に響く。

鼓大三氏が申請して県の重文に指定されたのは、昭和三十三年八月一日である。その内容は、三吉覚辨と子孫の活動を物語る古文書20余通からなり、広島県立文書館で保管されているが、「広島県史古代中世資料編」に「三吉鼓文書」として掲載されている。由緒書きのほかにも正平六(一三五一)年の日付の、南朝の後村上天皇からの綸旨や、観応二(一三五一)年の、足利尊氏からの下文などあって興味深い。

上竹田の半鐘櫓

半鐘櫓
半鐘櫓
竹田川の源流はどこだろう。川沿いの県道を東へ走っていて目に飛び込んできた半鐘櫓。

私の生まれ育った川口町にも小学生の頃まではあった。今ではめったに見ることがなくなった半鐘櫓をしばらく見上げてみた。鐘は安全面と盗難防止に取り外してあるそうだ。 どこか郷愁をあおる櫓を、いつまでもこのままで保存しておいてほしいと思いつつ、さらに上流を目指した。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/2cf2d88d46a912a4044c9a69544232d5.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/2cf2d88d46a912a4044c9a69544232d5-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:179号」より 種本 実 連載「川筋を訪ねて」【その八】 もう何年前だったか、秋なのに竹田川の堤に桜が咲いていたのを見て感激したことがあった。以来、竹田川流域の風景は好きな景観の一つとなっていた。 六月のある日、竹田川沿いの田圃に田植えが終わり、昨今では目にすることが少ない、緑一色の広々とした田園風景を横目に眺めながら、下竹田から上竹田を散策した。以下は、地元の方々からいろんな話を聞き、また備陽六郡志や西備名区、福山志料などの記述を参考にして記してみた。 大内の八幡宮 「大内田村集会所」という建物の看板が目に付いた。少し長い名前の村名だと思ったら、「大内(オーチ)」と「田村」という二つの集落の集会所であった。そばのナマコ壁や土塀に囲まれた大きな屋敷は、戦前までは造り酒屋であったといい風格が漂っていた。 傍に神社があり、鳥居に向かう石段にはノミの後もくっきりと残る。新しい鳥居の額束には「八幡宮」と記されている。「広島県神社誌」には「八幡神社」と記述されているのだが、地元では「八幡宮」が正しい名称であると伝わっている。「八幡宮」は「八幡神社」よりは社格が上で、「下竹田八幡神社」や「上竹田八幡神社」は、当地の八幡宮から勧請されたという。建物や境内の広さも大きくはないが、随身門もあり、大内や田村の氏子の崇拝を受けている社である。 鼓谷の墓地 上竹田には鼓ケ岡、鼓池、鼓ヶ岡城など「鼓」を冠した地名が多い。竹田川に架かる橋にも「鼓橋」と命名されている。 「鼓」と言えば、この地に地頭として根付いた鼓氏の歴史を思い起こさずにはおられない。鼓谷にある鼓氏の墓地には五輪塔や宝篋印塔、その他多くの墓標が建ち並んでいて、往時の勢力の一端を垣間見る思いである。丸に吉の字の家紋は、「兜をさかさまにした形」のものが由緒あるもので、先祖から伝わる袴にもその家紋が入っていたそうである。 「正所」と刻まれた墓標があるが、家号の一つで,他にも「鼓屋」「仁伍」「出井」「泰砂子」などなどある。「正所」は鼓氏が所有していたこの地方から坪生町付近の、当時は「高富荘」という荘園の管理場所である。「仁伍」は隣の坪生町の桒田家にも同じ屋号があるそうだが、上竹田ほか木之庄町や蔵王町にも地名として残っている。「伍」は兵五人を持つ軍事基であり、二組で村境を守っていたと想像できる。 墓所の東には「鼓池」があり、一人で訪ねた時にはあたりには全く人気はなく静まり返っていて、池には周囲の新緑の山がくっきりと浮かんでいた。「明鏡止水」とは邪心のない澄み切った心のありようであるが、光景でいえば、まさにこのような池の面であると思った。 かつては、池の周囲から集落の付近までは一面田圃であったという。その当時には、池は灌漑用水の供給源であったはずだが、今では役目は殆ど失われているように見えた。城址と同様、鼓氏の幾星霜の歴史を静かに見守っていることだろう。 鼓ガ岡の薬師堂 墓所の南の山には鼓ヶ岡城跡があり、登り口に薬師堂がある。備陽六郡志によれば、堂の前身は長福寺という寺であり、本尊の薬師如来は行基の作という。背中に穴があり、体内から櫛三枚、鏡一面、鼓氏の過去帳が一冊出てきたので、鼓一族が一宇を建立したという。 堂の入り口の上に由来が記されている板があり、同様のことが記されている。六郡志によれば、鼓氏は宇多天皇後胤の、佐々木秀義を祖として、後には現在の三次市比叡尾山城を築き、更に後世には当竹田村の地頭職を得て鼓ケ岡城を築き居住した。旗下にあった毛利氏が防長へ逼塞する際に帰農し、福島正則から由緒書きを求められ認めて提出したという。 本尊を入魂したのは南北朝期に高富庄を得た、佐々木秀義十四代目(薬師如来の由来記による)の三吉覚辨と伝わり、彼の後を継いだ秀盛が延文二(一三五七)年に地頭職を得て地名を冠して鼓を号した。 六郡志には、三吉覚辨の具足やさし物は上竹田村の庄屋・丹蔵方に、系図は下竹田村の庄屋・宇兵衛方に各分けて伝わっているとある。現在はどの家であるのか、興味は募るけれども、興味本位に他家の子孫を追うのは憚られる。 薬師如来の背中の蓋の文字から 本尊の背中の穴の蓋を、案内していただいた地元の方が外して見せて下さった。 佛師 脇田七郎兵衛 寶永五年 備後安那郡奉再建仕本願三寶荒神宮     上竹田村鼓谷 鼓弥十郎 鼓氏の名前は他に六名連なっている。 本尊の薬師如来が傷んできたので寶永五(一七〇八)年に修理したようである。堂は当初は長福寺であったと六郡志に記してあるが、寺の鰐口を保存している方によれば、鰐口にも寶永五年と刻まれているそうであり、長福寺の開祖の年であろう。六郡志には寶永七年と記されているが、誤りだろうか。 鼓大三氏と鼓家文書 墓所の一角に鼓大三氏の墓がある。氏は尾道市に生まれたが、縁あって鼓家に入り同家の系図などを綿密に調べ、貴重な文献群を入手していたようである。 昭和五十三年に発刊された「尾道市文化財春秋十四号」には同氏の随筆が載っている。要旨は、 文化財に関心を抱いて五十年経った。家に伝わる古文書を探し求めて、積み立てた大金をはたいてやっと取戻し仏壇に祀った。尾道市役所で偶然に、東大の相田二郎博士に出会って、古文書の文化財指定を申請するように助言を受けた。今では広島県の重要文化財となっている云々。短い文面ではあるが、文化財の保存運動と、失われていた鼓家の古文書を探し求めた飽くなき執念が読者の琴線に響く。 鼓大三氏が申請して県の重文に指定されたのは、昭和三十三年八月一日である。その内容は、三吉覚辨と子孫の活動を物語る古文書20余通からなり、広島県立文書館で保管されているが、「広島県史古代中世資料編」に「三吉鼓文書」として掲載されている。由緒書きのほかにも正平六(一三五一)年の日付の、南朝の後村上天皇からの綸旨や、観応二(一三五一)年の、足利尊氏からの下文などあって興味深い。 上竹田の半鐘櫓 竹田川の源流はどこだろう。川沿いの県道を東へ走っていて目に飛び込んできた半鐘櫓。 私の生まれ育った川口町にも小学生の頃まではあった。今ではめったに見ることがなくなった半鐘櫓をしばらく見上げてみた。鐘は安全面と盗難防止に取り外してあるそうだ。 どこか郷愁をあおる櫓を、いつまでもこのままで保存しておいてほしいと思いつつ、さらに上流を目指した。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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