「備陽史探訪:173号」より
岡田 宏一郎
ぶら探訪でも福山地域の力士の墓を見ているし、会報165号に大分便りとして後藤匡史氏が「頭取の墓」について書かれている。こうしたことに触発され小生も松永地域の出身力士について書いてみることにした。
昔は相撲が庶民の楽しみであり人気も高く、また武道奨励の風潮の中で小学校にも相撲場が作られていた。さらに神社の祭礼などでも相撲大会が盛んに行われていた。
小生も祭りなどで小学生の時に相撲大会に参加したことがある。五人抜きの試合であったが二番までしか勝てなかった。とにかく参加賞が目当てで参加したのであったが、楽しかったし、中学時代には昼休みになるとよく相撲をしていた。強さは中程度ほどだったが楽しい昼休みの娯楽だった。まあ~そんな思い出からも書いてみる気になったのである。
力士(相撲取り)は昔から人気があるためか、各地域で力士の記念碑や自然石の墓を見かけることがある。ここ松永地域でも幕末から明治期以降にかけて活躍した力士の名前を資料から見かけることが出来る。相撲は神社の祭典などで奉納相撲が行われていたし、教育にも盛んに取り入れられ町や村、郡などで相撲大会などが行われていて庶民の楽しみや学校対抗の場でもあった。
さて松永地域の力士について『松永町誌』の中に明治期以降に「濱之松、男山、小勇、勇灘、松ヶ崎、合掌山、十七男、鷲ヶ濱」などの近郷に聞こえていた力士がいたと書かれている。その中で「濱之松 音五郎」は二十五両まで進み、潮崎神社の境内を入った右側祠のそばに碑が建てられているので見ることが出来る。
初代男山(上田庄助)は大正十一年、二代男山(上田武夫)は昭和四年に亡くなっている。四代男山(上田貞美)は海軍部内切っての力士であったが、昭和十九年軍艦長門と運命を共にしている。備州山(三谷順一)は大正九年に松永に生まれ十七歳の時、松永出身の貴族院議員丸山鶴吉などの紹介で東京相撲伊勢ヶ浜部屋に入る。十両になると郷党の有志は後援会を作って化粧揮を贈り前途を祝福した。昭和十四年に郷土入りして後援会主催で東京大相撲が行われている。昭和十六年に幕内に入り、昭和三十年に関脇まで進んだ。松永。今津の郷土雑誌『青むしろ十月琥』(昭和九年)の中にも「郷土の力士」として松永町の力士に「濱之松(二十五両)、草柳、小勇、勇灘、男山、松ヶ崎、宮川、鷲ヶ濱、合掌山、十七勇」の名前が書かれている。今津町出身力士として「金手岩(六十目)、沖の濱」(五十目)」が、柳津村には「草摺(二十五両)、盤石」、東村には「千田川、大正山、大見崎」の名前がある。
その他の地域では、水呑村には「浦の松、若鶴、粂右衛門」、鞆町には「鞆の平(関脇)、大錨、藤波、鞆錨、柳勇、伊豫藏」など鞆らしい力士名がある。
戦前の事だが郷土出身の力士が多くいたことがわかる。柳津村出身力士の墓が柳津町常泉寺門前横の墓地に自然石に刻まれた墓がある。
左が「草摺 長藏」の墓(大阪相撲で十両格)。右が「銕王山 松之助」の墓(大阪相撲の幕下格)
その一人である「草摺 長蔵」は文化十一年柳津村中組に生まれた。大坂中相撲上位(十両格)までいく。(嘉永四年四月に東二段四枚目、安政二年六月に東二段十七枚目であった)
もう一人の力士は「銕王山 松之助」で、大阪中相撲中位(幕下格)であった。同じく草摺関の隣に自然石に刻まれた墓がある。
銕王山は安政元年七月に東二段目、万延元年六月にも東二段目であった。明治期に大坂相撲で活躍した力士に「盤石 勝次郎」がいた。柳津村で文久二年に生まれ、本名は森本勝太郎という。明治二十二年に入幕し、明治三十八年まで活躍した。最高位は「西前頭 筆頭」であった。引退して「北陣幕 久次郎」を襲名した。墓は娘トミエの嫁ぎ先である大阪にあり、自然石の墓石に「備後産 盤石事四代目 北陣幕久治郎墓」と刻まれている。
力士の墓や記念碑を例会などで見かけたら注意してみると面白いかもしれない。
《引用及び参考文献》
『松永町誌』
『郷土雑誌 青むしろ第二巻第十号 郷土體育琥』(昭和九年)
『歴史・文化研究柳津大会記念誌柳津の歴史に光を』(2011年3月 松永地区・歴史・文化再発見の会)
https://bingo-history.net/archives/12819https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/6a9c92ac43805800adbdbdc6b911da7e.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/6a9c92ac43805800adbdbdc6b911da7e-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:173号」より
岡田 宏一郎 ぶら探訪でも福山地域の力士の墓を見ているし、会報165号に大分便りとして後藤匡史氏が「頭取の墓」について書かれている。こうしたことに触発され小生も松永地域の出身力士について書いてみることにした。 昔は相撲が庶民の楽しみであり人気も高く、また武道奨励の風潮の中で小学校にも相撲場が作られていた。さらに神社の祭礼などでも相撲大会が盛んに行われていた。 小生も祭りなどで小学生の時に相撲大会に参加したことがある。五人抜きの試合であったが二番までしか勝てなかった。とにかく参加賞が目当てで参加したのであったが、楽しかったし、中学時代には昼休みになるとよく相撲をしていた。強さは中程度ほどだったが楽しい昼休みの娯楽だった。まあ~そんな思い出からも書いてみる気になったのである。 力士(相撲取り)は昔から人気があるためか、各地域で力士の記念碑や自然石の墓を見かけることがある。ここ松永地域でも幕末から明治期以降にかけて活躍した力士の名前を資料から見かけることが出来る。相撲は神社の祭典などで奉納相撲が行われていたし、教育にも盛んに取り入れられ町や村、郡などで相撲大会などが行われていて庶民の楽しみや学校対抗の場でもあった。 さて松永地域の力士について『松永町誌』の中に明治期以降に「濱之松、男山、小勇、勇灘、松ヶ崎、合掌山、十七男、鷲ヶ濱」などの近郷に聞こえていた力士がいたと書かれている。その中で「濱之松 音五郎」は二十五両まで進み、潮崎神社の境内を入った右側祠のそばに碑が建てられているので見ることが出来る。 初代男山(上田庄助)は大正十一年、二代男山(上田武夫)は昭和四年に亡くなっている。四代男山(上田貞美)は海軍部内切っての力士であったが、昭和十九年軍艦長門と運命を共にしている。備州山(三谷順一)は大正九年に松永に生まれ十七歳の時、松永出身の貴族院議員丸山鶴吉などの紹介で東京相撲伊勢ヶ浜部屋に入る。十両になると郷党の有志は後援会を作って化粧揮を贈り前途を祝福した。昭和十四年に郷土入りして後援会主催で東京大相撲が行われている。昭和十六年に幕内に入り、昭和三十年に関脇まで進んだ。松永。今津の郷土雑誌『青むしろ十月琥』(昭和九年)の中にも「郷土の力士」として松永町の力士に「濱之松(二十五両)、草柳、小勇、勇灘、男山、松ヶ崎、宮川、鷲ヶ濱、合掌山、十七勇」の名前が書かれている。今津町出身力士として「金手岩(六十目)、沖の濱」(五十目)」が、柳津村には「草摺(二十五両)、盤石」、東村には「千田川、大正山、大見崎」の名前がある。 その他の地域では、水呑村には「浦の松、若鶴、粂右衛門」、鞆町には「鞆の平(関脇)、大錨、藤波、鞆錨、柳勇、伊豫藏」など鞆らしい力士名がある。 戦前の事だが郷土出身の力士が多くいたことがわかる。柳津村出身力士の墓が柳津町常泉寺門前横の墓地に自然石に刻まれた墓がある。 左が「草摺 長藏」の墓(大阪相撲で十両格)。右が「銕王山 松之助」の墓(大阪相撲の幕下格) その一人である「草摺 長蔵」は文化十一年柳津村中組に生まれた。大坂中相撲上位(十両格)までいく。(嘉永四年四月に東二段四枚目、安政二年六月に東二段十七枚目であった) もう一人の力士は「銕王山 松之助」で、大阪中相撲中位(幕下格)であった。同じく草摺関の隣に自然石に刻まれた墓がある。 銕王山は安政元年七月に東二段目、万延元年六月にも東二段目であった。明治期に大坂相撲で活躍した力士に「盤石 勝次郎」がいた。柳津村で文久二年に生まれ、本名は森本勝太郎という。明治二十二年に入幕し、明治三十八年まで活躍した。最高位は「西前頭 筆頭」であった。引退して「北陣幕 久次郎」を襲名した。墓は娘トミエの嫁ぎ先である大阪にあり、自然石の墓石に「備後産 盤石事四代目 北陣幕久治郎墓」と刻まれている。 力士の墓や記念碑を例会などで見かけたら注意してみると面白いかもしれない。 《引用及び参考文献》
『松永町誌』
『郷土雑誌 青むしろ第二巻第十号 郷土體育琥』(昭和九年)
『歴史・文化研究柳津大会記念誌柳津の歴史に光を』(2011年3月 松永地区・歴史・文化再発見の会)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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