仁井川沿いを歩く

備陽史探訪:182号」より

種本 実

連載「川筋を訪ねて」【その九】

石柱
石柱
芦田川の支流の高屋川、その支流の竹田川は神辺町から遡って、坪生町に入ると仁井川となる。川幅はすっかり細くなって、その先は笠岡市の篠坂になる。

川の傍に石柱が立っているのが遠目にも分る。位置は県境をわずかに超えて笠岡市となっている。石柱の上部には仏像が彫ってあるが、その下の梵字らしき文字は風化していてよくわからない。

紙屋堂跡

紙屋堂跡
紙屋堂跡
仁井川の北側の集落の東にコンクリート製のお堂があった。坪生郷土史研究会による説明版が立っている。お堂は「紙屋堂跡」であり、中には台座一基と九基の石仏がある。石仏の下部に牛も彫り込まれているのは、農耕用に飼育されていた牛の供養と思われる。

三十年余り前に台風で倒壊して現在のように再建されたが、かつては藁葺のお堂であったそうだ。

通説では、四つ堂は旅人の憩いにと、街道の脇に建てられた。四本の柱からなるので「四つ堂」と呼ばれるが、「福山志料」には「憩亭」と記述されていて、坪生村には十四箇所あると記述されている。

説明版によれば、その内の「紙屋堂」がこのお堂であるという。「紙屋」という名称について地元の方々に尋ねてみた。

かつて、当地で庄屋を務めた屋号「田口」家の桑田家から分家した家のうちの、屋号「神屋」の屋敷が、このお堂が建っている村の東にあったことに由来するようだ。

桑田家は沼隈町の山南から移住してきた家で、その歴史を刻む坪生町の旧家は現在十三代目だという。昨年、石造物の調査で訪ねた山南の伍真寺の傍に、丸山城址の石碑が建っていた。

石碑によれば、桑田氏は九州の大友氏の一族であり、大永年間には、丹波国の桑田郡と何鹿郡を領していた。後に、毛利氏の旗下となり丸山城を築いた。しかし、徳川氏の世になると一族は離散したという。この石碑は昭和十四年に、丸山城の初代である桑田信房の三百五十回忌の記念に建立した旨も刻まれている。

天満天神社

天満天神社
天満天神社
仁井川の南には天満池がある。傍には池の改修記念の石碑と、桑田家の墓地がある。一基の墓標には「天満屋」の屋号が刻まれている。「天満池」、「天満屋」という名称は、池の南の丘に鎮座している天満天神社に由来する。

住宅地図では「天満神社」と記されてあったので、「天満屋」の屋号の、桑田家の氏神だろうと思っていたが、神社を訪ねてみると菅原道真を祀る天神社であるとわかった。鳥居の額束には「天満宮」とある。

「天満」とは、菅原道真が死後に「天満大自在天神」という神号を贈られたことがその由来という。手元の辞典によると「天満宮」と称する神社は全国に六十箇所余りある。

天満宮といえば梅であり、天満天神社の境内にも梅の木が植栽されているので、早春の開花の時期が楽しみである。

半鐘櫓
半鐘櫓
境内には使われなくなって久しい半鐘櫓が立っている。シンボルの鐘も失っていて所在なさそうに見えるけれど、むろの木を用いているという、長い二本の柱は風雪に耐えて、本殿や鳥居と共に当地の歴史を見守っているかのようだ。   

福山市の名誉市民である故・桑田笹舟氏の生家はすぐ近くにあった。傍の四つ堂などと共に、次号で紹介することにしたい。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/def2fcbed9183d31403d467e7cecdc01.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/def2fcbed9183d31403d467e7cecdc01-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:182号」より 種本 実 連載「川筋を訪ねて」【その九】 芦田川の支流の高屋川、その支流の竹田川は神辺町から遡って、坪生町に入ると仁井川となる。川幅はすっかり細くなって、その先は笠岡市の篠坂になる。 川の傍に石柱が立っているのが遠目にも分る。位置は県境をわずかに超えて笠岡市となっている。石柱の上部には仏像が彫ってあるが、その下の梵字らしき文字は風化していてよくわからない。 紙屋堂跡 仁井川の北側の集落の東にコンクリート製のお堂があった。坪生郷土史研究会による説明版が立っている。お堂は「紙屋堂跡」であり、中には台座一基と九基の石仏がある。石仏の下部に牛も彫り込まれているのは、農耕用に飼育されていた牛の供養と思われる。 三十年余り前に台風で倒壊して現在のように再建されたが、かつては藁葺のお堂であったそうだ。 通説では、四つ堂は旅人の憩いにと、街道の脇に建てられた。四本の柱からなるので「四つ堂」と呼ばれるが、「福山志料」には「憩亭」と記述されていて、坪生村には十四箇所あると記述されている。 説明版によれば、その内の「紙屋堂」がこのお堂であるという。「紙屋」という名称について地元の方々に尋ねてみた。 かつて、当地で庄屋を務めた屋号「田口」家の桑田家から分家した家のうちの、屋号「神屋」の屋敷が、このお堂が建っている村の東にあったことに由来するようだ。 桑田家は沼隈町の山南から移住してきた家で、その歴史を刻む坪生町の旧家は現在十三代目だという。昨年、石造物の調査で訪ねた山南の伍真寺の傍に、丸山城址の石碑が建っていた。 石碑によれば、桑田氏は九州の大友氏の一族であり、大永年間には、丹波国の桑田郡と何鹿郡を領していた。後に、毛利氏の旗下となり丸山城を築いた。しかし、徳川氏の世になると一族は離散したという。この石碑は昭和十四年に、丸山城の初代である桑田信房の三百五十回忌の記念に建立した旨も刻まれている。 天満天神社 仁井川の南には天満池がある。傍には池の改修記念の石碑と、桑田家の墓地がある。一基の墓標には「天満屋」の屋号が刻まれている。「天満池」、「天満屋」という名称は、池の南の丘に鎮座している天満天神社に由来する。 住宅地図では「天満神社」と記されてあったので、「天満屋」の屋号の、桑田家の氏神だろうと思っていたが、神社を訪ねてみると菅原道真を祀る天神社であるとわかった。鳥居の額束には「天満宮」とある。 「天満」とは、菅原道真が死後に「天満大自在天神」という神号を贈られたことがその由来という。手元の辞典によると「天満宮」と称する神社は全国に六十箇所余りある。 天満宮といえば梅であり、天満天神社の境内にも梅の木が植栽されているので、早春の開花の時期が楽しみである。 境内には使われなくなって久しい半鐘櫓が立っている。シンボルの鐘も失っていて所在なさそうに見えるけれど、むろの木を用いているという、長い二本の柱は風雪に耐えて、本殿や鳥居と共に当地の歴史を見守っているかのようだ。    福山市の名誉市民である故・桑田笹舟氏の生家はすぐ近くにあった。傍の四つ堂などと共に、次号で紹介することにしたい。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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