「備陽史探訪:173号」より
田口 由実
真ん中に通路、左右地下に深さ3.8mの池がある。危険なので、見学は入口のみだった。
今年3月29日に福山市佐波町「佐波浄水場」の配水池(ち)・浄水井上屋(せいうわや)・浄水場門の3施設が国の登録有形文化財になった。それを受けて去る7月13日に水道局が現地で一般公開&説明会を開いた。当日3回の説明会があったが、聞いた話によれば総数で60名程ほどか。浄水場の歴史を考えれば、あまりに情けない数字である。
今では建設することができない赤レンガの建造物、その美しい造形はとてもノスタルジアを掻きたてられるが、ここでは水道布設に至った歴史を紹介しておきたい。
そもそも、福山市は水道布設のために市となったのであり、水道布設こそが福山市誕生の原点なのだ。
明治29年に歩兵第41連隊が福山町に置かれ、以来人口が急激に増加。大量の水を確保するため、青木町長は旧水道の水源に一大改修を図る議案を提出。後任の市来町長は旧水道を廃して、新たな上水道の布設する研究に取り組み始めた。芦田川伏流水を取り入れる計画を立てたが、町費負担を恐れた町民により猛烈な反対にあう。熱弁を振るい、あるいは獅子奉咆哮し、説得を試みるが、町民の意向、町会の空気は覆らずと断念。大正3年、辞職を決意し、断腸の思いで、上水道布設に関する事務引継ぎと口演書を草し、去った。
それを引継いだのが、阿武(あんの)信一町長。後に水道市長と呼ばれた、初代福山市長である。
阿武町長は「大正天皇の御大典記念事業として、上水道施設の完成を期する」と提案し、満場一致で可決された。しかし地下水と地表水どちらを利用するか調査を進めるうちに財源問題にぶち当る。
そこで、町長は国庫補助金を頼ることにした。それには、市制施行が大前提である。市制施行に反対する議員もいたが、町長はその必要性を熱く説き、これまた満場一致で可決となった。市制に必要な人口を水増しするなど、非常な苦心を払いながら、斯くして大正5年7月1日、近代水道布設のため市制は施行された。
当時の人口は3万を超え、大量の水の調達は急務であった。それと同時に、排水の垂れ流しによる蓮池や井戸水の汚れ、江戸時代の旧水道設備の老朽化による汚染などで、伝染病も頻発しおり、近代水道布設は待ったなしの状況であった。
にもかかわらず、今度は、「地下水利用」か「芦田川引水」かで市民を二分する論争が巻き起り、市会は紛糾、決着がつかなかった。
大正7年、阿武市長は打開策を模索する。
上水道の布設は、市長としての看板ではない、職責として本市につくさんとする最大の献身であり誠意である。いったん着眼し入念に調査した地下水も、いささかでも不安がともなうならば、これを捨てるに吝かでない、不名誉のことでもなければ、不覚でもない
とし、11月、熊本県出身の技師大石直を招き、福山を中心に25kmの範囲で自然流下式の水源地を探索、熊野村常国寺下渓谷の論田池付近に優秀な水源地を発見するに至った。
しかしその年の夏、大早魃おこり、芦田川が枯渇。本庄村字瀬越に井戸を掘ったところ、一昼夜に292㎡が出て、この井戸8個で、市内の給水がまかなえることが判明したものだから、今度は、熊野水源の「自然流下式」か、本庄水源の「ポンプ式」かで、またしても市会は紛糾。
ポンプ式派は、熊野水源は高所で枯渇の恐れがあることと、遠距離のため故障が発生しやすい。何より多大の工事費が必要となる。ポンプ式の方が工事費が安いと論じ、一方、自然流下式派は、ポンプ式は動力が必要で、動力源が不足する恐れがあるし、ポンプ式は技術者の雇用が必要となる、と両者一歩も引かず。
そのため、工事期間、工事費および市費負担額、総収入支出、経常費を事細かに算出し、水利関係、技術上の問題とあわせて、最後の裁断を行うことにした。
大正8年6月8日に大石技師の師であり、水道の大家、海軍省工務監海軍技師工学博士吉村長策を招聘し、本庄、熊野両水源地の踏査を行い、意見を求めた。
それを参考に、大正9年7月21日に自然流下式案が採択された。水道布設のために市制施行し、既に4年が経過していた。
そして、大正10年3月に認可がおり、やっと工事着手である。
貯水池、浄水場、配水路線、送水路線全域にわたって、用地の買収及び地上物件移転等の交渉が開始された。
その中でも、第一に着工予定だった熊野村貯水池の用地買収が最大の難関だったという。買収やその他の補償の交渉のため「市長以下各関係者は、草履脚絆でてくてく約12kmの道を、朝は暗いうちから出発し、夜は星を仰ぎながら何十回となく足を運」んだ。
大正11年6月いよいよ熊野水源地の工事着工とあいなった。同年11月には浄水場となる城山の山腹の築造に先がけ土石切り均しの工事に着手した。大正13年には、配水管布設工事の中で最も難関を極めた芦田川横断配水管布設工事が着手された。
工事の最中にも、貯水池工事の不進捗問題で大石技師が立腹し辞職したり、福山連隊廃止の問題が降りかかったりと、困難の連続であった。
そして大正14年11月13日、「30星霜の宿望であり懸案であった上水道の布設は、幾多の挫折曲折を経て、着工以来3年5カ月、工事費1696318円の巨費を費やしついに完成した。水源を芦田川に求め、地下水の調査研究を行ない、自然流下の水源を探索し、市会において大論戦を展開し、市民大会なる攻撃も何回か受けなければならない状態の中においても当局者の全知全能を傾注しての、上水道建設への情熱は、全福山市民に、そして社会に、近代文明の陽光をそそぐ日を迎えたのである。」
竣功式と祝賀会は3日間にわたって盛大に行われたという。市制施行から9年の歳月が流れていた。
ちなみに上水道布設費171万円の財源は、公債による借入と、国庫補助、県費補助によって賄われた。
大正14年11月15日に給水を開始した佐波浄水場は、福山の近代化に大きく貢献し、昭和52年老朽化により休止、平成元年に廃止となった。現在は、ろ過池は4池とも埋め立てられ、わずかに笠石の上面が表出するのみで、だだ広い地面にぽつんと浄水井上屋があるのみだ。
かつて周囲はろか池だった。左下方にろ過池の笠石が見えるが、まるで砂漠に建っているような感じだった。
今後は公園として整備される予定だそうだが、もし配水池を見る機会があれば、赤レンガの正面、白い木2扉の上部に掲げられた大理石の記念額を見てほしい。阿武市長直筆の「不舎晝夜(ふしゃちゅうや)」の文字が刻まれている。これは「不断水を意味するとともに、建設の苦労、喜び、福山永遠の発展、市民の幸福、これら上水道完成に伴うすべての象徴」であると云う。
《引用及び参考文献》
『福山水道史』福山水道局(昭和43年)
「登録有形文化財(佐波浄水場跡地)について)」(当日配布資料)
https://bingo-history.net/archives/12833https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/0fc96214ed574289a24f464b5c739fcf.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/0fc96214ed574289a24f464b5c739fcf-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:173号」より
田口 由実 真ん中に通路、左右地下に深さ3.8mの池がある。危険なので、見学は入口のみだった。
今年3月29日に福山市佐波町「佐波浄水場」の配水池(ち)・浄水井上屋(せいうわや)・浄水場門の3施設が国の登録有形文化財になった。それを受けて去る7月13日に水道局が現地で一般公開&説明会を開いた。当日3回の説明会があったが、聞いた話によれば総数で60名程ほどか。浄水場の歴史を考えれば、あまりに情けない数字である。 今では建設することができない赤レンガの建造物、その美しい造形はとてもノスタルジアを掻きたてられるが、ここでは水道布設に至った歴史を紹介しておきたい。 そもそも、福山市は水道布設のために市となったのであり、水道布設こそが福山市誕生の原点なのだ。 明治29年に歩兵第41連隊が福山町に置かれ、以来人口が急激に増加。大量の水を確保するため、青木町長は旧水道の水源に一大改修を図る議案を提出。後任の市来町長は旧水道を廃して、新たな上水道の布設する研究に取り組み始めた。芦田川伏流水を取り入れる計画を立てたが、町費負担を恐れた町民により猛烈な反対にあう。熱弁を振るい、あるいは獅子奉咆哮し、説得を試みるが、町民の意向、町会の空気は覆らずと断念。大正3年、辞職を決意し、断腸の思いで、上水道布設に関する事務引継ぎと口演書を草し、去った。 それを引継いだのが、阿武(あんの)信一町長。後に水道市長と呼ばれた、初代福山市長である。 阿武町長は「大正天皇の御大典記念事業として、上水道施設の完成を期する」と提案し、満場一致で可決された。しかし地下水と地表水どちらを利用するか調査を進めるうちに財源問題にぶち当る。 そこで、町長は国庫補助金を頼ることにした。それには、市制施行が大前提である。市制施行に反対する議員もいたが、町長はその必要性を熱く説き、これまた満場一致で可決となった。市制に必要な人口を水増しするなど、非常な苦心を払いながら、斯くして大正5年7月1日、近代水道布設のため市制は施行された。 当時の人口は3万を超え、大量の水の調達は急務であった。それと同時に、排水の垂れ流しによる蓮池や井戸水の汚れ、江戸時代の旧水道設備の老朽化による汚染などで、伝染病も頻発しおり、近代水道布設は待ったなしの状況であった。 にもかかわらず、今度は、「地下水利用」か「芦田川引水」かで市民を二分する論争が巻き起り、市会は紛糾、決着がつかなかった。 大正7年、阿武市長は打開策を模索する。 上水道の布設は、市長としての看板ではない、職責として本市につくさんとする最大の献身であり誠意である。いったん着眼し入念に調査した地下水も、いささかでも不安がともなうならば、これを捨てるに吝かでない、不名誉のことでもなければ、不覚でもない とし、11月、熊本県出身の技師大石直を招き、福山を中心に25kmの範囲で自然流下式の水源地を探索、熊野村常国寺下渓谷の論田池付近に優秀な水源地を発見するに至った。 しかしその年の夏、大早魃おこり、芦田川が枯渇。本庄村字瀬越に井戸を掘ったところ、一昼夜に292㎡が出て、この井戸8個で、市内の給水がまかなえることが判明したものだから、今度は、熊野水源の「自然流下式」か、本庄水源の「ポンプ式」かで、またしても市会は紛糾。 ポンプ式派は、熊野水源は高所で枯渇の恐れがあることと、遠距離のため故障が発生しやすい。何より多大の工事費が必要となる。ポンプ式の方が工事費が安いと論じ、一方、自然流下式派は、ポンプ式は動力が必要で、動力源が不足する恐れがあるし、ポンプ式は技術者の雇用が必要となる、と両者一歩も引かず。 そのため、工事期間、工事費および市費負担額、総収入支出、経常費を事細かに算出し、水利関係、技術上の問題とあわせて、最後の裁断を行うことにした。 大正8年6月8日に大石技師の師であり、水道の大家、海軍省工務監海軍技師工学博士吉村長策を招聘し、本庄、熊野両水源地の踏査を行い、意見を求めた。 それを参考に、大正9年7月21日に自然流下式案が採択された。水道布設のために市制施行し、既に4年が経過していた。 そして、大正10年3月に認可がおり、やっと工事着手である。 貯水池、浄水場、配水路線、送水路線全域にわたって、用地の買収及び地上物件移転等の交渉が開始された。 その中でも、第一に着工予定だった熊野村貯水池の用地買収が最大の難関だったという。買収やその他の補償の交渉のため「市長以下各関係者は、草履脚絆でてくてく約12kmの道を、朝は暗いうちから出発し、夜は星を仰ぎながら何十回となく足を運」んだ。 大正11年6月いよいよ熊野水源地の工事着工とあいなった。同年11月には浄水場となる城山の山腹の築造に先がけ土石切り均しの工事に着手した。大正13年には、配水管布設工事の中で最も難関を極めた芦田川横断配水管布設工事が着手された。 工事の最中にも、貯水池工事の不進捗問題で大石技師が立腹し辞職したり、福山連隊廃止の問題が降りかかったりと、困難の連続であった。 そして大正14年11月13日、「30星霜の宿望であり懸案であった上水道の布設は、幾多の挫折曲折を経て、着工以来3年5カ月、工事費1696318円の巨費を費やしついに完成した。水源を芦田川に求め、地下水の調査研究を行ない、自然流下の水源を探索し、市会において大論戦を展開し、市民大会なる攻撃も何回か受けなければならない状態の中においても当局者の全知全能を傾注しての、上水道建設への情熱は、全福山市民に、そして社会に、近代文明の陽光をそそぐ日を迎えたのである。」 竣功式と祝賀会は3日間にわたって盛大に行われたという。市制施行から9年の歳月が流れていた。 ちなみに上水道布設費171万円の財源は、公債による借入と、国庫補助、県費補助によって賄われた。 大正14年11月15日に給水を開始した佐波浄水場は、福山の近代化に大きく貢献し、昭和52年老朽化により休止、平成元年に廃止となった。現在は、ろ過池は4池とも埋め立てられ、わずかに笠石の上面が表出するのみで、だだ広い地面にぽつんと浄水井上屋があるのみだ。 かつて周囲はろか池だった。左下方にろ過池の笠石が見えるが、まるで砂漠に建っているような感じだった。
今後は公園として整備される予定だそうだが、もし配水池を見る機会があれば、赤レンガの正面、白い木2扉の上部に掲げられた大理石の記念額を見てほしい。阿武市長直筆の「不舎晝夜(ふしゃちゅうや)」の文字が刻まれている。これは「不断水を意味するとともに、建設の苦労、喜び、福山永遠の発展、市民の幸福、これら上水道完成に伴うすべての象徴」であると云う。 《引用及び参考文献》
『福山水道史』福山水道局(昭和43年)
「登録有形文化財(佐波浄水場跡地)について)」(当日配布資料)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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