「備中清和寺文書」下野守寄進状
「備陽史探訪:173号」より
田口 義之
この文書に始めて出会ったのは、今から二十五年前の一平成元年のこと。同年、井原史談会の岸加四郎さんが亡くなられ、同会から、追悼論文の依頼があった時である。
この追悼論文で、私は備後宮氏と井原地方の関係を調査し、論文にまとめた(1)。その際、最初にあたったのは備後叢書所収『古戦場備中府志』であった。同書後月郡下鴫村(現井原市芳井町)井戸橋山城の所に左の記述があった。
天文年中城主宮左衛門尉実信、事跡は当邑清和寺に悉く伝われり
宮実信は、宮上野介家の戦国期の当主で、当時最も力を入れて研究していた人物である。そこで、清和寺の記録を当たってみた。『後月郡誌』を見ると、同寺には数通の古文書が伝えられていて、「下野権守盛重寄進状」「下野守寄進状」などの文字が日に飛び込んできた。下野権守盛重は上野介家に対抗した下野守家の初代、宮盛重のことではないか…。
早速図書館に行き、資料を探した。幸い岡山県には『岡山県古文書集』があって、該当の清和寺文書も収録されていた。
残念ながら、観応三年(一三五二)二月十日付下野権守盛重寄進状の原本は失われていたが、永和元年(一三七五)九月二十日付下野守某寄進状は原本が残っていた。内容は、道裔僧が先祖菩提の為に「安井寺(清和寺の前身)」に土地を寄付したことを認めるというもので、当時、下野守なる人物が領主として地域に君臨していたことを示していた。
この文書を見て、真っ先に頭に浮かんだのは、この下野守は下野権守盛重すなわち、下野守家に連なる者ではなかろうか、ということである。
宮氏は、上野介家の祖宮兼信が貞治三年(一三六四)、備中守護を務めており、一族が備中国内に権益を獲得したことは充分考えられる。では、この人物は兼信、或いはその子に当たる人物かといえば、そうではない。兼信は入道しており、子の氏信は上野介を官途とし、下野守を名乗ったことはない。やはり下野権守盛重の子と考えた方が良いだろう。
幕府の安定と共に宮氏は幕府奉公衆として京都に姿を現す。その最初が永和元年三月二七日、将軍義満の石清水社参の近習役を務めた宮下野守であった(花営三代記)。盛重は下野権守を官途としているから、この下野守は盛重ではない。清和寺文書の下野守と見て良いだろう。
下野守家で実名が初めて確認できるのは盛重の孫満盛で、明徳三年(一三九二)の「相国寺供養記」に宮修理亮藤原満盛とある。とすると、この下野守は盛重の後で、満盛の前の人物、徳雲寺記に二代として出てくる、下野太郎師盛と判断出来る。
このように、清和寺文書は備後宮氏が隣国備中にも権益を有していたことを示す貴重な史料なのである。
(1)田口義之「備後宮氏と井原地方」(史談いばら第15号)
https://bingo-history.net/archives/12813https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/00c53f4efb92f3ff2f7db193362cb56c.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/00c53f4efb92f3ff2f7db193362cb56c-150x100.jpg中世史「備陽史探訪:173号」より 田口 義之 この文書に始めて出会ったのは、今から二十五年前の一平成元年のこと。同年、井原史談会の岸加四郎さんが亡くなられ、同会から、追悼論文の依頼があった時である。 この追悼論文で、私は備後宮氏と井原地方の関係を調査し、論文にまとめた(1)。その際、最初にあたったのは備後叢書所収『古戦場備中府志』であった。同書後月郡下鴫村(現井原市芳井町)井戸橋山城の所に左の記述があった。 天文年中城主宮左衛門尉実信、事跡は当邑清和寺に悉く伝われり 宮実信は、宮上野介家の戦国期の当主で、当時最も力を入れて研究していた人物である。そこで、清和寺の記録を当たってみた。『後月郡誌』を見ると、同寺には数通の古文書が伝えられていて、「下野権守盛重寄進状」「下野守寄進状」などの文字が日に飛び込んできた。下野権守盛重は上野介家に対抗した下野守家の初代、宮盛重のことではないか…。 早速図書館に行き、資料を探した。幸い岡山県には『岡山県古文書集』があって、該当の清和寺文書も収録されていた。 残念ながら、観応三年(一三五二)二月十日付下野権守盛重寄進状の原本は失われていたが、永和元年(一三七五)九月二十日付下野守某寄進状は原本が残っていた。内容は、道裔僧が先祖菩提の為に「安井寺(清和寺の前身)」に土地を寄付したことを認めるというもので、当時、下野守なる人物が領主として地域に君臨していたことを示していた。 この文書を見て、真っ先に頭に浮かんだのは、この下野守は下野権守盛重すなわち、下野守家に連なる者ではなかろうか、ということである。 宮氏は、上野介家の祖宮兼信が貞治三年(一三六四)、備中守護を務めており、一族が備中国内に権益を獲得したことは充分考えられる。では、この人物は兼信、或いはその子に当たる人物かといえば、そうではない。兼信は入道しており、子の氏信は上野介を官途とし、下野守を名乗ったことはない。やはり下野権守盛重の子と考えた方が良いだろう。 幕府の安定と共に宮氏は幕府奉公衆として京都に姿を現す。その最初が永和元年三月二七日、将軍義満の石清水社参の近習役を務めた宮下野守であった(花営三代記)。盛重は下野権守を官途としているから、この下野守は盛重ではない。清和寺文書の下野守と見て良いだろう。 下野守家で実名が初めて確認できるのは盛重の孫満盛で、明徳三年(一三九二)の「相国寺供養記」に宮修理亮藤原満盛とある。とすると、この下野守は盛重の後で、満盛の前の人物、徳雲寺記に二代として出てくる、下野太郎師盛と判断出来る。 このように、清和寺文書は備後宮氏が隣国備中にも権益を有していたことを示す貴重な史料なのである。 (1)田口義之「備後宮氏と井原地方」(史談いばら第15号)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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