備後の辻堂の名称に関する考察

備陽史探訪:189号」より

田口 由実

1、はじめに

文化庁の国指定文化財等データベースのホームページの中で、「安芸・備後の辻堂の習俗」の解説文に以下の記載がある。

広島県下には、今日でも辻堂・お堂・四つ堂・休み堂・地蔵堂・薬師堂・観音堂・大師堂・阿弥陀堂などと呼ばれる吹き抜けないしは三方を板囲いした簡素な堂が備後の南部を中心にして、広く分布している。

昭和58年に選択民俗文化財となって以来、「辻堂」の名称に統一されたが、広辞苑による「辻堂」の意味は「路傍に建ててある仏堂」である。一般的な辻堂のイメージは図①のような仏堂であろう。「備後の辻堂」は、四方吹放が標準であり、果たして「辻堂」という呼び名でいいのか、また、様々ある呼び名の違いは何に因るものなのか、考察してみた。

辻堂のイメージ
図①

2、史料に見る辻堂の名称

1)備陽六郡志にみるお堂

「宝永八年(一七一一)の差出帳」(注1)による各村のお堂の呼び名は

  • 堂57
  • 四ツ堂24
  • 辻堂19
  • 堂宮2
  • 阿弥陀堂3
  • 観音堂3
  • 地蔵堂1
  • 薬師堂1

であった。
堂宮以下はそれぞれ単独数の場合であり、複数の場合は、「堂」「四ツ堂」「辻堂」で表記されている。

以下、品治郡雨木村と助元村を例にとる。

雨木村
一、堂五ケ所 除地五畝四歩
助元村 
一、堂拾ケ所 除地四反五畝廿壱歩(※除地(徐地)とは免税地の事、年貢が免除される)

これらの堂の内訳は、神社仏閣徐地(注2)にさらに詳しく記されている。(図②参照)

図②:雨木村と助元村における堂に関する除地
図②:雨木村と助元村における堂に関する除地

雨木村は、合計堂五ケ所で除地六畝四歩。差出張とは一畝分異なるが、大師堂の堂敷三畝六歩の間違いの可能性が考えられる。(原本欠文字のため)

薬師堂と四ツ堂三ケ所は、一間四方の大きさ、大師堂は九尺四方と、堂の大きさはさほど違いがない。では、除地はどうであろう。四ツ堂が一カ所につき二歩=二坪のみであるが、薬師堂、大師堂ははるかに大きな除地が与えられている。これは、薬師堂や大師堂の維持・管理、つまりお祀り費用に充てるための収入源あるいは共有で自由に使うために確保された土地であろう。

逆に言えば、四ツ堂には、お祀りする対象や村民が活用するスペースは、なかったということになる。

助元村についても、全拾ケ所のお堂の内、四ツ堂は四カ所。除地は堂敷二坪×一ケ所と一坪×三ケ所のみである。

では四ツ堂には信仰対象は何もなかったのであろうか。

備陽六郡志外編(注3)では

雨木村
薬師堂壱ケ所 どい
地蔵堂三ケ所

となっており、大師堂の記載がなく、四ツ堂が地蔵堂と記されている。

しかし、同じ頁の雨木村の岩畳神社の絵図(図③)には右端の堂に「四ツ堂」と添え書きがしてある。ちなみに、同じようなアングルで、「備後略記(一八〇〇年代)」に神田ノ神の絵図(注4)(図④)が掲載されているが、寄棟の藁葺の四本柱吹放の四ツ堂の絵がはっきりと描かれているものの、「四ツ堂」の文字はない。

図③:岩畳神社絵図の一部
図③:岩畳神社絵図の一部
図④:岩畳神社絵図の一部
図④:岩畳神社絵図の一部

この堂の現在の姿が図⑤の神田の阿弥陀地蔵堂と推定される。

図⑤:図③の四ツ堂の現在の姿。神田の阿弥陀地蔵堂。
図⑤:図③の四ツ堂の現在の姿。神田の阿弥陀地蔵堂。

また助元村では、

地蔵堂三ケ所 舟木 下たるみ 寺のうへ
観音堂壱ケ所 新蔵 新山福盛寺の支配
薬師堂壱ケ所 けんじか峠
四ツ堂四ケ所 かうやあみた堂 正有地蔵堂 かと地蔵堂 堂の上地蔵堂

堂の数と種類は先の神社仏閣徐地のものと符合しているが、四ツ堂四ケ所の内訳が阿弥陀堂一ケ所、地蔵堂三ケ所とある。堂敷以外の除地がないので費用がかかるお祀り事はしないが、信仰の対象となるものが四ツ堂の中にあったということになる。

他村でも、「堂」の内訳の「四ツ堂」は、おおむね一間以下四方で、堂敷は一~二坪の小さなものである。しかし、「四ツ堂」の内訳に地蔵堂や観音堂があったり、除地が多く取ってあったり、二間四方のお堂であったりするものもある。

この事から、「辻堂」「堂」が「四ツ堂」「地蔵堂」「観音堂」などの総称というわけではないと思われる。つまり、「地蔵堂」「観音堂」の総称としての「四ツ堂」も存在するというわけで、「堂」=「辻堂」=「四ツ堂」の図式も成り立つ。

四ツ堂と地蔵堂・薬師堂などの呼び名の違いは、信仰対象を祀るかどうかではなく、主たる機能を何におくかの違いではないだろうか。

2)中国行程記に見るお堂

中国行程記(明和元年(一七六四))の高屋村から今津村の間の内、目録合紋の「堂」の印があるものを数えると以下の通り。

  • 四ツ堂17
  • 観音7
  • 地蔵3
  • 庚申2
  • 大師2
  • 大日1
  • 庵1
  • 一休堂1

辻堂という名称はない。「四ツ堂」=「辻堂」という意味合いか、あるいは「堂」=「辻堂」なのか。いずれにせよ、この時代では、辻堂はそれほど一般的ではない名称なのかもしれない。

また、この内、上御領村の一里塚の近くの地蔵堂は現在同場所にある堂(図⑥)と推定される。ただし、本尊は地蔵菩薩と観音菩薩である。図②~図⑥を見る限り、構造上、あるいは機能上での名称の区別はつきにくい。

図⑥:中国行程記にある 一里塚そばの堂
図⑥:中国行程記にある
一里塚そばの堂

差出帳も行程記も厳然たる統一基準があるわけではなく、地元の人が言い伝う名称が記された可能性が高い。とするならば、旅人の休憩所は「四ツ堂」と名付けられ、特に本尊の信仰が厚い堂は、その本尊の名前が通称になったことが考えられるのではないだろうか。

3)西備名区に見るお堂

西備名区(文化元年(一八〇四))には、助元村、雨木村はもとより、四ツ堂、辻堂に関する各村の記録はないが、四ツ堂と思われる記述が、「勝成候を憩亭に休息せしめ」(注5)という一文に見られる。

堂内に信仰対象があったかどうかは不明であるが、文化元年(一八〇四)頃には、旅人の休憩所として「憩亭」と呼び習わされるようになったのかもしれない。

確かに四本柱の吹放の建物は「堂」というよりは「亭」(旅人の宿泊所。屋根だけで壁のない休息所。)の方が正しいであろう。

4)福山志料に見るお堂

菅茶山編纂による『福山志料』(文化六年(一八〇九)の例言に

一、憩亭ハ微少ナレトモ此國ノミ多クアリテ他國ニ稀ナルモノナレハソノ所ト数トヲ録ス(後略)

とあり、この時代にすでに地域特有なものという意識があったようである。

雨木村
憩亭六 神田 田口 新屋 野々倉 西 日和
助元村
憩亭十三 地蔵堂 薬師堂 観音寺 峠 ハナ 石井 門前 下タルミ 寺上 カシヤ 堂迫 山根(注6

これらの憩亭は場所が記されているため、ある程度、現在のどの堂に該当するかと推測することができる。雨木村は、宝永八年のものと比較するのは困難であるが、助元村は小字が記されているので、およその見当がつけられる。

宝永8年では、舟木地蔵堂、下たるみ地蔵堂、新蔵観音堂、寺の上釈迦堂、けしか峠薬師堂、寺の上地蔵堂、四ツ堂(かしや、かうや、かと、堂の上)だったが、この頃には、釈迦堂も四ツ堂もすべて憩亭でひとくくりである。

いずれも旅人の休息所として利用することを目的に記されたものであろう。この時代の憩亭とは、つまり、誰もが休息できる休み処としての機能を主としたものと推測する。

3、まとめ

江戸時代はじめ一七〇〇年代までは、旅人の休み処として「四ツ堂」と呼ばれた堂が存在した。おおむね、一間四方の除地しか持たぬ、四本柱のみの簡易な建物であった。あるいは、地蔵堂、観音堂などと呼ばれた堂も、四ツ堂と同様の構造と目的を持つものもあった。

一八〇〇年代になると、仏堂や四ツ堂の区別なく、旅人の休み処として「憩亭」と呼ぶようになった。また「此国(福山藩領か?備後国か?)特有なもの」という認識がすでにされていた。

現代において、「備後の辻堂」と総称されるようになった。もっとも、近代現代においては、旅人の休憩処である「四ツ堂」「憩亭」の機能よりは、信仰の対象としての堂の意味合いが強かったようなので、「辻堂」という名前の方がより適しているのかもしれない。

各集落ごとにも通称があったであろうから、それこそ、呼び名は地域、時代ごとに様々であり、どの様式が「四ツ堂」「憩亭」「地蔵堂(仏堂)」に当てはまるとは言えない。しかし、「備後の辻堂」は、いわゆる四方囲いの仏堂ではない。「四ツ堂」「憩亭」が四方吹放で、旅人の休息所という機能性に勝ったお堂を言うのであれば、郷土史においては「辻堂」よりも、「四ツ堂」「憩亭」の表現の方がより適正なのではあるまいか。

「四ツ堂」「憩亭」が、備後圏あるいは、福山領内において、特有の名前なのかどうか今後の研究課題である。(広島県~兵庫あたりまでは、四ツ堂という地名があり、かなり広い範囲で呼ばれていた可能性もある。)

【補注】

  • 注1)備陽六郡志『備後叢書(一)』(1970)
  • 注2)備陽六郡志『備後叢書(一)』(1970)302p・303p
  • 注3)備陽六郡志『備後叢書(一)』(1970)440p・441p
  • 注4)備後略記『続・備後叢書(下)』(1971)50p・51p
  • 注5)西備名区巻二十五 『備後叢書(三)』(1970)660p
  • 注6)福山志料 上巻 巻之十七 品治郡(1968)P17・P22

(参考文献)

  • 無漏田芳信・酒井要・山崎仁志「辻堂に関する文献記述の考察」『日本建築学会中国支部研究報告書第22集』(1999)
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