春日宮と常福寺(渡辺氏の庇護と盛衰)

備陽史探訪:105号」より

小林 定市

先号に続いて、渡邊越中守兼が書いた『先祖覚書』の終わりに次の件がある。

笠岡陣を直通御取退き候て、十日計りより陶山方を取り操り既に三吉殿息女を以って縁変(婚約)に取成す、あまつさえ草戸に於いて直通其の外昨日今日に至り責詰め候。強敵の陶山方と大参会(遊興)候。彼の祝言参会以下の苦労一分(一身の面目)にて取り賄い申し候

正確な年代は不明であるが、後に木梨氏との間に発生した抗争事件から年代を推定すると、文亀元年(一五〇一)頃が妥当と推定する。文意の内容が判然としないが、陶山氏(笠岡市を本拠)の守る笠岡近辺を山内直通(庄原市を本拠)が攻撃した後、両者の間に越中守兼が入り和談を進め、三吉氏(三次市を本拠)の息女を陶山氏に嫁がせ、戦いを円満に解決させた記録の様である。

渡邊氏の系図によると、越中守兼には五人の弟がおり直弟の杢之允正の所には「備中国小田郡小平井村地頭同所に常福寺を建てる」との記載が見られる。現在小平井の春日神社参道に岡山県指定の石造美術品花崗閃緑岩の石鳥居が立っている。

明神鳥居の額表に「春日宮」、額裏には「領主渡邊杢之允正天文五丙申年(一五三六)九月」の陰彫銘文が刻まれている。鳥居の総高は三M余、笠木の長さ四M余、柱間芯下部の幅三M弱の大きさで、荒削りの力強い二本の柱、緩やかに半月を描く笠石の反り、豪壮な鳥居の姿は岡山県下では三指に入る傑作と評価されている。

参道の石鳥居手前の東方に、渡邊杢之允正が建立したと伝えられる日蓮宗春日山常福寺(現在の乗福寺)がある。寺伝に依ると常福寺は正平十五年(一三六〇)に京都妙顕寺の大覚妙実が開基し、天文年間に渡邊杢之允正が再興した寺とされて来た。

備後の渡邊一族が建立した寺は、山田村の常国寺を始めとして、野々浜村の蓮瑞寺に福山市の通安寺の三ヶ寺は、何れも創建当初から京都本法寺の末寺であった。渡邊正の常福寺だけが一族の本山と異なる妙顕寺系の僧であったとは考え難い。

乗福寺の寺伝を検討してみると、開基の大覚妙実は貞冶三年(一三六四)に死没しており、次いで二祖の円照院日厳は二七三年後の寛永十四年(一六三七)に死没、三祖の蓮住院日体の没年は寛文三年(一六六三)であった。開基と二祖の没年に二七三年もの開きは異常であろう。

渡邊正が建立した天文初年頃から、二祖の円照院日厳が住職に入院したと推定される慶長初中年頃の間には、約七十年程度の空白があり、住僧は同じ日蓮宗でも本法寺系から妙顕寺系に変わったものと考えられる。

渡邊氏が本拠としてきた草戸千軒を含む草戸には、地頭長井頼秀が創建したと考えられる真言律宗の常福寺(現在の明王院)があり、寺の管理記録は残されていないが、渡邊氏が百数十年に亘り庇護し管理運営にも力を注いでいたのは確かである。

渡邊氏四代が草戸で深い関係にあった常福寺の寺名を、渡邊正は先祖の故地を意識してか、建立した新寺の寺名としたのであろう。兄の渡邊越中守兼が建立した山田の常国寺も、草戸常福寺の福と国の一字が相違するだけの寺名を付けている。

通説では、草戸千軒は記録の少ない幻の繁栄した町と喧伝されてきたが果たして本当であろうか。常福寺の開基に就いては、近世中期に観音堂修理の際に書かれた棟札の弘法大師説が現在も肯定され続けている。当時、観音堂と五重塔に建立者頼秀の銘文が記されていたことは知られておらず、常福寺が奈良の真言律宗西大寺の末寺であった事も伝えられていなかった。

備後初代の渡邊高は、山名氏の被官となって山名氏が支配していた草戸の代官を相伝。三代渡辺家は山名是豊に従い各地を転戦したが、後に是豊が戦いに敗れ没落すると、敵対していた山名政豊から草戸を没収された。二年後に渡辺家は政豊から許され草戸を安堵されている。この様に草戸の支配権は山名氏が完全に掌握しており、室町時代は守護領として推移していた。

草戸の地先を流れる芦田川の上流には、室町時代備後守護山名氏が備後支配の拠点としてきた府中の八尾山城があった。

河海交通の要地であった草戸と、山名氏の拠点八尾が芦田川を通じて結ばれていたことを考慮すると、草戸の繁栄は八尾の影響を多分に受け、地形的にも八尾の玄関口の役割を果たしていた様である。

足利幕府と山名氏の権力が次第に低下し、守護の草戸に対する重要性と魅力が減退すると、渡邊兄弟は草戸を見限り新天地の山田と小平井に分れ、新たに寺を創建して戦国乱世に力強い一歩を踏み出した。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/06/IMG_5300-1024x768.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/06/IMG_5300-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:105号」より 小林 定市 先号に続いて、渡邊越中守兼が書いた『先祖覚書』の終わりに次の件がある。 笠岡陣を直通御取退き候て、十日計りより陶山方を取り操り既に三吉殿息女を以って縁変(婚約)に取成す、あまつさえ草戸に於いて直通其の外昨日今日に至り責詰め候。強敵の陶山方と大参会(遊興)候。彼の祝言参会以下の苦労一分(一身の面目)にて取り賄い申し候 正確な年代は不明であるが、後に木梨氏との間に発生した抗争事件から年代を推定すると、文亀元年(一五〇一)頃が妥当と推定する。文意の内容が判然としないが、陶山氏(笠岡市を本拠)の守る笠岡近辺を山内直通(庄原市を本拠)が攻撃した後、両者の間に越中守兼が入り和談を進め、三吉氏(三次市を本拠)の息女を陶山氏に嫁がせ、戦いを円満に解決させた記録の様である。 渡邊氏の系図によると、越中守兼には五人の弟がおり直弟の杢之允正の所には「備中国小田郡小平井村地頭同所に常福寺を建てる」との記載が見られる。現在小平井の春日神社参道に岡山県指定の石造美術品花崗閃緑岩の石鳥居が立っている。 明神鳥居の額表に「春日宮」、額裏には「領主渡邊杢之允正天文五丙申年(一五三六)九月」の陰彫銘文が刻まれている。鳥居の総高は三M余、笠木の長さ四M余、柱間芯下部の幅三M弱の大きさで、荒削りの力強い二本の柱、緩やかに半月を描く笠石の反り、豪壮な鳥居の姿は岡山県下では三指に入る傑作と評価されている。 参道の石鳥居手前の東方に、渡邊杢之允正が建立したと伝えられる日蓮宗春日山常福寺(現在の乗福寺)がある。寺伝に依ると常福寺は正平十五年(一三六〇)に京都妙顕寺の大覚妙実が開基し、天文年間に渡邊杢之允正が再興した寺とされて来た。 備後の渡邊一族が建立した寺は、山田村の常国寺を始めとして、野々浜村の蓮瑞寺に福山市の通安寺の三ヶ寺は、何れも創建当初から京都本法寺の末寺であった。渡邊正の常福寺だけが一族の本山と異なる妙顕寺系の僧であったとは考え難い。 乗福寺の寺伝を検討してみると、開基の大覚妙実は貞冶三年(一三六四)に死没しており、次いで二祖の円照院日厳は二七三年後の寛永十四年(一六三七)に死没、三祖の蓮住院日体の没年は寛文三年(一六六三)であった。開基と二祖の没年に二七三年もの開きは異常であろう。 渡邊正が建立した天文初年頃から、二祖の円照院日厳が住職に入院したと推定される慶長初中年頃の間には、約七十年程度の空白があり、住僧は同じ日蓮宗でも本法寺系から妙顕寺系に変わったものと考えられる。 渡邊氏が本拠としてきた草戸千軒を含む草戸には、地頭長井頼秀が創建したと考えられる真言律宗の常福寺(現在の明王院)があり、寺の管理記録は残されていないが、渡邊氏が百数十年に亘り庇護し管理運営にも力を注いでいたのは確かである。 渡邊氏四代が草戸で深い関係にあった常福寺の寺名を、渡邊正は先祖の故地を意識してか、建立した新寺の寺名としたのであろう。兄の渡邊越中守兼が建立した山田の常国寺も、草戸常福寺の福と国の一字が相違するだけの寺名を付けている。 通説では、草戸千軒は記録の少ない幻の繁栄した町と喧伝されてきたが果たして本当であろうか。常福寺の開基に就いては、近世中期に観音堂修理の際に書かれた棟札の弘法大師説が現在も肯定され続けている。当時、観音堂と五重塔に建立者頼秀の銘文が記されていたことは知られておらず、常福寺が奈良の真言律宗西大寺の末寺であった事も伝えられていなかった。 備後初代の渡邊高は、山名氏の被官となって山名氏が支配していた草戸の代官を相伝。三代渡辺家は山名是豊に従い各地を転戦したが、後に是豊が戦いに敗れ没落すると、敵対していた山名政豊から草戸を没収された。二年後に渡辺家は政豊から許され草戸を安堵されている。この様に草戸の支配権は山名氏が完全に掌握しており、室町時代は守護領として推移していた。 草戸の地先を流れる芦田川の上流には、室町時代備後守護山名氏が備後支配の拠点としてきた府中の八尾山城があった。 河海交通の要地であった草戸と、山名氏の拠点八尾が芦田川を通じて結ばれていたことを考慮すると、草戸の繁栄は八尾の影響を多分に受け、地形的にも八尾の玄関口の役割を果たしていた様である。 足利幕府と山名氏の権力が次第に低下し、守護の草戸に対する重要性と魅力が減退すると、渡邊兄弟は草戸を見限り新天地の山田と小平井に分れ、新たに寺を創建して戦国乱世に力強い一歩を踏み出した。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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