引野の梶島山に四ツ堂があった(新発見!)
「備陽史探訪:173号」より
三好 勝芳
引野の四ツ堂は、『福山志料』によると、当時十三ヵ所に存在したといわれる。それは、野路、竹之内、オノ峠、カウ子、妙観寺、寺砂子、日和、原、辻之堂、神宮寺、山之上、中ノ堂、新屋に在ったとされている。
ところが、現在残っているのは、古地四番、公民館前、古地小字岡田、寺砂子の境、天神下道路脇、山之上東部中曽祢の四ヵ所であると『引野町誌』に記載されている。
梶島山の西北、旧太田屋敷(現内山氏宅地)の南西南の草むらの中に、四ツ堂の棟瓦を発見、あたりを調べて見ると、二米五十糎の正方形に石が並べられた四ツ堂の基礎と思われる跡が藪の中に発見された。
梶島山にも四ツ堂があったのだ。今までに記録されることもなく、梶島山でも知られていなかった四ツ堂跡の歴史的発見である。
梶島山は、正保二年(一六四五)まで、海に浮ぶ、梶島であった。
水野干拓によって、梶島と宅部端を百間土手で結び、前古屋の高崎から梶島へ石樋畷(いしびなわて)と云う土手を正保二年(一六四五)に完成し、千拓地、引野佃沖新涯が出来上り、梶島は島でなく陸続きの山になった。
梶島山には、中腹を一廻する古い道がある。この道は島の時代からあったと思われる。南側は汐土手が出来るまで海の荒波に洗われる岩場であった。従って、百間土手から真直ぐに西に山を登り、中腹を通り山の西端に出ると、道は現在の大平氏宅の東側を北側に曲り山の西側中腹を北に下ると四ツ堂跡に出る。
四ツ堂跡を直線的に藪の中を北に進むと、石樋畷である。
引野沖浦に着いた人々や荷物は、沖浦から長浜を通り、宅部から百間土手で梶島山に到り、石樋畷から高崎に到る引野バイパス道路が引野佃沖新涯の完成で出来上がった。その道の中間点が、今回発見された四ツ堂跡になる。引野沖浦から梶島山・高崎。市村経由の神辺への大切な道の「休み場」として、当時は大いに活用されたであろうことが想像される。
その後、千間土手が出来(正保四年)、汐土手が出来(寛文八年)るに及んで、道も石樋畷が梶島山の西側を廻って、天当島山に向う大道が出来て、この四ツ堂も何時しか忘れられ、その内に、朽ち果てて、腐らない棟瓦と基礎を残すのみとなり、現在に至っている。
従って、この四ツ堂は正保四年(一六四五)から、寛文八年(一六六八)の間の早い時期に創られ、明治初年までは現存したものと思われる。
(平成25年7月15日)
https://bingo-history.net/archives/12843https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/7db174a41ee796d61aab98b1f6c103a6.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/7db174a41ee796d61aab98b1f6c103a6-150x100.jpg近世近代史「備陽史探訪:173号」より 三好 勝芳 引野の四ツ堂は、『福山志料』によると、当時十三ヵ所に存在したといわれる。それは、野路、竹之内、オノ峠、カウ子、妙観寺、寺砂子、日和、原、辻之堂、神宮寺、山之上、中ノ堂、新屋に在ったとされている。 ところが、現在残っているのは、古地四番、公民館前、古地小字岡田、寺砂子の境、天神下道路脇、山之上東部中曽祢の四ヵ所であると『引野町誌』に記載されている。 梶島山の西北、旧太田屋敷(現内山氏宅地)の南西南の草むらの中に、四ツ堂の棟瓦を発見、あたりを調べて見ると、二米五十糎の正方形に石が並べられた四ツ堂の基礎と思われる跡が藪の中に発見された。 梶島山にも四ツ堂があったのだ。今までに記録されることもなく、梶島山でも知られていなかった四ツ堂跡の歴史的発見である。 梶島山は、正保二年(一六四五)まで、海に浮ぶ、梶島であった。 水野干拓によって、梶島と宅部端を百間土手で結び、前古屋の高崎から梶島へ石樋畷(いしびなわて)と云う土手を正保二年(一六四五)に完成し、千拓地、引野佃沖新涯が出来上り、梶島は島でなく陸続きの山になった。 梶島山には、中腹を一廻する古い道がある。この道は島の時代からあったと思われる。南側は汐土手が出来るまで海の荒波に洗われる岩場であった。従って、百間土手から真直ぐに西に山を登り、中腹を通り山の西端に出ると、道は現在の大平氏宅の東側を北側に曲り山の西側中腹を北に下ると四ツ堂跡に出る。 四ツ堂跡を直線的に藪の中を北に進むと、石樋畷である。 引野沖浦に着いた人々や荷物は、沖浦から長浜を通り、宅部から百間土手で梶島山に到り、石樋畷から高崎に到る引野バイパス道路が引野佃沖新涯の完成で出来上がった。その道の中間点が、今回発見された四ツ堂跡になる。引野沖浦から梶島山・高崎。市村経由の神辺への大切な道の「休み場」として、当時は大いに活用されたであろうことが想像される。 その後、千間土手が出来(正保四年)、汐土手が出来(寛文八年)るに及んで、道も石樋畷が梶島山の西側を廻って、天当島山に向う大道が出来て、この四ツ堂も何時しか忘れられ、その内に、朽ち果てて、腐らない棟瓦と基礎を残すのみとなり、現在に至っている。 従って、この四ツ堂は正保四年(一六四五)から、寛文八年(一六六八)の間の早い時期に創られ、明治初年までは現存したものと思われる。 (平成25年7月15日)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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