「山城探訪」より
網本 善光
笠岡市の歴史を語るうえで、その発展の基礎を形作った中世の陶山氏の存在を忘れることはできない。
平安時代末の源平の合戦にその名を現し、特に鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した陶山氏は、ある意味で謎の多い一族でもある。
『笠岡市史』の整理するところによれば、源平の合戦において、平家方についた妹尾兼康の武将に「陶山通勝」の名前が見え、さらに、『源平盛衰記』には「陶山高頼」の名が挙がっているとのことである。
しかし、陶山氏の名を高らしむるのは、『太平記』が描くところの、笠置山での奮戦すさまじい「陶山藤三義高」によってであろう。後に、義高の子と伝える陶山又次郎高直が足利尊氏方につき、さらには、室町幕府において、将軍周辺の奉公衆として、京で活躍したと同時に、陶山氏は笠岡の地で安定した領国経営を行ったとされている。
現在、こうした陶山氏の繁栄を伝える史料。遺跡などはほとんど見られないが、ゆかりの史跡として、いくつかの城跡の存在が指摘されている。
まず、笠岡市の市街地の西、JR山陽本線の金崎トンネルを抜けた西側、金浦地内の西浜(ようすな)に築かれたと言われるのが「西浜城(笠岡市史)・西浜陶山城(小田郡誌)」である。
『笠岡市史』の記載に基づくと、金浦の町の背後、標高八七・三メートルの山頂を中心とする三つの峰々に、本丸・東丸・西丸が築かれたとされる。この城は、陶山藤三義高が築城し、代々陶山氏の居城となったと伝えている。山麓には現在、八幡宮・妙見宮・祇園宮などが祀られ、城跡の中腹に陶山氏の居館跡と伝えられる観音堂と井戸がある。
現地を踏査したところ、金浦の町を取り囲むように連なる三つの峰は、確かにその山頂付近に若干の平坦部を残すものの、郭と確認される遺構の存在はもちろん、空堀・堀切りなどの遺構も確認することができなかった。
次に、笠岡の市街地の西部、先程の金崎トンネルの東側の山裾付近に築かれたとされるのが、「笠岡山城(笠岡市史)」である。
この城は、笠岡の市街地の西にそびえる竜王山を中心としたもので、西浜城を築いた陶山氏が、笠岡の地の町づくりとともに移ったものと考えられている。陶山義高の菩提寺と伝える、威徳寺のあたりに居館を構え、威徳寺の西に張り出す「小太郎丸」付近から、同じく威徳寺の北東約四百メートルの八幡宮の辺りまでを城郭として想定し、東側を流れる隅田川を堀の代わりとしてめぐらせたもの、とも言われている(『笠岡市史』)。
この城跡の確認はできていないが、以前よりこの付近からは中世にさかのぼると考えられる五輪石塔が見つかっており、昭和六一年に、「笠岡山城古墓を祀る会」の手によって、これらは威徳寺の境内に集め祀られている。
現地踏査の結果、威徳寺西側の山塊尾根付近では、城跡の遺構を確認することはできなかった。ただし、八幡宮から西、竜王山の山頂付近の標高一五三・七メートルの位置に建てられている八大竜王社の周囲において、ほぼ同心円状の三段の平坦部を確認することができた。
第一段は、その南西部分が削平されているものの、直径約二〇メートルの円形を示す。中央部やや南西よりに竜王社が建てられており、南側には、若干の石積みも認められる。
第二段は、それより約一・五メートル低く、幅十メートルほどの平坦部が周囲をめぐるものである。東西約四〇メートル、南北約三〇メートルのやや楕円に近い平面形を示している。その北側は削平を受け、また、北西方向から南方向に沿って、竜三社に続く参拝路がつけられており、地形は改変を受けているものの、東側は、加工の跡をとどめる段丘をよく残している。
第三段は、さらに約一メートル下がって、幅約五メートルの細い平坦部であり、北側から東側にかけての一部にのみ残されている。その西側は参拝路により削られていることが推測されるけれども、南側に向けて周囲をめぐっていたとは地形上考えにくい。
これらの段丘は、いずれもしっかりとした平坦部をもち、確かに山頂部に竜王社が建てられているものの、その境内地として想定するには不自然な地形であると考えられることから、城跡の一部ではないかと考えた。
なお、これらの南西、参拝路を下り、やや西に入ったところで、長さ約二五メートルにわたって人頭大の石積みも確認されたが、相互の関連は不明である。
これらの遺構の残る位置は、威徳寺からは、北に百メートル余りの比高差をもつ山の頂上であるものの、笠岡の市街地を一望できる場所であり、瀬戸内海を見晴らし、向かいに、後に村上氏の居城が築かれる「笠岡城(現在の古城山公園)」をも臨むものである。この遺構をもって、ただちに笠岡山城の主郭と断定はできないが、城に関連する遺構である可能性は高いのではあるまいか。
最後に、笠岡の市街地の東側、ちょうど海に突き出すようにせりだし、国道2号線のトンネルが貫通する低い丘陵に築かれたのが、「笠岡城(笠岡市史)・笠岡山城(古戦場備中府志・小田郡誌・日本城郭大系)」である。
陶山藤三義高の築城とも伝えられるが、弘治年間(一五五五~一五五人)に、村上隆重が宗家村上掃部のために築城したものともいわれる。その後、隆重の子である村上景広が慶長四年(一五九九)まで居城とした。しかし、近世以降に大幅に削平を受けた結果、今では、城の遺構はほとんど残っておらず、山頂付近が「古城山公園」として、市民の憩いの場となっている。
笠岡の浦と呼ばれたこの地に築かれた城は、『備中兵乱記』や『中国兵乱記』に毛利方の前線基地の有力な城の一つとして登場し、合わせて、「笠岡掃部」「村上弾正」などの名前が見える。『笠岡市史』では、笠岡掃部を村上隆重の甥である村上武吉(掃部)と、村上弾正を村上景広と考えている。
西浜城跡を訪ねるには、国道2号線の金崎橋を過ぎて北に折れ、金浦の市街地に入る。市街地北部にある妙見宮あたりから山道を上ることとなる。
笠岡山城跡については、まず、威徳寺はJR笠岡駅下車、市街地の西へ徒歩約十分である。また、市街地北西部の市営相生墓園の駐車場より道を上れば、竜王社までは徒歩でもわずかである。そして、笠岡城跡は、市街地の東部、JR笠岡駅から徒歩約一五分であり、遊歩道も整備されている。
【笠岡山城跡(竜王山)】
《参考文献》
「備中兵乱記」『吉備群書集成』第三輯
「中国兵乱記」『同』 第二輯
「古戦場備中府志」『同』 第五輯
『小田郡誌』
『笠岡市史 第一巻』
新人物往来社刊『日本城郭大系』(巻十三広島・岡山版 一九八〇)
加原耕作編著「新釈 備中兵乱記」(一九八七)
https://bingo-history.net/archives/13852https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/0792292c032364d791867a3218d2c40c.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/0792292c032364d791867a3218d2c40c-150x100.jpg管理人中世史「山城探訪」より
網本 善光 笠岡市の歴史を語るうえで、その発展の基礎を形作った中世の陶山氏の存在を忘れることはできない。 平安時代末の源平の合戦にその名を現し、特に鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した陶山氏は、ある意味で謎の多い一族でもある。 『笠岡市史』の整理するところによれば、源平の合戦において、平家方についた妹尾兼康の武将に「陶山通勝」の名前が見え、さらに、『源平盛衰記』には「陶山高頼」の名が挙がっているとのことである。 しかし、陶山氏の名を高らしむるのは、『太平記』が描くところの、笠置山での奮戦すさまじい「陶山藤三義高」によってであろう。後に、義高の子と伝える陶山又次郎高直が足利尊氏方につき、さらには、室町幕府において、将軍周辺の奉公衆として、京で活躍したと同時に、陶山氏は笠岡の地で安定した領国経営を行ったとされている。 現在、こうした陶山氏の繁栄を伝える史料。遺跡などはほとんど見られないが、ゆかりの史跡として、いくつかの城跡の存在が指摘されている。 まず、笠岡市の市街地の西、JR山陽本線の金崎トンネルを抜けた西側、金浦地内の西浜(ようすな)に築かれたと言われるのが「西浜城(笠岡市史)・西浜陶山城(小田郡誌)」である。 『笠岡市史』の記載に基づくと、金浦の町の背後、標高八七・三メートルの山頂を中心とする三つの峰々に、本丸・東丸・西丸が築かれたとされる。この城は、陶山藤三義高が築城し、代々陶山氏の居城となったと伝えている。山麓には現在、八幡宮・妙見宮・祇園宮などが祀られ、城跡の中腹に陶山氏の居館跡と伝えられる観音堂と井戸がある。 現地を踏査したところ、金浦の町を取り囲むように連なる三つの峰は、確かにその山頂付近に若干の平坦部を残すものの、郭と確認される遺構の存在はもちろん、空堀・堀切りなどの遺構も確認することができなかった。 次に、笠岡の市街地の西部、先程の金崎トンネルの東側の山裾付近に築かれたとされるのが、「笠岡山城(笠岡市史)」である。 この城は、笠岡の市街地の西にそびえる竜王山を中心としたもので、西浜城を築いた陶山氏が、笠岡の地の町づくりとともに移ったものと考えられている。陶山義高の菩提寺と伝える、威徳寺のあたりに居館を構え、威徳寺の西に張り出す「小太郎丸」付近から、同じく威徳寺の北東約四百メートルの八幡宮の辺りまでを城郭として想定し、東側を流れる隅田川を堀の代わりとしてめぐらせたもの、とも言われている(『笠岡市史』)。 この城跡の確認はできていないが、以前よりこの付近からは中世にさかのぼると考えられる五輪石塔が見つかっており、昭和六一年に、「笠岡山城古墓を祀る会」の手によって、これらは威徳寺の境内に集め祀られている。 現地踏査の結果、威徳寺西側の山塊尾根付近では、城跡の遺構を確認することはできなかった。ただし、八幡宮から西、竜王山の山頂付近の標高一五三・七メートルの位置に建てられている八大竜王社の周囲において、ほぼ同心円状の三段の平坦部を確認することができた。 第一段は、その南西部分が削平されているものの、直径約二〇メートルの円形を示す。中央部やや南西よりに竜王社が建てられており、南側には、若干の石積みも認められる。 第二段は、それより約一・五メートル低く、幅十メートルほどの平坦部が周囲をめぐるものである。東西約四〇メートル、南北約三〇メートルのやや楕円に近い平面形を示している。その北側は削平を受け、また、北西方向から南方向に沿って、竜三社に続く参拝路がつけられており、地形は改変を受けているものの、東側は、加工の跡をとどめる段丘をよく残している。 第三段は、さらに約一メートル下がって、幅約五メートルの細い平坦部であり、北側から東側にかけての一部にのみ残されている。その西側は参拝路により削られていることが推測されるけれども、南側に向けて周囲をめぐっていたとは地形上考えにくい。 これらの段丘は、いずれもしっかりとした平坦部をもち、確かに山頂部に竜王社が建てられているものの、その境内地として想定するには不自然な地形であると考えられることから、城跡の一部ではないかと考えた。 なお、これらの南西、参拝路を下り、やや西に入ったところで、長さ約二五メートルにわたって人頭大の石積みも確認されたが、相互の関連は不明である。 これらの遺構の残る位置は、威徳寺からは、北に百メートル余りの比高差をもつ山の頂上であるものの、笠岡の市街地を一望できる場所であり、瀬戸内海を見晴らし、向かいに、後に村上氏の居城が築かれる「笠岡城(現在の古城山公園)」をも臨むものである。この遺構をもって、ただちに笠岡山城の主郭と断定はできないが、城に関連する遺構である可能性は高いのではあるまいか。 最後に、笠岡の市街地の東側、ちょうど海に突き出すようにせりだし、国道2号線のトンネルが貫通する低い丘陵に築かれたのが、「笠岡城(笠岡市史)・笠岡山城(古戦場備中府志・小田郡誌・日本城郭大系)」である。 陶山藤三義高の築城とも伝えられるが、弘治年間(一五五五~一五五人)に、村上隆重が宗家村上掃部のために築城したものともいわれる。その後、隆重の子である村上景広が慶長四年(一五九九)まで居城とした。しかし、近世以降に大幅に削平を受けた結果、今では、城の遺構はほとんど残っておらず、山頂付近が「古城山公園」として、市民の憩いの場となっている。 笠岡の浦と呼ばれたこの地に築かれた城は、『備中兵乱記』や『中国兵乱記』に毛利方の前線基地の有力な城の一つとして登場し、合わせて、「笠岡掃部」「村上弾正」などの名前が見える。『笠岡市史』では、笠岡掃部を村上隆重の甥である村上武吉(掃部)と、村上弾正を村上景広と考えている。 西浜城跡を訪ねるには、国道2号線の金崎橋を過ぎて北に折れ、金浦の市街地に入る。市街地北部にある妙見宮あたりから山道を上ることとなる。 笠岡山城跡については、まず、威徳寺はJR笠岡駅下車、市街地の西へ徒歩約十分である。また、市街地北西部の市営相生墓園の駐車場より道を上れば、竜王社までは徒歩でもわずかである。そして、笠岡城跡は、市街地の東部、JR笠岡駅から徒歩約一五分であり、遊歩道も整備されている。 【笠岡山城跡(竜王山)】 《参考文献》
「備中兵乱記」『吉備群書集成』第三輯
「中国兵乱記」『同』 第二輯
「古戦場備中府志」『同』 第五輯
『小田郡誌』
『笠岡市史 第一巻』
新人物往来社刊『日本城郭大系』(巻十三広島・岡山版 一九八〇)
加原耕作編著「新釈 備中兵乱記」(一九八七)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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